五稜郭開城!蝦夷共和国 最後の日
明治二年(1869年)5月18日、箱館・五稜郭が陥落し、箱館戦争が終結しました。
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慶応四年(明治元年・1868年)正月の鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争・・・新政府軍は、日本を北上する形で制圧を進めていきます。
★これまでの戊辰戦争の経緯は、
サイドバーの【幕末・維新の年表】で>>
江戸城・無血開城の時に、徹底抗戦を主張していた榎本武揚(えのもとたけあき)は、最新鋭の軍艦・開陽丸など8隻の船を率いて江戸を脱出し(8月19日参照>>)、途中で、会津戦争の生き残りたちを収容しつつ北上し、約2千8百人の人々とともに蝦夷(北海道)へ向かいます。
その中には、新撰組の土方歳三や元彰義隊の渋沢成一郎もいました。
10月下旬に蝦夷に上陸した彼らは、新政府軍が箱館(函館)に設置した府知事を攻撃し、五稜郭を占領(10月20日参照>>)。
続いて江差・松前(福山)を制圧し、松前城を攻略・・・12月には、五稜郭を本拠地として蝦夷共和国を設立します(12月15日参照>>)。
この蝦夷共和国に関しては、後に、榎本が「ちょっと抵抗してみたかっただけ・・・」などと、あいまいな返答しかしなかった事から、彼が本当に造りたかった物、本当の目的などが、今となっては謎となってしまいましたが・・・
彼の理想はともかく、設立当初のこの独立国家は、「共和国」という理想にはまだ遠い未熟な物だったようです。
役職者を投票で決めた・・・と言いますが、3千人近くいた人々の中で、投票をしたのはその1~2割程度にとどまり、全員に選挙権があったようではありませんし、国家の中心となる人物を徳川家の血筋から選ぼうとしていたり、まだまだ幕府を引きずっている感がぬぐえませんね。
榎本に従って来た人々も、新政府軍に追われて居場所が無くなり、「未開のこの地を開拓して安住の地にしよう」くらいで、明確な理想像があったようには思えません。
そんな、あいまいな感じの独立国家でしたが、新政府軍はすぐには攻撃を仕掛ける事はできませんでした。
それは、榎本が江戸を脱出する時に率いた船が、現時点で日本にある最新鋭の軍艦であった事・・・それによってこの時の榎本らの海軍の力は、新政府軍のそれとは比べ物にならないくらい高かったのです。
しかし、春を待たずにその最新鋭の軍艦・開陽丸は座礁して大破してしまいます。
青函間の制海権を握れなくなった榎本軍。
やがて、翌年の明治二年(1869年)4月、新政府軍は北海道の雪解けを待って、青森に8千の兵を集結させ、いよいよ攻撃を開始します。
もはや海軍が使えない榎本軍、こうなったら地上戦で歴戦の勇士の活躍にしか期待は持てません。
しかし、いくら激戦を生き残ってきた精鋭たちとは言え、所詮は多勢に無勢・・・榎本軍は次第々々に撤退を繰り返し、1ヶ月後には、五稜郭の周辺のみとなってしまいます(4月29日参照>>)。
しかも、頼みの綱の「弁天砲台」の大砲はゲリラによって破壊され、新政府軍の最前線はもう目の前です。
5月11日、新政府軍は、函館総攻撃を開始し(5月11日参照>>)、翌日、榎本のもとに最後通告である「降伏勧告書」を送ります。
受けた榎本は、新政府軍・参謀の黒田清隆(8月23日参照>>)に「降伏勧告書」の返事を送るのですが・・・。
黒田は、面識はないものの、以前から榎本の知識と才能を高く評価していて、「このままだと、この戦争で貴重な人材を亡くしてしまう」と、再三再四榎本に対して降伏を呼びかけていた人物でした。
しかし、黒田のもとに届いた榎本の返事は「NO!」・・・返書には、「最後の一兵まで戦い抜く覚悟である」事が書かれてありました。
そして・・・そのうしろに少しの空白の後、追記がありました。
「この返書に添えた2冊の本は、僕がオランダ留学をした時、持って帰って来た本で、これから先の海軍や商船にはなくてはならない重要な本です。
このまま兵火によって失われてしまっては、日本の損失となります。
あなたなら、この本の価値をわかっていただけると思うのでさしあげます」
返書に添えられていた2冊の本は、国際法の原本でした。
たしかに、日本が開国して、これから世界を相手にしなければならない時、必要となる内容です。
この事に感激した黒田は、この返書を持って来た榎本軍の使者に酒5樽を渡し、「必要なら、武器や食糧も届ける」と言ったと言います。
