« 最古の治水工事・茨田堤の物語 | トップページ | 銀閣寺が銀箔じゃないワケは? »

2007年6月26日 (火)

朝鮮軍来襲!応永の外寇

 

応永二十六年(1419年)6月26日、朝鮮半島の李氏朝鮮が、大軍を率いて対馬に来襲!・・・『応永の外寇』です。

・・・・・・・・・

李氏朝鮮はもともと高麗の大臣であった李成桂が、倭寇の討伐に力を発揮した事で、国内でも勢力を拡大し、やがて高麗そのものを滅ぼして、1392年に建国した国です。

朝鮮半島は13世紀の頃から、ずっと倭寇に悩まされ続けていたのです。

倭寇とは、朝鮮半島や中国大陸の沿岸で猛威を振るった日本の海賊の、朝鮮・中国側からの呼び名です。

Wakoucc 倭寇

彼らはもともと、北九州や瀬戸内に住んでいた海の民・・・古来より海上を往来しての交易をなりわいとしていましたが、南北朝時代の頃からはそのテリトリーが朝鮮半島付近まで拡大していたのです。

しかし、彼らの中には、船団を組み、武装して港や村を襲撃し略奪行為をくりかえすやからも多くいました。

そういった海賊行為をはたらく彼らは、倭寇と呼ばれて恐れられ、高麗の滅亡を早め、明の衰退を招いたとも言われています。

・・・で、彼らの海賊行為にほとほと手を焼いた李朝鮮・・・。
何度も室町幕府に取り締まりを強化するよう要請しますが、なかなか事態は変わりませんでした。

やがて、応永十一年(1404年)、3代将軍・足利義満は、倭寇の取り締まりを強化する事を条件に明との公認の貿易を開始します。

これが、勘合貿易という物で、公認の証しの『勘合符』という、いわゆる「お墨付き」を持った船だけが往来できる・・・という物でしたが、残念ながら、効果はすぐには現れませんでした。

そんなこんなの応永二十六年・・・5月に、「大規模な倭寇が朝鮮半島を襲う」という事件が起こります。

勢いが衰えない倭寇はそのまま、翌月の6月には中国本土の遼東半島を襲います。

しかし、ここで、劉江(りゅうこう)率いる軍隊と激突!
1000人の兵を失うという大打撃を受けて敗退します。

日頃から、室町幕府のらちのあかない取締りにイライラしていた李朝鮮は、倭寇を叩きのめすには、彼らが敗戦した今がチャンスとばかりに、兵船227隻、兵員1万7千人という大軍を率いて、当時、倭寇の本拠地と思われていた対馬に来襲し、攻撃をしかけてきたのです。

これが、応永二十六年(1419年)6月26日『応永の外寇』です。

すわ!元寇の再来か!(10月19日参照>>)
と、幕府内では大騒ぎ。

しかし、もともと倭寇撃退のための進軍であって、日本を侵略するつもりではなかった(かも知れない?)朝鮮軍は、10日余り滞在しただけで、そのまま撤退し、それ以上は何事も起こりませんでした。

この時の痛手と、勘合貿易での規制の厳しさが増した事もあり、一旦倭寇は下火になって行きますが、それは、そこ・・・もともと海賊というあこぎなご職業をなさっている方々が、そのままおとなしくしている・・・なんて事があるはずもなく、日本が戦国時代に入る頃には、再び倭寇が盛んになり始めます。

しかし、今度の倭寇は前の物とは違い、「真倭」と呼ばれる日本の倭寇は少なく、ほとんど中国人自身による中国への略奪行為でした。

やがて、それら後半の倭寇も、豊臣秀吉という強力なリーダーの誕生によって、強固な禁制が行われるに至って、徐々に鎮圧される事になります。

世は戦国・・・交易と海賊が紙一重の時代です・・・。

今回の『応永の外寇』では、「倭寇撃退」だけで、日本を侵略する事なく、母国へお帰りになったという事で・・・。
 .

あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 最古の治水工事・茨田堤の物語 | トップページ | 銀閣寺が銀箔じゃないワケは? »

南北朝・室町時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんにちは。

応永の外寇での朝鮮軍来襲には、対馬の人たちも驚いた事でしょうね。

結果として6日間だけの攻防だったのですが、今現在「対馬は朝鮮領土」って言ってる人がいるようです。

この応永の外寇で対馬を占領した(6日間だけやけど…)のが根拠のようですが…

ネタはこちら→http://saint-just.seesaa.net/article/19616586.html

投稿: 御堂 | 2007年6月26日 (火) 16時28分

御堂さん、こんばんは~。

>今現在「対馬は朝鮮領土」って言ってる人がいる

私も、そういう主張をしている人がおられる事を、ちょっと前のニュースで知りました。

誰もその目で見た事のない、彼方の歴史の事なので、国によって主張が異なることもあるでしょう。

記事に関してはトゲトゲしくならないよう、やんわりとした表現で、中立の立場で書いたつもりです。

私が書いた記事のように、もし、本当に「倭寇撃退」という目的だけの進軍で、日本を侵略するつもりがなく、そのままお帰りになったのだとしたら、そんな当時の人々が、現在の「対馬は朝鮮の領土」という主張を聞いて何と思うでしょうか?

勇気ある撤退をした過去の英雄に対して、尊敬の念を抱くのであれば、彼らの決断こそ正義とすべきではないかと思うのですが・・・

ただ、国よって歴史認識が違いますからね・・・

投稿: 茶々 | 2007年6月26日 (火) 21時52分

対馬の有力者がいない隙を狙って17000で攻め込み有力者不在&体制不充分の対馬軍に相手で、対馬軍の戦死者二十名に対し百数十から百八十名の大被害を出して敗走し、朝鮮の弱卒振りを宗主国の明に見せ付けた戦いだね。
実は倭寇の活発化は、この戦争の後から始まった。

投稿: 弱鮮 | 2008年1月27日 (日) 17時57分

様々なお国の事情が絡まって、歴史の解釈にも差異が生じるのでしょう。

お隣どうしですから、仲良くありたいものです。

投稿: 茶々 | 2008年1月28日 (月) 01時44分

朝鮮軍は、6月17日に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、19日に再出航[1]、 20日昼頃に対馬の尾崎浦(『朝鮮王朝実録』には豆知浦とある)附近へ上陸した。一帯の一般船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家 1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の島民を殺害したとされる[1]。しかし26日頃には、仁位郡(『実録』では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受け、李従茂の軍は尾崎浦まで退却、戦局は膠着状態に陥った[2]。朝鮮側は、29日に宗氏に対して対馬の属州化などを要求する使者を送るが宗氏に拒絶された。損害の大きくなった朝鮮側は対馬側の和平提案を受け入れ、7月 3日に巨済島へ全面撤退した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87

投稿: アルマジロ | 2010年5月17日 (月) 17時28分

wikiの 応永の外寇 の項目とは
内容が違いますね。
ただの海賊退治に17,885人も兵
連れてこないでしょうし
日本侵略しようとして
失敗したのだと思います。

投稿: るふぃ | 2012年3月22日 (木) 14時18分

るふぃさん、こんばんは~

もともとwikiは、あまり参考にしないのですが、今回のコメントをいただいて読み直してみたところ、このページを書いた5年前とは、wikiの内容もずいぶんと違っているようです。
(基本wikiは、誰もが、その都度、いくらでも書き換えのできるサイトですから…)

5年の間には韓流ブームもあり、嫌韓ブームもあり…ネット上での風の流れも、ずいぶん変わりましたからね。
歴史認識も時とともに変化するという事でしょうか?
過激になり過ぎないよう、できるだけ公平な目線で書いたつもりですが…それも、いつか変わるかも知れません。

投稿: 茶々 | 2012年3月22日 (木) 18時54分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 朝鮮軍来襲!応永の外寇:

« 最古の治水工事・茨田堤の物語 | トップページ | 銀閣寺が銀箔じゃないワケは? »