大江戸・旅マニュアル
寛永十二年(1635年)6月30日、江戸幕府の三代将軍・徳川家光は、先代・秀忠の時代に定められた『武家諸法度』を改定し、新たに参勤交代の制度を定めました。
・・・て、事で昨年は、参勤交代について書かせていただきましたので(昨年のページを見る>>>)、今回は、当時の庶民の旅について書かせていただきたいと思います。
・‥…━━━☆
お風呂や、漬物桶・漬物石、はたまた茶道具まで持って旅した参勤交代と違って、庶民の旅は、かなり身軽な物・・・時代劇を見ても、ほとんど荷物は持っていません。
・・・と、気になるのは、皆が持ってる、あの『振り分け荷物』の中身ですよね。
いったい、江戸時代の人って、どんな物を持って旅をしていたんでしょうか?
振り分け荷物(→の人が肩にかけてるヤツ)というのは、「竹が柳で編んだ四角い籠のような物に手ぬぐいを結びつけ、もう一方の端は風呂敷包みになっている」という形が一番一般的でした。
もっと、大ぶりの物もありましたが、東海道など、ちゃんと街道として整備されている所では、大抵の物が手に入ったので、時代劇で良く見るくらいの大きさで充分だったそうです。
中には、メモ帳と筆記用具、それに扇子や手ぬぐい・櫛といった身だしなみグッズ。
迷ったら困るので、日時計と磁石。
夜になったら必要な、ちょうちん・ろうそく・火打石。
当時のマニュアル本には、便利グッズとして「麻縄3本」と書かれています。
どうやら、木と木の間に渡して、洗濯物を乾かしたりなんぞしたようです。
木と木の間隔がまちまちなので、3本・・・という事ですね。
さらに、江戸時代だからこそ必要な物は、枕・・・。
当時はすべての宿屋に布団がセットになっているわけではなく、場所によっては無い所もあったようで、布団はなくてもゴロンとできますが、あのヘアスタイルですから、枕がなくては困りますよね。
旅行用の枕には、中にそろばんや鏡などが入って小物入れのように使える物や、コンパクト重視の折りたたみ式など、アイデア満載の物がたくさんありました。
しかし、旅人が最もこだわったのは、財布です。
なんせ、旅には危険が伴いますから・・・。
賊に遭ったとしても、先ほども書いたように、大抵の物は街道筋の店屋で手に入りますから、命とお金さえ残っていれば、何とかなります。
旅のマニュアル本では、最低3つの財布を用意するように、注意を呼びかけます。
一つは所持金の多くを入れておく大きな財布・・・これは、腹巻の奥にしまい込んだり、長い帯のようになっている物は腹巻を巻く時に一緒に巻き込んだりしました。
一番重要な財布です。
小銭入れは、しょっちゅう出し入れするので、紐のついた小さい財布を首からかけ、財布そのものは、フトコロの奥にしまい込みます。
そして、もう一つは、腰にぶら下げるタイプ。
たいていは、巾着袋のような物でしたが、帯に着けられるようになった『早道』なる専用グッズもあったとか・・・
あと、外見は刀に見えるけれど、柄を持って抜くと、刃の部分がなく、そのあいた隙間にお金を入れる・・・なんていうアイデア商品も・・・
これなら泥棒も、「そんな商品がある」とわかっていても、財布なのか本物の刀なのかで、チョット手が出しにくいですね~
うまい事考えたもんです。
ここまで財布にこだわるのは、旅の途中もさることながら、宿屋での泥棒がメチャメチャ多かったんです。
それまでは、大きな農家が部屋を貸す・・・つまり民宿だったのが、参勤交代の制度が確立し、街道が整備されるようになって、旅人専門のいわゆる宿屋=旅篭が急激に増え始めましたが、現在のように、グループごとの個室ではなく、ほとんどが、幾人ずつかの相部屋にザコ寝状態です。
基本は素泊まりで、必要ならば食糧を持ち込んで、宿屋の台所を借りて自分で作るといった状況。
江戸中期頃になって、やっとお酒や食事を出す所が出てきますが、それでも部屋の数は、1軒に2~3部屋程度・・・7~8部屋もある宿屋なんてもう、最高級のお宿です。
