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2007年6月 1日 (金)

無残やな 甲の下の篠原の合戦

 

寿永二年(1183年)6月1日、平家・都落ちの直接原因となる『篠原の合戦』がありました。

・・・・・・・・・

10万の大軍を引き連れ、木曽(源)義仲を討ちにきた平家軍(5月3日参照>>)でしたが、先日の倶利伽羅峠の合戦(5月11日参照>>)大敗を喫してしまい、平家軍の数は、志雄山の搦め手の守りについていた残りの3万騎だけとなってしまいました。

大将の平維盛(たいらのこれもり)命からがら敗走し、加賀まで撤退。

やがて、志雄山の軍と合流し、5月24日の夜に豪雨の中を篠原・安宅まで退却します。

この篠原のあたり(石川県の片山津温泉のあたりです)は、今江木場柴山の3つの湖が連なり、そこから流れ出た川が造りあげた中州で、四方を水によって隔てられた天然の要害でした。

しかも、折からの雨であたりは洪水のようになっており、まさに攻め難さ99%!・・・もう、後が無い平家軍にとっては、何としてでも守り抜かねばならない運命の場所です。

しかし、地の利ははるかに義仲に有利でした。

木曽軍は、地元出身の林光明の案内でやすやすと浅瀬を渡り、一気に平家軍の陣営へとなだれ込みます。

それは、寿永二年(1183年)6月1日・午前の事でした。

まずは木曽軍の先鋒を務める樋口次郎兼(ひぐちじろうかねみつ)が100騎余りを率いて、平家方の先鋒・畠山能景(よしかげ)の300騎と激突。

続いて、今井四郎兼平(かねひら)落合兼行(かねゆき)根井小弥太(ねのいこやた)らが次々と突入していきます。

迎え撃つ平家軍も、藤原忠清平盛俊(たいらのもりよし)らが懸命の防戦です。

やがて、義仲、維盛の両大将自らも戦闘に参加。

昨日までの雨がウソのように晴れ上がり夏の日差しが照りつける中の死闘が繰り広げられました。

しかし、やはり平家軍には、先日の倶利伽羅峠の大勝に意気あがる木曽軍を止める事ができません。

名のある武将たちが次々と討たれ、あるいは敗走し、ジリジリと照りつける日差しが傾く頃には、戦場にはほとんど平家軍の兵は残っておらず、戦いは木曽軍の圧勝となります。

しかし、平家軍の中には、石橋山の合戦(8月23日参照>>)であの源頼朝を窮地に追い込んだ者や、富士川の合戦(10月20日参照>>)で破れ、東国を頼朝に制圧されたためにこの平家軍に加わった者も数多く、彼らにとっては、この篠原は最後の要、死に場所だと決意しての参戦・・・

たとえ、壊滅状態になって「残りの1騎になっても戦い抜く覚悟」と、奮戦を繰りかえす武将もいました。

そんな中、一つの逸話が生まれます。

信州・諏訪の住人・手塚太郎光盛は、戦闘のさなか、一人の平家軍の武将と対峙します。

すでに戦い疲れ、怪我も負っている様子でしたが、その武将は侍大将が着る錦の直垂(ひれたれ・鎧の下に着る着物)を着用し、萌黄縅の鎧(もえぎおどしのよろい・萌黄色の糸で鉄片をつなぎ合わせた鎧)を着けています。

きっと名のある武将に違いない・・・と光盛は名乗りを挙げ「そちらは、いかなるお人でありましょうか。名乗ってはいただけませんか」と訪ねます。

しかし、その武将は「わけあって名乗らへんが、木曽殿はご存知である」とだけ言い、名前を名乗ろうとはしません。

結果、光盛は武将を討ち取って、その首を義仲のもとへ持参するのです。

その首を見た義仲は息を呑みます。

それは、彼の命の恩人斉藤実盛(さねもり)だったのです。

それれは、義仲がまだ駒王と呼ばれていた2歳の頃・・・

彼の従兄弟である頼朝の兄・(悪源太)義平(あくげんたよしひら)父を殺され、彼自身の命も狙われます。

義平から、「駒王を見つけしだい殺せ」と命じられた畠山重能(しげよし)が、しばらくして彼を見つけたものの、2歳の幼児を殺す事ができず「どうしたものか」と友人に相談・・・

