秀吉が切支丹禁止令を今日出したワケは?
天正十五年(1587年)6月19日、豊臣秀吉が『切支丹(キリシタン)禁止令』を発布しました。
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最初は切支丹に対して寛大だった秀吉が、なぜ、いきなり豹変して切支丹を禁止したのか?
その理由については、今までこのブログでも何度か書いてきました。
【切支丹禁止令と戦国日本】(12月23日参照>>)では、天正十五年・5月に、九州征伐に出陣し島津氏を降伏させた秀吉が、まるで、スペインやポルトガルの植民地のようになってしまっているような九州の現状を目の当たりにしたからではないか?と書かせていただきました。
付け加えて、【長崎二十六聖人殉教の日】(2月5日参照>>)では、実際にスペインの武力行使による「日本占領計画」なる物があったかも知れない状況を秀吉が読み取ったのではないか?という事を書かせていただきました。
もちろん、おおもとの理由はそこにあると思います。
最初は、国際貿易に有効だと思って寛大に接してきたものの、途中からその強大な力に脅威を感じ、一転して禁止の方向に向いたのだと思います。
しかし、それにしてもあまりにも突然の豹変ぶりです。
秀吉は、今日6月19日付けと、前日6月18日付けの二つの文書を発令していますが、18日付けでは、大名・領主やその家臣に対しては禁止していますが、一般人に対しては「本人の心次第」として、それほどきびしく禁止してはいないのです(6月18日参照>>)。
しかし、19日付けの文書では、第一条で日本は「神国」であるという事を強調し、第二条で領主の勝手な違反行為(知行を寄進したりする事)を禁止し、そして、第三条では宣教師の20日以内の国外追放を命じています。
ただし、四条&五条で商売のための交流に関してはOKとしています。
一応、原文は・・・(松浦文書)
- 日本ハ神国たる処、きりしたん国より邪法を授候儀、 太以不可然候事。
- 其国郡之者を近付門徒になし、神社仏閣を打破之由、前代未聞候。
国郡在所知行等給人に被下候儀は、当座之事候。
天下よりの御法度を相守り、諸事可得其意処、下々として猥りの義曲事の事。 - 伴天聯、其知恵の法を以て、心ざし次第ニ檀那を持候と思召候へハ、右の 如く日域の仏法を相破る事曲事候条、伴天聯儀、日本の地ニハおかされ間敷候間、今日より廿日之間ニ用意仕り帰国すべく候。
其中に下々伴天聯に不謂族申懸もの在のハ 曲事たるへき事。 - 黒船の儀ハ商売の事に候間、格別候之条、年月を経、諸事賣買いたすべき事。
- 自今以後、仏法のさまたけを成さざる輩ハ、商人之儀ハ申すに及ばず、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条、其意を成すべき事。
の五カ条なのですが・・・
先ほど書きましたように、秀吉が、九州の雄・島津氏を降伏させたのが、この年の5月・・・その時に、キリスト教一色になっている九州を目の当たりにして、禁止する事を考えたとしても、この18日と19日の文書の違いは何でしょう?
まるで、昨日までダンナのちょっとしたワガママを笑いながら許していた奥さんが、突然離婚届を差し出したような・・・それも、今すぐハンコを押せ!と・・・。
こういった場合、たいていは、「私は、今までず~っと我慢してきたのよ」ってな話になるわけですが、昨日まで我慢できていたものが、今日我慢できなくなるのには、やはり、何らかの理由があるはずです。
一歩ステップを踏み出す時に、背中を押した何かが・・・そうです、秀吉にも、それがあったんです。
先の【長崎二十六聖人殉教の日】のページにもチラッと登場した、当時、日本イエズス会の副管区長をやっていた宣教師ガルパス・コエリヨ。
彼は、この『切支丹禁止令』が出る1年ちょっと前の天正十四年の春に、大坂城を訪問し、秀吉に謁見しています。
その時の秀吉は、超ご機嫌な様子で、コエリヨにかなりのリップサービスをし、コエリヨもそんな秀吉の態度を大いに喜び、会見は終始なごやかムードで行われました。
ところが、その1年後の6月19日に禁止令・・・実は、この日も、秀吉とコエリヨは会っていたのです。
つまり、秀吉はコエリヨとの会見が終ってから、すぐに19日付けの「切支丹禁止令」を作成した事になります(あくまで時系列で見ると…という事ですが)。
もとをただせばその、一年前の春の会見・・・。
この時の秀吉のリップサービスというのが、「いずれ自分が明(中国)や朝鮮を征服したあかつきには、大陸での布教活動の自由を約束する」という物だったのです。
この言葉にコエリヨは大いに喜んだわけですが、まだ征服してもいない国の布教活動を約束されてうれしいものなのか?ちょっと、疑いたくなりますね。
しかも、当時のスペインはアルマダという無敵艦隊を持っていました。
事実、あるスペイン人宣教師が「明を征服するには、多くても1万人の軍隊と同規模の艦隊で充分である。」という内容の手紙を、当時、国王に送ってします。
ところが、実は、その軍隊は、現在イギリスとの交戦の真っ最中・・・
それは、500t級の船に百門の艦砲を備えていたという優秀な艦隊はあるけれど、ヨーロッパでの戦いのために「できるだけ温存しておきたい」というのがスペインのホンネだったのです。
母国の無敵艦隊の手をわずらわす事なく、日本が、勝手に征服した所を、自由に布教活動させてくれるなら、これほど楽な事はないのです。
ただし、当然ですが、これには条件がありました。
秀吉が出した条件は、大型船2隻の売却・・・それも、船員(技術者)込みで売ってくれという物でした。
先ほども出てきた無敵艦隊・・・さすがに当時の日本には、そこまでの造船技術はありません。
しかも、スペインやポルトガルはその技術を日本に知られないように、ひた隠しに隠しいましたから・・・。
秀吉は、大陸を征服するためにも、その造船技術が欲しかったのです。
・・・で、春の会見がなごやかムードで終った・・・という事は、コエリヨも会見の席で、その条件を快諾した、という事が想像できます。
ところが、この6月19日の会見で、交渉は決裂してしまうのです。
それは、コエリヨが提供しようとした船が大型の軍艦ではなく、フスタ船と呼ばれる小型の南蛮船だったからでした。
「そんな小型船でごまかされるか!」と、激怒した秀吉は・・・いえ、ひょっとしたら船の小ささに激怒したのではなく、このコエリヨの態度に、スペインが軍事的に日本を征服しようとしている事を確信し、冷静なる判断で報復措置を取った・・・という事かも知れません。
いずれにしても、この日の会見での決裂が引き金となって、『切支丹禁止令』が発令される事になるのは間違いないような気がするのですが・・・
今日のイラストは、
『キリスト教』のイメージだけで書いてしまいました~。
これから後、明治までの長い間、切支丹への弾圧が続くと思うと、胸に迫る物がありますが、かと言って、もしかして征服されていたかも・・・と思うと、それはそれで困りますよね~。
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コメント
確かに歴史の古い教会は西日本に多いですね。イエズス会は日本国内での布教を、朝廷に公認してもらおうと考えていたらしいです。織田信長の時代に日の目を見たんですがその後は…。
今日は日曜日なのでミサがありますね。
再来年の主人公の新島八重さんは、クリスチャンでは初めての大河主人公かな?
投稿: えびすこ | 2011年6月19日 (日) 08時47分
えびすこさん、こんにちは~
明治の初めは、未だキリスト教への偏見が抜けず、仕事面にも圧力がかけられた…なんて話もありますが、そこらへんはどのように描かれるのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年6月19日 (日) 11時03分