一味同心・一揆へ行こう!
長享二年(1488年)6月9日、加賀に一向一揆が起こり、守護の富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込みました。
その後、加賀では、柴田勝家らが制圧するまでの約100年間、一向宗門徒の自治よる独立国家が営まれる事になったわけですが、そこのところの経緯は加賀一向一揆の勃発>>&加賀一向一揆の終焉>>で見ていただくとして・・・
今日はちょっと趣向を変えて・・・
あなたがこの時代のある村に住んでいる村民の一人と仮定して、「あなたが住んでいる惣村(そうそん)の世話好きなおっちゃんからの一揆へのお誘い」という形をとって、当時の一揆の様子やその基盤となった惣村についてご紹介したいと思います。
・・・・・・・・・・
「こら!
何、ボ~ッとしとんねん!
さっき鐘と太鼓が鳴っとったやろ!
さっさと行かな、鐘が鳴ってから線香が2寸燃えるうちに集会所に行っとかな欠席とみなされて、罰受けさされんねんで。
そや、これから集会やがな。
明日の一揆についてのモロモロの説明があんねんから・・・
何?お前まだ一揆の署名してへんのんかい!
はよ・・・ここに名前書くねん。
太良荘の一揆については、8月21日【中世の名も無き人の名前とは?】でどうぞ>>
これはな、「傘連判(からかされんぱん)」言うてな、一揆の首謀者が誰かわからんように、こーゆー感じで丸く署名すんねん。
他にも、普通に署名してから「孔子次第(くじしだい)」って注釈つけて「くじ引きで順番決めました」って事を明記したり、テレビ番組のエンドロールみたいに「順不同」って言葉を付け加えたりする方法もあんねやけどな。
とにかく、一揆っちゅーのはやな、「揆を一にする」=「心を合わせて行動する」っちゅーこっちゃ。
「一味同心(いちみどうしん)」・・・心は同じで皆一緒、上も下もない、リーダーも協力者も、皆、同一なんや。
ワシらの「惣村」っちゅーのは、貴族や武士に頼らんと、自分らで運営して行くんや。
春の種まきから田植え、稲刈り・・・全部村人で助け合ってやって行くんや。
もちろん、法律も自分らの法律やで。
村の共有物と各個人の物の振り分けや、行事への参加や寄付についても、村民同士のモメ事も、みんな村の法律に基づいて解決するんや。
法律かて、村の誰かが勝手に決めんのとちゃうで。
番頭・沙汰人(さたにん)・中老・長・乙名(おとな)てな世話役はおるけどな。
そいつらは、あくまで世話役で、決め事があるときは、今日らみたいに村人全員が集まる集会を開いてな、そこで合点(がってん・投票)をして、多分の儀(多数決)で、衆議(意志決定手続き)をするんや。
これは、絶対譲られへん決まり事なんや。
武士や貴族が、村に対して何やかんや言うてきても、寄り合いの決定で決まらんかぎりは、何も動けへんのや。
事件の検断(警察と裁判)なんかも自分らでするねんで。
こないだの、アレ、お前も知ってるやろ?
強盗殺人事件の犯人の油売り・・・逮捕して、ちゃんと決まりに基づいた裁判して処刑したがな。
村同士の闘争を解決する時には、「解死人(げしにん)」ちゅーシステムもあるで。
これはな、村同士がモメて、「一触即発!こら合戦や!」てな事になった時、武力衝突を避けるための手段や。
村の代表者を一人決めて、解死人として相手に引き渡すんや。
引き渡された解死人は殺したらアカンって原則があるけど、どうしても押さえられん人間の感情で、復讐の対象にされる場合もある事はあるんやけどな。
(今井町については7月4日のページで>>>)
そのかわり解死人になった者の残った家族は村で100%保証や。
どんな事があっても村全体で守ったる!
それが、平和解決のシムテムなんや。
ついでやさかい、明日の一揆についても、教えといたるけど・・・
ほら貝を吹き鳴らしながら、何人かが道筋を歩き出したら、とにかく鍬(くわ)や鎌を持って集合や。
竹槍や棒でもええで。
みのと傘は必須アイテムやな。
それから着物の色は柿色(身分の低い色とされていた)・・・背中に米俵背負うのも、今、流行ってるで!