しかし、明治二年(1869年)5月18日、ついに五稜郭は陥落。
全員討死を覚悟していた榎本も、残り少なくなった兵を見て、新政府からの「降伏勧告」を受け入れ、ここに、箱館戦争・・・そして、昨年から続いた戊辰戦争が終結したのです。
先ほども書いたように「ちょっと抵抗してみたかっただけ・・・」としか言わなかった榎本さんですが、この2冊の本のエピソードを聞くかぎり、彼の頭の中には、きっと未来の独立国家の構想が湧き上がっていた事でしょうね。
このお話の続きは、榎本さんのご命日に書いた
10月26日【榎本武揚,五稜郭の後は・・】でどうぞ>>
また、この五稜郭開城のために尽力した医師・高松凌雲ついて・・・
2009年5月18日【函館戦争で敵味方の区別なく・・・医師・高松凌雲】もどうぞ>>
今日のイラストは、
『函館・五稜郭』で・・・
大阪城の近所で生まれ育った私は、小さい頃はお城と言えばみんなあんな形かと思っていたので、初めて五稜郭の写真を見た時は、その形のユニークさに驚いたものです。
一度見ただけで忘れられない印象でした・・・と言いながらまだ行った事ないんですけどね。
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コメント
茶々さん はじめまして
新選組関連の記事がアップされたらコメントさせてもらおうと思っていました^^
いつも楽しく拝見しています。また毎回のイラストがすばらしいですね!私もこんなステキなイラストが自分のブログに
載せられたらいいのになと羨ましく思っています。
さて今日は箱館戦争終結の日ですね。
以前は私も榎本さんって「ちょっと抵抗してみたかっただけ」みたいな人だと思っていたのですが、最近では彼なりの
思い入れがあったのだと感じるようになりました。
彼が死ぬ直前、うわ言で口にしたのが大鳥ら箱館戦争時代の仲間の名前だったそうです。
死ぬ直前ってその人が一番気にしていることが態度などに表れると聞いたことがあるので、彼の中ではやはり当時の出来事は大きな存在だったのだと思います。
初めてなのに長々とすみません。
また遊びに来ますので、これからどうぞよろしくお願いします(^^)
投稿: たまびとルンちゃん | 2007年5月18日 (金) 23時13分
>たまびとルンちゃん様
ご訪問そして、コメントありがとうございます。
以前の大河ドラマの番外編で登場した榎本さん・・・カッコよく描かれていましたね。
維新後も活躍する榎本さんですが、やはりこの頃が一番燃えていた時代なのでしょうね。
また、お時間があるとき、遊びに来てくださいね。
投稿: 茶々 | 2007年5月19日 (土) 00時41分
茶々さん はじめまして
五稜郭のイラストを探していて、こちらにたどりつきました(^^;
来月、中学3年生を引率して修学旅行で北海道に行きます。それに向けての準備として、今週の連絡通信にこちらのイラストを拝借して使わせていただいてよろしいでしょうか?
その際、URLは記載させていただき、お借りしたことは明記させていただきます。
ご了解をいただければ幸いです。どうぞよろしくお願い致します。
突然ですみませんでした。
mackf4ka1
投稿: mackf4ka1 | 2007年5月24日 (木) 05時46分
mackf4ka1さま・・・。
はじめまして。
修学旅行で北海道ですか・・・いいですね~
あっすいません、いいのは生徒の方ですね。
先生はさぞかし大変な事でしょう。
こんなイラストでよろしければ、どうぞ使ってやってください。
お気をつけていってらっしゃいませ・・・。
投稿: 茶々 | 2007年5月24日 (木) 07時57分
ひさしぶりです。 茶々さん。
土方35歳・・・・若いですよね。
壮絶な最後でしたが なんだかね~
およそ 半分くらいの年齢のころ 丁稚奉公で女性問題起こして クビになったと・・・
やんちゃな 土方も イイッスね。
友達がいってましたが もし丁稚ができる新撰組のメンバーは・・・と、聞いたら
近藤、新見、芹沢 沖田 はムリかな~
他は・・・仕事はできて
中にはそれなりに 商人として出世できたものもいたかもしれないなって。
投稿: zebra | 2013年5月26日 (日) 21時08分
zebraさん、こんばんは~
そうですね~
土方さんに限らず、幕末に活躍する人たちの若い事!!
年齢聞くとびっくりしますね~
投稿: 茶々 | 2013年5月27日 (月) 01時55分