そんな高級宿でさえ、混んでくると、「相部屋お願いしま~す」と言って、次の客を通される・・・
知らない者同士、みんな一緒が当たり前・・・なので、まわりには泥棒かも知れない人がウヨウヨいるので、大事な物は身につけとかないと、とんでもない事になってしまうわけです。
写真は、京都⇔大阪間を結ぶ京街道・枚方宿の船宿・『鍵屋』です。
創業は天正年間(1573年~92年)で、現在は資料館として、江戸の船宿の面影を今に残しています。
鍵屋は、『三十石船唄』に
♪ここはどこじゃと船頭衆が問えば ここは、枚方鍵屋浦
鍵屋浦には碇(いかり)はいらぬ 三味や太鼓で船止める♪
と、唄われているくらい有名な宿屋です。
それでも、やはり部屋は東に六畳の客間が3部屋、台所を挟んで西に四畳半が4部屋と板の間が一つの合計で8部屋。
当時としてはかなり高級なお宿だっだんでしょうね。
ドラマの黄門さま御一行が泊まってるような、広~い縁側、長~い廊下にズラリと部屋が並んでいる・・・なんて事は、まず無かったんですね~。
そんなザコ寝状態でも、旅行費用の大半がお宿代(今のお金で3千円くらだったらしい)に消えて行くわけですから大変です。
♪お江戸~日本橋~七つ立ち~♪
って、歌がありますが、この「七つ」というのは、午前4時頃。
まだ薄暗い夜明け前の朝・4時に出立するのが常識となったのも、チョットでも距離を稼いで、目的地に着くまでに、一泊でも宿屋に泊まる回数を減らしたいという気持ちからなんです。
ドラマの黄門さまは、よく連泊してるっぽい感じですが、実際には、そんな人はほとんどいなかったでしょうね。
あ・・・でも、黄門さまは急ぐ旅ではないし、お金もたんまり持ってそうなので、心配はいらないですね。
ツレに(元)泥棒もいるみたいだし・・・。
ちなみに、現代では、和風旅館と称されている旅館でも、建物の真ん中に廊下があって、個室へのドアが外向きに並んでいる所が多いですが、
それは明治になって外国式のホテルタイプが導入された事によって、和風旅館も同様に変化して物で、
江戸時代の旅館は、上記の鍵屋の写真でもお解りいただけるように、建物の周囲に、いわゆる縁側のように廊下があって、部屋はその廊下に囲まれるような形で中にいくつか固まっていて、それぞれが襖で仕切られてる(個別のドアは無いですから)というのが一般的でした。
その名残りが、今も和風旅館に残る、畳の部屋の奥にある見晴らしの良い窓際の、椅子とかテーブルとか置いてある、あの廊下のようなアレです。。。
江戸時代は、そっちが部屋への入り口だったんですね。
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コメント
確か江戸東京博物館に江戸時代の旅行の携帯用品が展示してあったと思います。
旅行に行く際にはどういった土産を購入しますか?
ところで明日は祝日では海の日ですが、記念日では「修学旅行の日」だそうです。日本最初(世界最初か?)の修学旅行が行われた日らしいです。
投稿: えびすこ | 2015年7月19日 (日) 13時51分
えびすこさん、こんばんは~
始まりは諸説あるみたいですが、いずれも、昔の修学旅行は軍隊のサバイバル訓練のような過酷な物だったようですよ。
修学旅行をする国自体が少ないんじゃ無いでしょうか?
投稿: 茶々 | 2015年7月20日 (月) 03時37分
江戸時代の旅スタイルを知りたくてたどり着きました。
当時もマニュアルがあったんですね、今のアウトドアや海外旅行心得と似ているところもあって面白かったです
投稿: | 2019年8月13日 (火) 21時19分
コメントありがとうございますm(_ _)m
きっと、昔の人は、いろんなアイデアを駆使して、少ない荷物でうまく旅してたんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2019年8月13日 (火) 23時12分