長篠の合戦!武田氏の真の敵は?
天正三年(1575年)5月21日は、鉄砲の出現によって、戦国の合戦を大きく変えたと言われる長篠設楽ヶ原の合戦があった日です。
・・・・・・・・・
武田勝頼率いる無敵の「武田騎馬隊」が、織田信長+徳川家康率いる「三段撃ち鉄砲隊」の前に無残に敗れる・・・先日書かせていただいた「桶狭間の戦い」(5月19日参照>>)と同様に、この合戦もドラマには欠かせない名場面です。
統制のとれた3千丁の鉄砲隊を千人ずつ3組に分けて1列ずつに並ばせ、1列めが鉄砲を撃ったら、次は2列めが・・・そして、3列めが撃ち終わる頃には、先の1列めの射撃準備が整っている・・・「蓋開けて~掃除して~弾込めて~火つけて~」(←“やすきよ”の漫才)の一連の作業を終えないと撃つ事ができなかった当時の鉄砲の弱点を克服した見事な作戦。
・・・と、言いたいところですが、やはりこれも「桶狭間の戦い」同様、あまりにもドラマチックすぎるこの劇画調演出はうさん臭さ満載!
・・・ですが、本日は武田を中心にお話を進めさせていただきます。
*一般的な戦いの流れについては2011年5月21日の【決戦!長篠の戦い】でどうぞ>>
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天正元年(1573年)あの偉大なる武田信玄が亡くなり(4月12日参照>>)、その家督を継いだ四男・勝頼・・・。
そもそも、この時点で武田家にはミョーな空気が漂います。
四男・・・という事でもおわかりのように、信玄には勝頼以外にも子供がいたわけですが、勝頼以外はみんな名前に「信」の文字が使われています。
勝頼だけは例外・・・それは、もともと勝頼に武田家を名乗らせるつもりが無かったからです。
勝頼は父方の武田家ではなく、母方の諏訪家を継ぐはずだったのです。
勝頼のお母さんは、今年の大河ドラマ「風林火山」のヒロイン・・・両津勘吉バリの1本眉毛で話題のあの由布姫こと諏訪御料人と呼ばれた女性です(由布姫は小説:風林火山の中の名前です)。
信玄は自分が滅ぼした諏訪の国の豪族たちに、恨みを残させず味方に取り込むためにも、諏訪の姫である諏訪御料人との間に生まれた子供に、諏訪を継がせるつもりでいました。
ドラマでもすでに、「二人の子供に諏訪を継がせる」的な事を言っていたように思います。
その子供が勝頼です。
成長した勝頼は17歳の時に、正式に諏訪を継いで「諏訪四郎」を名乗ります。
ところが、勝頼22歳の時、信玄の嫡男・義信が謀反の疑いをかけられ自害する(10月19日参照>>)という事件が起こり、武田家の後継者の席が勝頼に廻ってくる事になったのです。
しかし、信玄が「勝頼を後継者に・・・」と考えても、まわりの重臣たちはそう簡単に気持ちの入れ替えができません。
「いくら武田家の血筋を引いていても、一旦諏訪を継いだ勝頼を主人と仰ぐ事はできない」と言うのです。
信玄はしかたなく、勝頼の息子・・・つまり信玄の孫の信勝を正式な後継者とし、勝頼を、信勝が元服するまでの後見人とします。
信玄からすれば、「ここで無理を通すよりも、そのうち勝頼の人柄・実力を家臣たちにわかってもらい、後々タイミングを見計らって、正式に後継者に指名すれば良い」という気長な考えだったのかも知れません。
言い換えれば、今、反対している重臣たちも、勝頼の事を認める日が来るだろうと考えていた・・・それだけ、信玄にとって勝頼はデキル息子・・・自慢の息子だったのです。
武田家を滅亡へと導いてしまう事で、何かと愚将のレッテルを貼られる勝頼さんですが、本当は、偉大な父・信玄が睨んだ通りのデキル息子・名将だった・・・いや、名将になるべき素質は充分持っていたのです。
ところが、そんな勝頼と重臣たちの絆がつながる前に、先ほどの信玄の死が訪れてしまい、そのまま家督を継ぐ事になってしまったのです。
当然、信玄を神様のように崇めていた重臣たちにとって、まだ勝頼は未熟で「お屋形様」と仰ぐにはほど遠く、両者の間には大きな溝ができてしまいます。
重臣たちが、自分の事を認めていない事は勝頼自身がよく知っています。
が、しかし、すでに、もう家督は継いでいるわけですから、なるべく早く重臣たちとの溝を埋めなければなりません。
そのために、一番手っ取り早い方法は、合戦に勝ち、さらに領地を増やす事・・・偉大な父よりもっと強大な甲斐の国にするしかなかったのではないでしょうか?
