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2007年5月28日 (月)

曽我兄弟の仇討ち~もう一人のターゲットは源頼朝?

 

建久四年(1193年)5月28日、「日本三大仇討ち」の一つとして有名な『曽我兄弟の仇討ち』がありました。

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ちなみに「三大仇討ち」とは、最も古いのが、この『曽我兄弟の仇討ち』

次が、寛永十一年(1634年)の『伊賀上野鍵屋の決闘』・・・あの「荒木又右衛門の36人斬り」って噂されるヤツです(11月7日参照>>)

そして、元禄十五年(1702年)のご存知『忠臣蔵』でお馴染みの「赤穂浪士の討ち入り」です(12月14日参照>>)

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曽我兄弟とは、兄で21歳の曽我十郎祐成(すけなり)と19歳の弟・五郎時致(ときむね)の二人です。

そもそも、この兄弟の祖父・伊東祐親(すけちか)と、従兄弟同士であった工藤祐経(すけつね)が、お互いの荘園をめぐって「取った」「取らない」で、昔から、いさかいを続けていたのです。

いったんは平重盛が間に入って、折半という事で話は収まったのですが、祐経が公用で京へ行っている留守中に、祐親が、その荘園のすべてを横領してしまったのです。

・・・で、当然の事ながら、その行為に怒った祐経が、自分主催の狩りの時、その祐親の息子・・・つまり曽我兄弟のお父さんの河津祐泰(すけやす)を暗殺してしまったのです。

原因を見てみれば「横領したジッチャンも悪いやん!」と、思うのですが、こういう場合、幼い子供の心には、やはり「父を殺された恨み」しか残らない物なのでしょうね。

なんせ、兄弟はこの時3歳と1歳ですから・・・。

その後、あの富士川の合戦(10月20日参照>>)平家方についた祐親は、源氏に捕らえられますが、恩赦によって釈放されます。

しかし、敵に情けをかけられるのを「恥」と思った祐親は、間もなく自害して果ててしまいます。

こうして、父も祖父も失ってしまった兄弟は、その後、母の再婚相手・曽我祐信(すけのぶ)に育てられます。

ちなみに仇の祐経は、『富士川の合戦』では源氏方についていて、その事も兄弟の憎しみの心の拡大に影響したかも知れません。

やがて十八年の歳月が流れた建久四年(1193年)5月28日・・・その日は朝から大雨でした。

源頼朝の主催で、鎌倉の御家人たちを招いて富士の裾野で行われるはずだった巻狩り(周囲を囲って獲物を追い込む手法の狩り)は中止となり、狩りが終ってから行われるはずだった宴会が、午前中から始まり、御家人たちは真っ昼間から酔っぱらい、やがて夜になる頃には、泥酔状態のまま寝入ってしまうのです。

そこを狙ったのが、あの兄弟・・・みごと、父の仇・工藤祐経を討ち取って本懐をとげたのです。

しかし、話はここで終らない・・・。

兄弟は、父の仇を討ったその後も、屋形の奥へと進みます。

でも、さすがに泥酔しているとは言え、鎌倉武士の集団相手に、逃げおおせる事はできません。

兄・祐成は途中で新田四郎忠常に斬られてしまいます。
しかし、弟・時致はさらに奥の頼朝のもとへ・・・。

結局、時致は頼朝の所にまでは行けずに、ころあいを見計らって逃亡し、翌日捕らえられてしまうのですが、誰もが聞きたいのが、「父の仇を討った後、なぜ?頼朝のもとに向かったのか?」という疑問です。

『吾妻鏡』では、その疑問に対する時致の答えとして、
「どうせなら頼朝に拝謁して、その目の前で自殺しようと思った」と語り、
『曽我物語』では
「将軍を殺して閻魔大王への手土産にしようと思った」と言っています。

この答えはどうでしょう・・・釈然としませんねぇ。

そこで思い起こすのが、彼らの祖父・伊東祐親という人・・・。

実はこの人、頼朝が伊豆で流人の身であった時、北条時政とともに、その監視役をしていた人なのです。

しかも、頼朝は祐親の留守中に彼の娘・八重姫に手を出して、屋敷にころがり込み、男の子を生ませていました。

平家全盛の世に、源氏の子供を孫と認めるわけには行かず、二人を無理やり別れさせ、かわいい孫を涙を呑んで手にかける・・・という悲しい出来事があったのです(8月11日参照>>)。

その後、頼朝はもう一人の監視役・北条時政の娘・政子に手を出すわけですが、結局、主君である平家に義理立てせず、監視の役目を怠った事になる時政がラッキーな人生を歩み、実直に生きた祐親が貧乏くじを引いた感はぬぐえません。

もちろん、これは兄弟の立場からの見方で、北条側から見れば、時政は先見の明があったという事になりますが・・・

さらに、頼朝が挙兵してからも、祐親は石橋山の合戦(8月23日参照>>)などで活躍し、そして、先ほど書いた『富士川の合戦』後の恩赦に恥じての自害です。

そう、彼ら兄弟にとっては、父の仇が工藤祐経で、祖父の仇は源頼朝だったのかも・・・です。

十九と二十一の立派な若者になっても、彼らが御家人にもなれず不遇の人生を送らなければならなかった原因がここにあった・・・という事なのでしょうね。

彼らの『仇討ち』のターゲットは祐経ひとりではなく、おそらく頼朝もターゲットだったのです。

当然の事ながらこの後、時致は処刑される事となります。

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今日のイラストは、
久々に花の絵を書いてみました~。

私の勝手なイメージですが・・・『曽我兄弟』って、りりしい花菖蒲かな?と・・・。
仇討ちの日は雨でしたが、星空の下、兄弟並んで・・・

ところで、今日のお話・・・いったい何人「祐」の字がつく人物が登場するんだ?
ややこしいったらありゃしない!
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