そして、その重能に頼まれて、駒王をつれて木曽の中原兼遠(かねとう)に預けに来た友人というのが、斉藤実盛・・・彼もまた2歳の幼児を殺す事ができなかったのです(くわしくは8月16日【義仲が木曽にいたワケは・・・】でどうぞ>>)

まさしく、命の恩人です。

しかし、義仲は不思議に思います。

自分の命を救ってくれたあの頃の実盛でさえ、白髪交じりの初老であったのに、今見るこの首の髪は黒々として、とても若々しい、本当に実盛なら70歳はとっくに越えているはずなのに・・・。

中原兼遠の長男で自分より年上の樋口兼光なら実盛の事をよく覚えているはず・・・と、義仲がかたわらにいる兼光に目をやると、兼光はすでに号泣・・・。

兼光は昔・・・
「俺が60を過ぎて戦場に出向く時は、髪を墨で黒く染めて若返ろうと思ってんねん。
白髪頭を振り乱して若い連中と先陣を争うのも大人気ないし、かと言って老人だとバカにされるのもくやしい・・・まして敵に侮られるのも嫌やし。」

という事を実盛が言っていたのを覚えていたのです。

果たしてその首を洗ってみると、黒髪はみるみる白髪となり、それはまさしくあの斉藤実盛だったのです。

実盛も、頼朝との戦いに敗れて武蔵の国を追われ、帰る場所を失っって、命を賭けてこの合戦に臨んでいた武将の一人でした。

そして、彼は錦の直垂を着用していましたが、実は彼は侍大将ではなく一介の武士だったのです。

もちろん、それは、彼が無能な武将だったからではなく、強弓・凄腕の持ち主で広く知られた武将でしたが、要領よく立ち回るタイプではなかったからに過ぎません。

しかし、もともと先祖が北陸の出身であった事から知り合いも多く、70を過ぎて役職無しの身を恥ずかしいと思い、北陸でのこの篠原の合戦を最後の戦と心に決め、「せめて最後の戦に錦の直垂を着用させていただきたい」平宗盛(むねもり)に願い出て、着用していたのでした。

「やはり、実盛であったか・・・」と、兼光に続いて義仲も号泣・・・。

あっぱれな老武者の心意気を感じながら、義仲は戦場の近くの場所に実盛を手厚く葬りました。

500年後、この古戦場を訪れた俳人が一句捧げています。

♪むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす♪

そう、あの松尾芭蕉の有名な一句は、この篠原の古戦場を訪れた時に詠んだ句なのです。

最後の防衛線となったこの合戦に敗れた平家・・・勝った義仲はさらに軍を進め、7月には京の目の前に迫ります。

そして、7月25日とうとう平家は安徳天皇を奉じて都を落ちるのです(7月25日参照>>)

Kabutonositanokirigirisucc 今日のイラストは、
ズバリ『甲の下のきりぎりす』で・・・。

私は、義仲さまのファンではありますが、やはりこの篠原の合戦での主役は斉藤実盛さんですね。

芭蕉のこの句は、金田一耕介シリーズの「獄門島」の謎解きに使われていました~。
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コメント

まずは木曽軍の先鋒を務める樋口次郎兼光(ひぐりじろうかねみつ) ひぐちじろうのお間違いでは

投稿: たかし | 2012年11月28日 (水) 17時29分

たかしさん、
おぉ、ありがとうございます。

タイプミスです。
一つ、左をタイピングしちゃってましたね。

投稿: 茶々 | 2012年11月28日 (水) 17時58分

<「獄門島」の謎解きに~>…原作もよかったですが、市川昆監督の映画もよかったです。ヒロインの大原麗子さんが美しかった…。

あらためて「むざんなや…」の句について調べたところ、キリギリスは、ツヅレサセコオロギのことらしいです。

確かにコオロギの鳴き声のほうが、斉藤実盛の悲しい物語にふさわしいなあと思う次第であります。

投稿: とらぬ狸 | 2016年6月 1日 (水) 10時35分

「むざんやな」を「むざんなや」と書いてしまいました。お粗末で失礼しました。

投稿: とらぬ狸 | 2016年6月 1日 (水) 11時12分

とらぬ狸さん、こんにちは~

ホント、映画、良かったですね~ヽ(´▽`)/

投稿: 茶々 | 2016年6月 2日 (木) 07時01分

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