本能寺の余波!神流川の戦い
天正十年(1582年)6月18日、主君・織田信長の死を知り、上洛を果たそうとする滝川一益と、この機に乗じて上野を奪い取ろうとする北条氏政ら後北条氏が神流川で激突しました。
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天正十年の3月に武田勝頼を自害に追い込んだ(3月11日参照>>)織田信長。
信長は上野(群馬県)厩橋城(うまやばしじょう)を、滝川一益に守らせる事とし、旧武田の領地を与えます。(3月24日参照>>)
甲州の脅威が無くなった信長は、今度は未だ越後(新潟県)の上杉の勢力圏内にある北陸制覇に向けて力を注ぐようになります。
それまで、先代の上杉謙信の死によって起こった後継者争い御館の乱(3月17日参照)のどさくさに紛れて、徐々に北へと進攻していった織田軍・北陸担当の柴田勝家らでしたが、ここにきて、後継者争いに勝利した上杉景勝が、北陸の最前線を死守すべく、援軍として参戦しようとします。
それを見た一益は、遠征でお留守になった景勝の本拠地・春日山城を攻める構えを見せ、慌てて本拠地へと戻る景勝。
援軍に帰られてしまい、孤立した形の北陸・魚津城(富山県)は、勝家ら北陸担当班の攻撃によって、まもなく落城します(6月3日参照)。
しかし、その前日、信長が本能寺で明智光秀に攻められ自刃するという本能寺の変(6月2日参照)が起こっていたのです。
厩橋城で主君の死の知らせを聞いた一益は、すぐに1万8千の軍勢を従えて上洛しようと城を出ます。
しかし、信長の死は、すぐに上野と隣接する北条氏にも伝わります。
世は戦国です。
この機に乗じて、少しでも領地を増やそうとするのは当然のなりゆき・・・。
北条氏政が一益に手紙を送って相手の出方を探る一方で、氏政の息子・氏直が上野・倉賀野(くらがの)へ進軍し、これまた相手の出方を探ります。
そして、いよいよ、天正十年(1582年)6月18日、一益が神流川(かんながわ)を渡り上野から武蔵(埼玉県)本庄原に入ったところで、北条氏政・氏直親子の率いる5万の軍勢と激突します。
最初は、一益側が優位のうちに戦闘が繰り広げられ、北条軍の名だたる武将が次々討ち取られていきましたが、そのうち数で勝る北条軍は、いつのほどからから半分くらいの軍勢が一益軍の後方へと回りこみ、前後から挟み撃ちの状態となって、徐々に形勢は逆転されていきます。
そうなると一益軍の崩れは早い。
・・・と、いうのも、最初に書いたように一益は、3月に上野・厩橋城をもらったばかり・・・
一益の率いている軍勢の中には、ちょっと前まで北条氏についていた者が、かなりの数含まれていたのです。
そんな新参者の兵たちは、一旦負け始めると、もはやヤル気はゼロ。
またたく間に敗北を喫してしまいます。
戦闘は19日まで続けられましたが、もうその頃には、一益軍は敗北に次ぐ敗北の連続で、逆に、勢いに乗る北条軍は、上野の奥地の方まで進攻して行きます。
結局、一益は、信濃(長野県)を経由して、本拠地の伊勢・長島(三重県)へ逃走するのです。
命こそ助かったものの、この合戦によって一益は、信長の家臣の中でも重きを置かれていた立場から完全に脱落する事となります。
今日のイラストは、
『北条軍・神流川に出陣!』といった感じでしょうか・・・。
滝川さんは先日書かせていただいたばかりなので、今回はその滝川さんが目にした光景・・・武蔵に入った途端、北条氏政・氏直親子率いる5万の大軍がデ~ン!と・・・
5万も書けないので、4騎だけ・・・
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