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2007年6月25日 (月)

最古の治水工事・茨田堤の物語

 

今日は、大阪に伝わる民話と、物語にまつわる史跡・茨田堤(まんだのつつみ)をご紹介します。

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仁徳天皇陵や応仁天皇陵といった大きな古墳が、河内に造られるようになる5世紀頃は、河内平野の大開発の時代でもありました。

近畿を中心とする豪族の中で、大和に政権をおいていた王が、徐々に河内に移動するのには、やはり、山に囲まれた盆地である奈良よりも、大きな河内平野での農業生産力の大きさによるところが大だと思われますが、その頃はまだ、大阪平野は半分海のような湿地帯・・・。

いくら広大な土地でも、たびたび洪水被害に悩まされては、その大きな農業生産力にも影響を及ぼします。

日本書紀には、仁徳天皇(1月16日参照>>)の十一年(324年?)の10月に
『北の河(淀川)の澇(こみ・浸水)を防がんとして、茨田堤(まんだのつつみ)を築く』
とあります。

古事記にも、
『秦人を役てて、茨田堤を造りたまい』
と記されています。

秦人とは、先日の交野の七夕伝説(6月23日参照)の時にも登場した大陸からやって来た(はた)の事ですが、この時の秦人は、秦氏だけ・・・という事ではなく、渡来人全般を指す広い意味だと思いますが、この仁徳天皇の時代に、淀川沿いで大規模な堤防築造が行われた事は間違いないでしょう。

これは、記録で見る限り、日本最古の治水工事です。

大陸からやって来た技術者たちによって造られた茨田堤のおかげで、広大な河内平野での農業はいっそう発展したに違いありません。

しかし・・・(ここから昔話です)

・・・・・・・・

それでも淀川はたびたび氾濫を起こし、堤はたびたび決壊します。
特に、ある2ヶ所がいつも決壊して困っていました。

そんなある日、仁徳天皇は夢の中で、
「武蔵人・強頸(こわくび)、河内人・茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)二人を以って、河狛(かわのかみ)に祭らば、必ず塞ぐこと獲てむ」
という神のお告げを聞いたのです。

つまり・・・武蔵の国に住むコワクビいう人物と、河内の国に住むコロモコという人物を人柱(いけにえ)として川に捧げれは、決壊は無くなるというのです。

早速、二人の人物は呼び出されます。

二人のうちコワクビは嘆き悲しみながら、川に身を投じました。

しかし、コロモコはすぐには川へは飛び込まず、持参した瓢箪(ひょうたん)を手に持って天にかざし、こう叫びます。

Koromokocc

「おい!神さん!
俺は、今からこの瓢箪を川に投げる。
おんどれが、ホンマの神さんやねんやったら、この瓢箪を川底に沈めてみせろや!
 

もし、瓢箪が沈まんと、プカプカ浮いて来たら、それはニセモンの神さんやさかい、俺は川には飛び込まん。
ほな、いくぞ~」

と、川に投げ込みます。

当然、瓢箪は川面をプカプカ浮きながら、川下へ流れていきます。

こうして、コロモコは人柱から逃れる事に成功したのです。

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もちろん、このお話が事実かどうかは確認できません。

しかし、この茨田堤の築造にも、おそらく沢山の人民が動員されたはず・・・神の権威を振るって、時には無理難題をふっかける王に、ささやかな庶民の抵抗があった事を、この物語は教えてくれます。

権力に屈しない、なにわのド根性は、すでにこの時代から芽生えていたんですね。

どころで、この「茨田」と呼ばれる場所ですが・・・、

大阪市の鶴見区には、今も茨田(まった)という地名や、横堤なんていう地名も残っていますし、風土記には、「河内の国・茨田の枚方に・・・」という記述が見えますので、おそらく、大阪市の旭区あたりから、守口寝屋川枚方のあたりの淀川沿いの広い範囲が「茨田」と呼ばれていたのでしょうね。

ちなみに、先ほどの民話に出てきた2ヶ所のよく決壊する場所は、
『時人、其の両処を号(なず)けて強頸断間(こわくびたえま)衫子断間(ころもこたえま)という』
と、日本書紀にあり、その2ヶ所が強頸断間と、衫子断間と呼ばれていた事がわかります。

その強頸断間は現在の大阪市の旭区千林あたり、衫子断間は寝屋川市太間あたりだったと言われています。

Mandanotutumioosakatizucc 決壊しては、その度に修復され、河内平野に農業の発展をもたらした茨田堤でしたが、やがて、もう少し北側に、豊臣秀吉による「文禄堤」が築造され(8月10日参照>>)、茨田堤はその役目を終えました。

現在は、門真市が守口市と寝屋川市に接するあたり(右の地図のの場所です→)に、茨田堤の名残と称される場所があります。

京阪電車・大和田駅から北東へすぐの所に、茨田堤の築造に携わった茨田宿禰が、堤の守護神として茨田氏の御先祖である彦八井耳命(神武天皇の皇子)祀ったとされる堤根(つつみね)神社があります。

Dscn3744a1000 堤根神社…右奥に大楠

その神社の裏手に、目印とも言える大きな木が2本・・・そこが茨田堤です。

横を走る道とは、明らかに高さが違うその場所は、かつてそこが堤であった事を容易に想像させてくれます。

その場所に立つと、神代の昔の伝説の舞台が、今なおこうしてその姿をとどめている事に・・・
そして、遠い昔の庶民の記憶を、昨日の事のようにいきいきと伝える民話に・・・

時の長さを飛び越えてしまうような錯覚に陥り、少なからず感動を覚えてしまうのです。

Dscn3734a1000
史跡:茨田堤
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コメント

すんごいですねえ!

記紀にある仁徳天皇に関する話が、地名や堤の名残としてあるのは、すんごいてすよね!

神さんの出身高校が茨田高校なので、また仕事で近くを通るので、茨田堤の話は興味がありました。

が、やっぱり茶々さんの記事を読むと話が深くおもしろいです!何時もありがとうございます!

が、

投稿: ひろし | 2016年11月28日 (月) 21時08分

ひろしさん、こんばんは~

同じ仁徳天皇の時代で、やはり日本書紀に登場する最古の橋=鶴橋(猪甘津橋)>>は大正時代まで現役で、ほぼ同じ場所に架かっていたんですよ。
これもスゴイです!

投稿: 茶々 | 2016年11月29日 (火) 03時17分

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