一向一揆の場合は、「南無阿弥陀仏」て書いた「蓆(むしろ)旗」も必要やな。
広島の一向一揆なんか
『進者往生極楽・退者无間(無限)地獄』
「行けば極楽、行かねば地獄」
て書いとったらしいけど、文章長いっちゅーねんなぁ。
当日は、罵声や怒号をあびせながら、わざと乱暴狼藉を働きもって、道筋を進んで行くさかいにな。
当然やろ。
相手をビビらさなあかんねんから・・・、荒々しい雰囲気をかもし出さんと、おとなしゅーしてたらラチあけへんがな。
明日の一揆が成功したら、ワシらの暮らしはもっとようなるで~
ほな、行こか?
どこへ?て、集会やがな、アカン、もう遅刻や~!
村八分にされるがな~」
・・・・・・・・・
村八分(むらはちぶ)とは・・・
決まりをやぶったために、村全体でその家をシカト(無視)する行為なのですが、当時の村では、特に重要な付き合いとして、
「誕生祝・成人式・結婚式・病気見舞い・葬式・法事・火事・出立・家の普請・水害」
の10項目を定めていました。
・・・で、村八分は、上の10項目のうち、8項目のつきあいはやめるが、2項目のつきあいは残しておくという物です。
その2項目とは葬式と火事・・・。
いくら全員で無視している家でも、火事になったら村全体で消火活動にあたり、復興作業を手伝います。
その家の人が死んだ時も、死の悲しみは皆同じ・・・ともに悲しみます。
外国では、こうゆう時、たいてい100%の無視をしますが、2割のつきあいを残しているところに、日本人のちょっとした心遣いが垣間見えますね。
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参照ページ:6月9日:長享一揆~高尾城の戦い>>
9月18日:正長の土一揆>>
12月11日:山城の国一揆>>
3月9日:加賀一向一揆の終焉>>
加賀一向一揆はなぜ100年も続いたか?>>
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コメント
誘うてくれてありがとうな、おっちゃん。危ないところやったわ。
今日の集会、「一味神水」の儀式、ありますのんか?初めてなんで、実はこわいんや。
それと~、ちょっと聞きずらいんやけど、わしらの惣村と江戸時代の村はどのへんが違うんや?明日の一揆、無事帰ってからでいいから説明してくれへんか?あとでな。
ほな、集会所まで走りまっか?
(村の住人にしてはありえない質問がまじってしまいました。大阪弁大丈夫でしょうか)
投稿: りくにす | 2013年3月13日 (水) 20時38分
せやな、「一味神水」は「ここぞ」という一揆の時はつきものやな…当然、今回もヤルで~~覚悟しぃや
ほんで…なんやった??
あ、そうそう、江戸時代の村の事やな。
それはな、
元和九年(1623年)に五人組制度>>っちゅーのが始まってしもて、もうワヤやな(。>0<。)
ワシら農民も、すっかり、幕府の身分制度に組み込まれてしもたわ。。。
(りくにすさん、こんな感じで、よろしおますやろか?)
投稿: 茶々 | 2013年3月14日 (木) 02時25分
茶々様、ノッてくれてありがとうございます。
「五人組」ですが、例えば五軒とか七軒しかいないところはどうするんだろう、というくだらない疑問から、五人組と例えば祭りの実行組織はどう関係するのか、とか、江戸時代の村には疑問がいっぱいです。というか、都会人には農村生活そのものが謎なんです。
あの大震災後には、無事だった食べ物を集めて配った集落などもあったそうです。はるか昔からの村の自治組織がまだ生きていた、とするとちょっと嬉しいです。
投稿: りくにす | 2013年3月14日 (木) 22時07分
りくにすさん、こんばんは~
>五軒とか七軒しかいないところ…
それについての確固たる史料を持ってるわけじゃないのでアレですが、たぶん「○○村の○○集落」みたいな感じで近隣の村に組み込まれるんじゃないでしょうか?
幕府は「五人組」と同時期に「檀家制度」も実施してます。
住民全員が、どこかの宗派に属し、寺の檀家として記録されなければ、住民として認めてもらえず、拒否すれば「キリシタンではないか」と疑われて罰せられ…
それで幕府→本寺→末寺→檀家として、幕藩体制にバッチリ組み込まれ、お寺の過去帳が戸籍の代わりになったりしてますからね~
農民の掟なんか見ると、祭礼や結婚式のやり方や、育てる作物、労働の仕方、果ては着物ファッションにまで、なんやかんや規制をかけていて、「違反した者は徹底的に罰する」ような事も書いてあるので、そこから逃れたら、無宿人として流浪の身になって戸籍抹消…てな感じだったんじゃないでしょうか?
ただ、一方ではは、おっしゃる通りの昔ながらの自治組織的な物が残っている現状があるわけですから、村人同志、水面下で暗黙の了解をしつつ、幕府権力からお互いに身を守っていたのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2013年3月15日 (金) 04時09分