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2007年5月 2日 (水)

幕府を揺るがす和田合戦

 

建保元年(1213年)5月2日、鎌倉幕府始まって以来の激烈な市街戦和田合戦が勃発しました。

・・・・・・・・・・

鎌倉幕府を開いたご存知・源頼朝が亡くなったのは建久十年(1198年)1月(12月27日参照>>)・・・

まだ、幕府の完成形立を見ないままの死でした。

大黒柱であった頼朝の死によって、ともに平家を倒し幕府を開いた御家人たちのバランスが徐々に崩れ始めて行くのです(4月12日参照>>)

突出したリーダーを失った中で、お互いの利害関係が複雑に入り組んでいきます。

頼朝の奥さん・政子の実家の北条氏・・・
頼朝の息子で二代将軍・頼家の奥さんの実家の比企一族・・・

頼朝と苦楽をともにして来た有力な重臣たちは、皆、なんだかんだで幕府の実権を握りたい。

そんな「幕府実権握りレース」の最初の脱落者はあの梶原景時・・・頼朝の死後、わずか1年めにして、仲間内からの「チクリ攻撃」によって失脚(1月20日参照>>)したのを皮切りに、比企能員(ひきよしかず)(9月2日参照>>)畠山重忠(6月22日参照>>)と、ここに来て策略に長けた補佐役として実力をつけていた政子の父・北条時政と政子の弟・義時によって、次々と葬り去られます。

やがて、父=時政に変わって第2代執権となった義時ですが(1月6日参照>>)執権が時政から息子・義時に変っても、自分たち=北条氏以外の有力御家人を制圧したい気持ちは変わらず・・・

Wadayosimori500ats で、次にターゲットにされたのが、頼朝が伊豆で打倒平家の旗揚げをした時から、その右腕として活躍した武闘派の重臣・和田義盛を長とする和田一族です。

将軍・実朝が、その義盛を気に入ってる事も快く思っていなかった義時は、何とか和田氏を失脚させる方法はないか?と思っていた矢先、またとない絶好のチャンスがやってきます。

前将軍・頼家の遺児・千寿を担ぎあげて、北条氏を倒そうと企んだ信濃の住人・泉親衡の謀反が発覚(2月16日参照>>)、次々とその反乱に関与していた者の名前がバレていく中に、義盛の息子・四郎義直五郎義重そして、甥の胤長の名前があったのです。

このニュースを聞いて、あわてて将軍・実朝のもとへ行き、これまでの自分の功績を上げながら、何とか息子たちを許してくれるよう平謝りする義盛・・・

義盛の誠意が通じて二人の息子は罪を許される事になりますが、この事件を絶好のチャンスと見ている義時は、「甥の胤長が謀反の首謀者だ」として譲りません。

義時は、義盛が一族90人とともに幕府へ出むき、「何とか免罪を・・・」と南庭に座り込んでいる中を、これ見よがしに縛り上げた胤長を引きずり出し、そのまま陸奥の国に流罪にしてしまいます・・・と、これは、義盛に恥をかかせて武闘派で策略ベタの彼を怒らせようとする義時の作戦か?

まんまと義時の挑発に乗ってしまった義盛は、自ら幕府に反旗をひるがえす決意をし、同族の三浦義村に相談します。

義村は即座に同意。

三浦氏の援助の約束をとりつけて、ついに義盛は建保元年(1213年)5月2日午後4時、兵を動かすのです。

大将の義盛以下、長男・新左衛門常盛とその子・新兵衛尉朝盛入道実阿・・・続いて、義盛の三男・朝比奈三郎義秀(9月2日参照>>)、四男・四郎左衛門尉義直、五男・五郎兵衛尉義重、六男・六郎兵衛義信、七男・七郎秀盛の、7人の息子たち。

そして、土屋大学助義清大庭次郎景兼などの同士など、総勢150騎・300人余りが集結しました。

ところが、その中には義盛が一番頼りにしていたはずのあの三浦義村の姿はありません。

実は、義村は直前になって幕府側に寝返り、義盛の挙兵の事もすでに、義時にバラしてしまっていたのです。

義村の裏切りで、命拾いした義時は、早速、近くにいる御家人たちを集めて出陣要請・・・遠くにいる者には加勢の手紙を書き、自分自身も戦闘の準備をします。

そうとは知らない義盛は、いくら待っても三浦軍が現れないため、しかたなく、三手に分かれ、一隊は幕府に、残り二隊は義時の邸宅に向かわせます。

この時の邸宅は、かの義時が戦闘準備で幕府に出向いていますから、留守の邸宅内にはたった50人の武士しかおらず、邸宅のほうはあっさり全滅しますが、幕府の南側では、予想通り激烈な戦闘がはじまります。

