忍者・間宮林蔵 樺太発見の後に…
文化六年(1809年)5月17日、前年から樺太探検を行っていた間宮林蔵が、シベリアと樺太とが海をへだてている事を証明し、樺太が島である事を確認しました。
この海は、「間宮海峡」と名付けられ、現在も世界地図にその名を残しています。
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もちろん、樺太(カラフト)が島である事は、間宮林蔵が発見するず~っと前から、アイヌ民族の人たちは知っていましたし、当時の中国でも確認していましたが、コロンブスの「アメリカ大陸発見」と同様に、こういうのは、世界地理の立場から、学問的に証明してみせて初めて「発見・確認」となるので、やはり「間宮林蔵が間宮海峡を発見した」という事でよいのではないかと思います。
間宮林蔵(まみやりんぞう)は、あの『大日本沿海輿地全図』を作成した伊能忠敬(いのうただたか)(9月4日参照>>)から天文学・地理学を学びました。
忠敬から測量器具などを譲り受けている事からもわかるように、かなり優秀な弟子だったようです。
当時の日本は、ロシアとの関係上、このあたりの地理をしっかりと確認しておかないと、「いつの間にか北海道がロシア領になっていた」って事にもなりかねない状況で、北方への関心が一気に高まっていた時期だったのです。
また、世界的な地理の分野でも、樺太が島なのか?半島なのか?という事が論争されていた時でもありました。
そんな中で、二年に渡る決死の探検の結果、樺太が島である事を確認した事は、非常に貴重な発見と評価され、彼が発見した海も「間宮海峡」と命名され、まさに歴史に名を残す偉大な探険家として知られる人物となるわけです。
彼は、その偉業を成し遂げた後、しばらくの間、北海道と江戸を行ったり来たりの生活を続けていましたが、50歳頃からは、江戸に落ち着いて深川でひっそりと生活をしておりました。
しかし、彼が54歳の時、人生を変える一大事件が発覚します。
それは、日本史上でも有名な「シーボルト事件」です。
シーボルトは文政六年(1823年)に来日したドイツ人医師で、長崎にて「鳴滝塾」を開き、診療のかたわら、高野長英や伊藤圭介などに医学を教え、多くの優秀な人材を育てた人物です。
そんなシーボルトは、故国・オランダが運営する「東インド会社」の依頼もあり、また彼自身が日本を大好きな事もあって、日本滞在中は趣味と実益を兼ねて、様々な品物を日本研究の成果として集めていました。
やがて、文政十一年(1828年)シーボルトは帰国の途につきますが、残念ながら彼の乗った船が嵐に遭い、長崎湾内で座礁してしまうのです。
その事故がきっかけで、その積荷の中に、シーボルトの所持品として、あの伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』があった事が発覚するのです。
当時に限らず、今でも詳細で正確な地図は軍事機密とされるくらいです。
まして、鎖国制度下の日本では、外国に地図など持ち出して良いわけがありません。
当然、シーボルトは一年間の足止めをされた後、国外追放となり、あの地図が誰からシーボルトの手に渡ったのか?が厳しく追及される事になります。
やがて、幕府天文方・高橋景保なる人物が逮捕されます。
景保は、シーボルトの持っていたロシアのクルーゼンシュテルノン提督の書いた『世界周航記』という本がどうしても欲しかったんですね~。
その本には、彼にとって未だ知らぬ北方領土の事がくわしく書かれていたのです。
つまり、景保はその本と、忠敬の地図を交換したわけです。
逮捕された景保は、「祖国を外国へ売り渡すに等しい行為」との非難を受け、獄中にて病死します(覚悟の自決とも)(2月16日参照>>)。
この景保という人は、林蔵の恩師でもありました。
林蔵を樺太探検の一員として推薦してくれたのは、他ならぬ景保その人だったのです。
ところが、どっこい、実はシーボルトに地図を渡したのが景保である事を幕府にチクッたのは、実は、林蔵だったのです。
でも、「恩を仇で返すなど、なんて悪いヤツだ!この、裏切り者!」と、彼を非難するのは、勘弁してあげてください。
彼は、裏切ったのではなく、職務を遂行しただけ。
実は、探検家としての林蔵は、仮の姿・・・探検家は彼の副業で、本職は公儀隠密・・・つまり、「忍者=スパイ」が本職だったのです。
ただ、いくら職務に忠実だっただけとは言え、やはり恩師を売った彼の行為は非難の対象とされ、それ以降、林蔵は陰の世界で忍者としてのみ生きていく事となります。
天保元年(1830年)には、僧の姿で薩摩に潜入・・・鹿児島城に襖の職人として入り込み、鹿児島城の詳細な見取り図を幕府に提出しています。
天保七年(1836年)には、石州浜田(島根県)に、物乞いの姿で潜入し、竹島を本拠地として密貿易を繰り返していた廻船問屋・会津屋八兵衛を捜査・逮捕しています。
しかし本業の隠密で、このような輝かしい実績を残しても、裏切り者としての汚名は返上できず、彼に対する世間の目は厳しいものでした。
幼い頃は、活発でおしゃべり、明るくてひょうきんな少年だった林蔵は、陰に生き、陰に死んでゆく宿命を背負ったまま、天保十五年(1844年)2月26日、江戸深川で孤独な死を迎えたと言います。
時に70歳・・・晩年はとても無口な人だったという事です。
それにしても、「隠密=忍者」って公表されちゃっても、まだ活動できるもんなんすかね~
密貿易してる商人はともかく、薩摩藩は「公儀隠密データベース」のような物は持ってなかったんでしょうか?
まぁ、写真ないからなぁ~。
なんせ、林蔵さんは、忍法で言うところの「七方出(しちほうで)」という、変装術の名人だったようなので・・・。
それにしても、仮の姿の副業で歴史に名を残す偉業を成し遂げちゃった事には驚きですが・・・。
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何となく「裏稼業」があると思うと、ものすご~く美形を想像してしまいます~。
忍びの術を心得たニヒルな探検家・・・
背はけっこう低かったそうです・・・小柄なのは忍ぶには持ってこいですな。
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