そのため勝頼は、信玄が亡くなった翌年の天正二年から三年に渡って、自ら軍を率いて美濃や遠江などへ進攻し、信玄も攻めあぐねた徳川家康の高天神城を落とし(5月12日参照>>)、東美濃の織田信長の支城も次々と落とし、父を越える快進撃を続けます。
一方、御大信玄の死を、そのわずか3ヶ月後に密かに知った徳川家康・・・実は、武田配下の奥平貞能(おくだいらさだよし)が、信玄の死とほぼ同時に武田を見限って德川方に寝返っていて、その情報は筒抜けだったわけで、
で、その奥平の手引きにより、信玄の死から5ヶ月後の9月に家康は長篠城を落とし(9月8日参照>>)、奥平貞能の嫡男・貞昌(さだまさ=後の信昌)と家康の長女・亀姫(盛徳院)とを結婚させ、長篠城を守らせたのです。
三河と甲斐の国境付近の要衝である長篠城を奪われたままでは、何とも不安・・・で、勝頼は、天正三年(1575年)5月11日、この長篠城を包囲し攻撃を仕掛けるのです。
それこそ、無敵の武田騎馬隊に囲まれた長篠城・・・貞能は「自分たちだけではどうしようもない」とばかりに、同盟を結んだばかりの家康に救援を求めます。
知らせを聞いた家康はすぐに出陣・・・もちろん、家康が同盟を組んでいる織田信長も救援に向かう事になります(5月16日参照>>)。
長篠城の手前・・・極楽寺に陣を敷く信長。
そこより少し長篠城寄りの高松山へ陣を敷く家康。
織田・徳川連合軍は、陣と長篠城の間を南北に貫く連子(連吾)川に沿って、柵と堀を構築します。
これが、有名な『馬防柵』です。
彼らが柵を構築している頃、信長・家康の進軍を知った一方の勝頼は、一部の兵を鳶ヶ巣山砦に残しただけで、ほとんどの軍勢を長篠城包囲から撤退させ、設楽原(したらがはら)へと進軍します(5月20日参照>>)。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
いよいよ天正三年(1575年)5月21日の早朝、馬防柵のすぐ後ろ(西側)に、織田・徳川連合軍の主力部隊が布陣・・・川を挟んで武田軍。
その数は、連合軍3万8千、武田軍1万5千・・・と、これはまたしても戦国武将特有の見栄張り(情報かく乱の意味もあったと思うが)で、実際には連合軍1万8千で、武田軍6千くらいだったらしい・・・。
決戦前、構築された馬防柵と軍勢の数を見て、武田の重臣たちは不利を訴え、撤収を勧めますが、勝頼は耳を傾けませんでした。
この事でも、「勝頼は無謀だった」として愚将扱いされていますが、ここは、もし撤退していても、それはそれで、「弱虫」呼ばわりされていたに違いないのです。
「偉大な父を持った二代目」というのはそういうものです。
とにもかくにも、この日の午前6時、『長篠の合戦』の火蓋が切られました。
長篠の合戦は「長篠」という名前がついていますが、戦闘は長篠城ではなく、設楽原で行われています。
武田の騎馬武者は何度となく突入を繰り返し、戦闘は午後2時頃まで続いたと言われ・・・って、ちょっと待ったぁ~!
ここで、織田・徳川連合軍は華麗なる鉄砲三段撃ちで、バッタバッタとなぎ倒したんじゃぁ?
そうなんです。
ここで、本当にあの三段撃ちが披露されていたのなら、とてもじゃないが、同じ騎馬武者が何度も突入する事は不可能ですし、戦闘が8時間も続くわけがありません。
実は、この三段撃ちが登場するのは、江戸時代に小瀬甫庵という人物が書いた『信長記』という軍記物に出てくるお話・・・軍記物は、言わば歴史小説のような物なので、もちろんフィクションも多分に含まれています。
最も事実に近いであろうと言われている『信長公記』には、この三段撃ちはもちろん登場しませんし、3千丁あったとされる鉄砲の数は、千丁だったと書いています。
しかも、当日鉄砲隊をやっていたのは、信長から声をかけられた筒井順慶らなど、近畿からかき集められた「にわか部隊」で、とても整然と三段撃ちをできるような統率のとれた部隊ではなかった事もわかっています。
たしかに、鉄砲はありました。
馬は驚いたかも知れません。
しかし、ドラマで再現されるような、信長圧勝という感じの劇的な合戦ではなく、押したり引いたりの従来の合戦とあまり変わらない・・・いや、むしろ一進一退を繰り返す激戦であったようです。
なんせ、8時間も戦闘やってますから・・・。
この長篠の合戦が、織田・徳川連合軍の大勝利の印象を受けるのは、武田の重臣であった馬場信春、山県昌景、内藤昌豊といった歴戦の猛者がことごとく討死した事にあると思います。
しかし、一部には、「彼らの死はある意味、自殺行為ではなかったか?」という声もあります。
先代の信玄を尊敬するあまり、勝頼の采配にことごとく不満を持っていた彼ら・・・
直前の撤退の進言にも耳を貸さなかった勝頼に対して、「自らの死を以って主君に反省をうながす諫死(かんし)」という物だったのかも知れません。
しかし、勝頼さんから見れば、「やみくもに反対ばかりしないで、自分の真意をわかって欲しい」という気持ちもあったでしょう。