なんせ、和田軍はリーダーが武闘派ですから、その息子たちも仲間も、いずれ劣らぬ一騎当千の武者たちです。

中でも、三男・朝比奈三郎義秀は、2枚重ねの大鎧に星甲をかぶり、九尺の鉄棒をうち振るい、鬼神のごとき大活躍。

名のある武将を次々と討ち取り、幕府の四方を取り囲んで火を放ち、午後6時頃には、あわやという状況にまで攻め寄せました。

しかし、時間が経つにつれ、幕府側には次々と遠方からの御家人が到着し、討ち取っても討ち取ってもまた新手が登場してきます。

日付が変って5月3日の明け方になるとさすがの和田軍の精鋭たちにも疲労の色が見えはじめ、その様子を見た義盛は、一旦休養をとるべく、少し海側へ退却します。

そこを、すかさず橋を落とし、道を封鎖し、幕府の周囲の守りを固める幕府軍・・・これを受けて和田軍が崩れはじめたところに、また新手が登場。

起死回生を狙って、もう一度攻め込もうとする義盛でしたが、行く道、行く道には義時の息子・泰時をはじめとする幕府軍がすでに陣取り、そこから先の市街地へは一歩も入れまいという強固な構えで、どうしても突破できません。

そして、午後6時頃になって、和田軍の名だたる武将が次々と討たれ、敗色の色が濃くなる中、とうとう、息子・四郎義直の討死の知らせを聞いた義盛・・・「もはや、命生きても甲斐なし!」と叫びながら敵陣に突っ込んで67歳の生涯を閉じます。

やがて、武勇優れた息子たちも、次々と父の後を追うように討死して行き、和田合戦=和田義盛の乱は、終結しました集結しました

和田氏の滅亡によって、これから先の北条氏は、ますます執権政治の基礎を固めて行く事になります。

一方、義盛を裏切った三浦義村は「友を喰らう三浦犬」と陰で罵られる事になりますが、考えようによっちゃぁ、先を見る目があった・・・とも言えます。

武勇を誇るだけが武士ではありません。
戦略、策略に長けるのも、武士の誇り・・・これが世渡り上手という物なのかも知れません。

ところで、この和田合戦で一つの伝説が生まれます。

討死した義盛の息子たちの中で、三男・朝比奈三郎義家だけは生き残り「時節を見計らって、必ず本懐を遂げてみせる」と、残党とともに数隻の船に分乗し、安房の国に落ちていった・・・というのです。

英雄の証し、生存説がある義家は、和田一族の中でも最も人気のある武将・・・「母親があの木曽義仲の愛妾の女武者・巴御前である」という伝説まで存在しますが、ここで書くと、さらに長くなりそうなので、また別の機会にさせていただきます。

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今日の、イラストは、
やはり、一番人気の『朝比奈三郎』で・・・

んん・・たぶん本当はもっと豪傑・・・って感じで書かないと『鬼神』には見えないですわね~。

義秀くんの『星甲』・・・ちょっとわからなかったので、イラストでは源頼光の星甲というのを参考に書かせていただきました~
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コメント

もう一つの有力者千葉氏は、どうしてた?

投稿: 6幡太郎 | 2012年7月23日 (月) 13時44分

もう一つの有力者千葉氏は、どうしてた?

投稿: 6幡太郎 | 2012年7月23日 (月) 14時32分

6幡太郎さん、こんにちは~

本日の主役は和田軍です。
残念ながら、1つのページには限りがあり、その日のページにすべてを盛り込む事は不可能です。

重要事項の巡列は難しいところではありますが、このブログは個人の趣味のブログですので、「はしょる」「はしょらない」は、私個人で決めさせていただいており、はしょった部分は、いずれ機会がありましたら、別の日づけでupさせていただきたいと思っております。

このブログは未だ、現在進行形ですので、書いてない事はたくさんあります。
そこのところをご了承いただければ幸いです。

投稿: 茶々 | 2012年7月23日 (月) 14時33分

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