信長の判断ミス?姉川の合戦
元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍が、近江の浅井・朝倉連合軍と戦った合戦・・・『姉川の戦い』がありました。
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その年・・・元亀元年(1570年)。
天下統一を狙う織田信長と、将軍とは名ばかりの足利義昭の間に出来始めた溝・・・(1月23日参照>>)。
そして、その義昭と親密に連絡をとり、不穏な空気をかもし出す越前(福井県)の朝倉義景・・・。
そんな空気を察した信長は、4月にその朝倉を攻めますが、その時、かわいい妹・お市の方を嫁にやって、すっかり味方につけていたつもりの北近江(滋賀県)の浅井長政が朝倉側に寝返ってしまいます(4月26日参照>>)。
越前と近江から挟み撃ちされては、さすがの信長もヤバイ・・・とばかりに、義景の本拠地・一乗谷を目前に、信長はやむなく撤退しました(4月27日参照>>)。
その期に乗じて、近江を落とそうと進軍する朝倉の重臣・朝倉景鏡(かげあきら)でしたが、あの信長がそのまま収まるわけがありません。
逆に信長は6月に総攻撃を開始する事を予告する気の強さ・・・その気迫にビビッたのか、景鏡は一旦越前へ戻ります。
その間に信長は、もう一人の敵・浅井の内部分裂を画策し、堀秀村を寝返らせる事に成功し、予告通りの6月、長政の本拠地・小谷城(滋賀県湖北町)への攻撃を開始するのです(6月19日参照>>)。
しかし、小谷城が険しい山の上にあり、取り囲むのが困難である上、その頃には、義景の命令を受けた朝倉の重臣・朝倉景健(かげたけ)も応援に駆けつけていましたので、城攻めが難しいと判断した信長は、何とか小谷城内の兵を、おびき出して平地で戦う事を考え、まずは、6月24日、小谷城の南側にある横田城を取り囲みます。
山に囲まれたこの地で、「交通の要所にある横田城を落とされては大変だ」とばかりに長政は、小谷城を出て、姉川の支流・草野川の北岸に陣を敷きました。
もちろん、その横には応援に駆けつけた朝倉軍が・・・。
同じ頃、織田軍には徳川家康が応援に駆けつけます。
しかし、浅井・朝倉が陣を敷いた草野川北岸は、横田城を取り囲む織田軍を直接攻撃するにはかなりの距離があり、結局そのままの状態で、27日には横田城は落城寸前まで追い詰められ、もはや後がありません。
長政率いる浅井・朝倉軍は、その日の夜に草野川を超え、織田軍との距離を縮めるべく、姉川の北岸へと移動します。
横田城を取り囲んだ本陣から、暗闇の中に川を渡る浅井・朝倉軍のかがり火を見た信長は、
「敵は我が術中にハマッタ・・・」と、ニヤリしたとかしないとか・・・
横田城の囲みに、丹羽長秀と西美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全)を残し、自らは姉川の南岸へと移動します。
かくして、姉川を挟んで、北と南に対峙する両軍・・・。
北西に朝倉、北東に浅井、南西に徳川、南東に織田。
やがて、白々と夜が明けた元亀元年(1570年)6月28日午前6時、まずは、徳川軍が姉川を渡って真向かいにいる朝倉軍に攻めかかり、合戦の火蓋が切られました。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
最初は、朝倉軍有利に戦闘が展開されます。
押され気味の家康は、全軍を投入し、大将自らも戦いの中に身を投じる間に、榊原康政の軍に迂回して川を渡らせ、朝倉軍の中で比較的手薄な側面を攻撃させます。
これが功を奏し、形勢は一気に逆転!
