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2007年6月24日 (日)

加藤清正・疑惑の死

 

慶長十六年(1611年)6月24日、あの加藤清正が疑惑の死を遂げます。

・・・・・・・・・・

加藤清正と言えばあの賤ヶ岳の合戦の七本槍(4月21日参照>>)の一人・・・。

剛勇で知られた武将で、朝鮮出兵の文禄・慶長の役(4月13日参照>>)では、伝説の域は越えないものの虎退治の逸話を残すツワ者・・・その武勇で豊臣秀吉を支えた人物です。

それは、清正が亡くなる3ヶ月前の事・・・。

京都の二条城で、徳川家康豊臣秀頼会見が行われたのです。

それ以前・・・関ヶ原の合戦(年表を参照>>)で勝利したとは言え、あくまで豊臣家の家老という立場だった家康・・・その家康が征夷大将軍に任ぜられたのが慶長八年(1603年)の2月

しかし、それは豊臣家の想定の範囲内・・・なんせ、日本の東半分を家康に任せるのは秀吉の遺言でしたから・・・(8月9日参照>>)

とは言え、一般的には、関ヶ原の合戦後には、豊臣家が一大名に成下がったという考え方が主流で、さらに、慶長十年(1605年)4月に家康が将軍職を息子・秀忠へ譲る(4月16日参照>>)事が、徳川天下の決定打のように言われています。

なので、今回は、とりあえず、通説通りにお話を進めさせていただきますと・・・そんな微妙な関係にあった徳川・豊臣両家の潤滑油として奔走したのが、加藤清正池田輝政前田利長といった豊臣恩顧の武将たちです。

彼らは、関ヶ原では徳川につきましたが、やはり、もともとは秀吉の家臣・・・秀吉恩顧の武将としては「何とか豊臣の家を存続させたい」と思うのは当然です。

そして、徳川家と豊臣家の関係修復に走り回った彼らの努力が実って、秀頼がやっと重い腰を上げた・・・それが、先ほど書いた慶長十六年(1611年)3月28日の二条城の会見(2014年3月28日参照>>)だったのです。

秀頼が到着したと聞いた家康は、自ら庭に出て出迎え、二条城の中で最高の座敷である「御成の間」に通し、二人対等の立場で礼儀を行なう事を提案しますが、逆に、秀頼がそれを断わります。

家康のほうが年長者であるし、朝廷から受けている官位が上なので、
「どうぞ上座へ・・・」
と、秀頼自らが譲り、家康の主導にて会見がおこなわれます。

この席にはもちろん、豊臣恩顧の彼らも同席していました(2008年3月28日参照>>)

それぞれの思惑絡む心の内はともかく、表面的には友好的なこの会見を実現させ、家康・秀頼のふたりを見守りながら、清正はホッと胸をなでおろした事でしょう。

ところが、その大役を果たし、領国である熊本に帰る途中の船の中での6月24日・・・清正は突然、高熱を出して倒れ、あっけなく死んでしまうのです。

死の直前には身体が黒くなり、舌が動かせなかった事から、その死の直後から「毒殺では?」と囁かれる疑惑の死となります。

江戸時代には、歌舞伎や浄瑠璃の題材となって、清正・毒殺説はかなり有名な話となりますが、死の直前の症状は、細菌性の病気の可能性もあり、真相は藪の中へ・・・と言った具合です。

しかし、不可解なのは清正だけではありません。

慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦から、慶長十九年(1614年)の大坂の冬の陣・勃発までの14年間の間に、もと豊臣方だった武将たちが、かなりの数、亡くなっているのです。

よくワカラン理由で切腹を命じられた赤松広秀(あかまつひろひで)(10月28日参照>>)を皮切りに前田玄以(5月7日参照>>)・有馬則頼・小早川秀秋(10月18日参照>>)・稲葉貞通・山岡景友・黒田如水(官兵衛孝高)(3月20日参照>>)・小堀政次・小出秀政・山内一豊(9月20日参照>>)・堀秀治・水谷勝俊・古田重勝・金森長近・田中吉政・京極高次(5月3日参照>>)・生駒一正・細川幽斎(藤孝)(8月20日参照>>)・浅野長政・堀尾吉晴・真田昌幸(6月4日参照>>)・加藤清正・松井康之・亀井玆矩(これのり)(10月5日参照>>)前田慶次郎(6月4日参照>>)・池田輝政(1月25日参照>>)・浅野幸長・最上義光(1月18日参照>>)・前田利長(5月20日参照>>)板部岡江雪斎(6月4日参照>>)織田信包(7月17日参照>>)・松浦鎮信・池田長吉以上33名です。

もちろん、この中には、失礼ながらお歳がすでに当時の平均寿命を、はるかに越えた方々もおられますし、諸説ある場合もありますので、一概に全員が疑惑の対象になるわけではありませんが、その数は異常に多い気がします。

なんせ、同じ14年間に、最初っから徳川についていた側の武将の死亡は18人程度ですから・・・。

そして、もう一つ・・・なぜか、清正死亡のこの年の翌年・慶長十七年(1612年)の頃から家康は「南無阿弥陀仏」の6文字の名号を自筆で書く事を日課とするようになるのです。

何か思うところがあったのでしょうか?

とは言え、この念仏を書く趣味(?)は、たった一年ほどで終ってしまいます。

何か、吹っ切りましたね・・・家康さん。
そろそろ、大坂の陣への下準備でしょうか?・・・。

真相は家康のみぞ知る・・・ですね。

Kiyomasatorataizicc
今日のイラストは、
やはり、清正さんの勇姿で、『加藤清正・虎退治』ですね。

虎を書くのが、こんなにも難しいとは思ってもみませんでした~。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

初めまして。何処からどう巡ってきたのか分かりませんが「今日は何の日」に辿り着きました。学生の頃から城巡りが好きできっかけは海音寺さんの小説「加藤清正」でした。何て義に厚いお方だろうと。後に知った真田信繁、素晴らしすぎます。
茶々様。これから頻繁に参上させて頂きます。

投稿: 虎之助 | 2008年12月19日 (金) 10時02分

虎之助さん、はじめまして。

加藤清正さん・・・ファンは多いですね~

もちろん、真田信繁さんも・・・

私は、大阪城の近くで生まれ育ったので、最後まで大阪城を守ってくれた真田さんへの思いはひとしおです。

・・・と、言いながらも、誉田で刃を交えた伊達政宗もキライではないという節操のないブログですが、今後ともよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2008年12月19日 (金) 10時24分

江 姫たちの戦国で「七本槍」が登場するのは春からだと思いますが、今年の加藤清正役は誰でしょうね?関が原以降の出来事も詳しく触れると思うので、この会談も触れると思います。

今年は熊本が注目されますね。地元では「清正公没後400年」と言う事で、供養の式典があるでしょうね。

投稿: えびすこ | 2011年1月21日 (金) 20時43分

えびすこさん、こんばんは~

天地人では完全スルーでしたね。
今度は、登場するのかな?楽しみです。

投稿: 茶々 | 2011年1月22日 (土) 02時04分

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