さっきも言いましたように、勝頼さんは、彼ら重臣たちが思っているほど愚将ではありません。
なぜなら、一般的には、こ長篠の合戦で敗れてから、すぐに武田氏が滅亡したような印象がありますが、合戦に敗れてからでも、強大な織田・徳川を敵に回しながら、少しは領地を増やし武田は7年間持ち応えています。
しかし、結局、重臣たちとの間にできた溝が埋まる事はありませんでした(4月16日参照>>)。
こうして見ると、信玄亡き後の武田氏の真の敵は、織田信長でも徳川家康でもなく、武田信玄の影であったのかも知れません。
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コメント
武田勝頼が、愚将と見なされてしまったのは、父親の武田信玄が、後継者の育成に失敗したことにあると思ってます。しかも、信玄の同盟相手の今川義元が、桶狭間の戦いで戦死したことがきっかけとなった上で、以前、武田義信のことでコメントしたように、勝頼の異母兄である義信が、幽閉の後に自害する結果を招きました。確かに信玄は、優れた領主でしたが、後継者の育成に大失敗したという点では、厳しいことを言いますが、馬鹿としか思えません。信玄が、勝頼と山県昌景(以前の名前は、飯富源四郎昌景)・内藤昌豊・馬場信房(信春ともいう)らとの間がうまくいけば、真田昌幸をはじめとする、真田家の運命が違った方向に進んでいったかもしれません。
投稿: トト | 2016年4月 3日 (日) 12時54分
武田勝頼が、愚将と見なされてしまったのは、父親の武田信玄が、後継者の育成に失敗したことにあると思ってます。しかも、信玄の同盟相手の今川義元が、桶狭間の戦いで戦死したことがきっかけとなった上で、以前、武田義信のことでコメントしたように、勝頼の異母兄である義信が、幽閉の後に自害する結果を招きました。確かに信玄は、優れた領主でしたが、後継者の育成に大失敗したという点では、厳しいことを言いますが、馬鹿としか思えません。信玄が、勝頼と山県昌景(以前の名前は、飯富源四郎昌景)・内藤昌豊・馬場信房(信春ともいう)らとの間がうまくいくようにすれば、真田昌幸をはじめとする、真田家の運命が違った方向に進んでいったかもしれません。
投稿: トト | 2016年4月 3日 (日) 12時56分
トトさん、こんばんは~
私としては、やはり、あの遺言>>が、信玄最大の失敗のような気がします。
信玄自身は、勝頼の素質を見抜いていただけに、本当に残念でなりませんね。
投稿: 茶々 | 2016年4月 4日 (月) 01時11分
個人的には、武田家の体質が信虎から晴信への代替わりに際して変容している方に注目したいです。
信玄はむしろ義信の不興を買うことを恐れていた節があり、なぜ義信事件が起きたりしたかという方が問題で、外交軽視武力重視に切り替わったことが、ありとあらゆる無茶に繋がっていったという…崩壊の原因はかなり遡った所にあるように思います。
勝頼は…個人的にはやはり低評価です。リアルな人口や焼き討ち効果を強化する等に調整し直し、武将能力も均衡化させた信長の野望で長篠の戦いシナリオをプレイしましたが、20回ぐらいプレイして1度も織田家には勝てませんでした。良い所まではいくのですが主に資金が持たない。勝頼自身を全能力MAXにしても大勢に影響なし。
難しい条件を突きつけられたとしても和議の道しかなかったのではないでしょうか…
ただ武田信虎も結局晩年は信玄に同調する動きも見せており、やはり勝頼が先々の事を考えなければいけなかったと思いますが、ただ、20代の当主としては、これがもういっぱいいっぱいでしょうね
個人的には信玄5割、勝頼5割の責任かなと思っています。幾ら信玄が種を撒いたとはいえ、長篠前の勝頼は一番交渉しやすい手駒は持っている状況でしたからね
投稿: ほよよんほよよん | 2016年4月 6日 (水) 13時28分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
う~~ん
色々と難しいところですね。
投稿: 茶々 | 2016年4月 7日 (木) 02時42分
こんにちは
武田家と言えば甲州金が有名ですがそれが
勝頼公の時には枯渇していたと聞きます。
それが武田家が亡びた原因ではないでしょうか?
信玄公でも金がなければ何も無い甲斐の国から
戦国英雄に勃興していくことはなかったでしょう
教科書に『この合戦以降、戦いは鉄砲中心になった』とありましたがそんなのは戊申戦争ぐらいまでは聞いたことありません
投稿: | 2020年9月22日 (火) 17時22分
こんばんは~
そうですね。
長篠設楽原の古戦場跡からは、鉄砲の弾はほとんど発掘されてないようですから、鉄砲の話は史実ではないように思いますね。
投稿: 茶々 | 2020年9月23日 (水) 03時31分