徳川軍は一気に朝倉軍を攻め立てます。
しかし、その東方で始まっていた浅井軍対織田軍の戦い・・・。
大量の兵で一気に川を越えて来た浅井軍に、織田軍の先鋒はあえなく崩れ、あわてて投入した第2軍も破られ、浅井軍は信長の本陣近くに迫ります。
「もはや、これまでか!」
・・・と、思った時、主君の劣勢を見かねた横田城を包囲していた西美濃三人衆らが3千の兵を率いて加勢に駆けつけ、浅井軍の側面から猛攻撃。
同時に朝倉軍を負かしつつあった徳川軍からも、一隊が浅井軍のもう一方の側面を攻め立てます。
不意を突かれた浅井軍は一気に崩れはじめ、またまた形勢は逆転されました。
戦いは午前10時をピークに9時間に及んだと言いますが、やがて、浅井軍は北へ北へと追い込まれ、ついに敗走するのです。
激烈を極めた戦闘・・・浅井・朝倉連合軍の戦死者は9千6百人・・・(『信長公記』では、千百余となっていますので)真偽の程は定かではありませんが、両軍の兵士の血で姉川が真っ赤に染まったと言われています。
昨日の夜、「敵は我が術中にハマッタ」と、ほくそえんだわりには、かろうじて・・・といった感じで勝利を収めた織田・徳川連合軍・・・。
結局、敵を姉川周辺から追いやっただけで、決定的なダメージを与える事はできませんでした。
しかも、この合戦の後、「退却する敵を追撃すべき」という意見が多数出たにも関わらず、なぜか信長は、先の横田城と佐和山城を落としただけで、「それ以上の深追い禁止」の命令を出し、浅井の本拠地・小谷城を温存したまま撤収するのですが・・・
今回のこの撤収という判断・・・ひょっとしたら信長のミス?だったかも・・・。
まぁ、信長さんの事ですから、何か、凡人には計り知れない思惑があったのかも知れませんし、実際に追撃していれば、深追いし過ぎて、もっと悪い結果になっていたかも知れませんので、一概にミスとは言えないのですが・・・
とは言え、結果的に、ここで、浅井・朝倉を根絶させなかったために、同じ年の秋には、両氏が態勢を立て直して京へ攻め上り、森可成(よしなり・蘭丸の父)や、織田信治(信長の弟)といった信長にとって痛手となる人物を失ってしまう(9月20日参照>>)ばかりか、彼らの信長への抵抗は、この後、三年間も続く事になるのです。
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姉川の合戦での逸話
【姉川の七本槍と旗指物のお話】は2008年の6月28日で>>
【遠藤喜右衛門・命がけの奇策】は2011年の6月28日で>>
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コメント
姉川の合戦は戦国の合戦では珍しく、大大名同士が兵の大半を投入して決戦を挑んだものです。戦国時代の戦はにらみ合いや小競り合いが多い。川中島や小牧長久手など。大名の軍とは私設の軍隊であり、うかつな消耗は直接自分の財産の消耗であるからなるべく避けたいのです。姉川が珍しい大合戦になったのは以前のいきさつから降伏の選択肢を失った大名浅井氏が存亡を欠けて大大名の主力部隊に戦いを挑んだためで、結果は例を見ない死傷者数。信長が深追いを禁じたのはこれ以上の自分の軍(私有財産)の損害を看過できなかったからだと思われます。
投稿: 私見ですが | 2011年1月25日 (火) 10時41分
私見ですがさん、こんにちは~
確かに、結果的に信長は浅井・朝倉を滅亡に追いやるわけですから、この時の判断も間違ってはいなかったワケで、ここで、深追いしていたほうが、後に手こずって払う犠牲より、もっと多くの犠牲を払っていた可能性は充分ありますね。
「この時、もし、こうしていたら…」と、様々の推理をするのは、とても楽しいです。
投稿: 茶々 | 2011年1月25日 (火) 11時34分
第四次川中島も、単なる局地戦ではなく畿内情勢と関係した政治背景が近年指摘されるところですし、戦国期の本格的決戦が行われている合戦というのは、政治背景の強いものなのかもしれませんね。
投稿: 黒駒 | 2011年1月25日 (火) 11時46分
黒駒さん、こんにちは~
姉川も、これ一つではありませんからね。
金ヶ崎に始まり堅田から刀根坂…考えてみれば比叡山焼き討ちも含まれますもんね。
政治背景ありまくりです。
投稿: 茶々 | 2011年1月25日 (火) 15時38分