天下分け目の天王山!山崎の合戦
天正十年(1582年)6月13日・・・いよいよ山崎の合戦!
天下分け目の天王山です。
今でもスポーツなどで、先行きを決定付けるような重要な試合を「天王山」と呼ぶのは、この戦いに由来する物です。
・‥…━━━☆
あの本能寺の変(6月2日参照>>)から11日め・・・
この間の明智光秀の事を、俗に三日天下と言いますが、ご覧のように三日ではありません。
ただ、羽柴(豊臣)秀吉と光秀・・・ともに畿内の武将たちに味方になるよう声をかけていた中では、「主君の仇討ち」を大義名分に掲げた秀吉には続々と集まります(6月11日参照>>)が、一方の光秀側には、筒井順慶も来ず、頼りにしていた娘・お玉(ガラシャ)の夫・細川忠興も、その父・藤孝(幽斎)も参戦する事はなかったのです(6月9日参照>>)。
12日に洞ヶ峠を下りた光秀は、直属の部下1万6千の兵で、秀吉軍4万に挑むべく、戦いの地・山崎へ向かいます。
光秀には、少ない兵で立ち向かう唯一の秘策がありました。
それは、大坂から京都へ向かう交通の要所・山崎で敵を向かえ撃つ事です。
先日の洞ヶ峠のページの地図(←)を見ていただいたらわかると思いますが、天王山と淀川を挟んで石清水八幡宮のある男山・・・。
この二つの山が接近する狭い空間に、西岸には阪急京都線、JR東海道本線、東海道新幹線・・・そして東岸には京阪電車と、大阪⇔京都間の交通手段がほぼ同一線上を行き交います。
さすがに、道路の方は、1号線が例の洞ヶ峠越え、名神高速道路が天王山トンネルと、少しズレてはいますが、広い視野で見ると、同じ場所を通っているような物です。
それだけ、大阪から京都に向かう時、どうしても通らなければならない場所だったのです。
もちろん、現在京阪電車が走っている淀川の東岸にも道はありましたが、京街道として整備されるのは、文禄堤などでわかるように秀吉が天下を取ってからの事・・・
当時はまだまだメイン道路は西岸の西国街道でした。
ここには、太古の昔から摂津の国と山背(後の山城)の国を分ける関所があり、藤原道長や平家一門も、山崎を通って大坂⇔京都間を移動していました。
そんな重要な地点でありながら、山と川が接近しているため幅が狭い!
今でも阪急とJRが入り乱れて走っていますが、当時の淀川はさらに西側にあり、幅も広く、しかも、その横に大きな沼もありました。
そうです、長い前置きになりましたが、秀吉の大軍は、大軍だからこそ、ここを一気に通り抜ける事ができないのです。
「狭い空間で、しかたなく縦長になった軍を、一つ一つ崩していけば勝機はある」と、光秀は思ったに違いありません。
そのためには、秀吉軍より先に山崎に着いて、準備を整えなければなりません。
敵が、その先の広い場所へ出てしまっては勝ち目がありませんから・・・。
幸いな事に12日の時点で、敵は摂津富田、こちらは洞ヶ峠・・・川越えはあるものの、少しこちらが距離は近い。
光秀は、その日のうちに山崎に到着して、秀吉軍を迎え撃つ準備を整えます。
↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
そして、いよいよ明けて天正十年(1582年)6月13日・・・
その日は雨のそぼ降るどんよりとした日でした。
狭い場所からの出口部分に扇形に先鋒を配置する光秀・・・。
やがて、秀吉軍の先鋒・中川清秀と高山右近が天王山のふもとに陣を敷きます。
その後ろには羽柴秀長(秀吉の弟)、そしてもちろん秀吉も続きます。
戦闘は申の刻・・・午後4時半頃開始されました。
まずは、光秀軍の斉藤利三・並河掃部・松田太郎左衛門・津田正時ら先鋒が秀吉軍の先鋒に突撃します。
しかし、さすがに、秀吉軍の先鋒・・・そう簡単に切り崩せる物ではありません。
光秀軍の先鋒は苦戦を強いられます。
その間に、秀吉軍の池田恒興・加藤光泰・木村隼人らが、淀川の際をすり抜けて光秀軍の東側を攻め立てます。
ここを守るのは、伊勢与三郎・御牧三左衛門・諏訪飛騨守といった面々でしたが、こちらは主力でなない少し手薄の軍・・・たちまち苦戦に陥ってしまいます。
そこを、すかざず秀吉軍・本隊の大部隊が、その後ろを通り抜け、天王山の東側の広い部分に出てしまいます。
戦闘の火蓋が切られてから、わずか1時間後の事でした。
本隊が広い場所に出てしまえば、後は数の問題・・・もはや戦況は見えています。
はやくも、勝利の気持ちたかまる秀吉軍・・・一方の光秀軍は敗走するしかありません。
約3時間ほどの戦いで勝敗は決しました。
夕暮れ迫る闇に紛れて、光秀は本陣の後方にあたる勝龍寺城へと逃げ込みます。
しかし、この勝龍寺城は、城と言っても砦に毛の生えた程度の平城で、とても秀吉軍の追討を迎え撃てる城ではありません。
光秀は、夜になるのを待って、本拠地である近江・坂本城をめざして勝龍寺城を出立します。
まだ、坂本城で再起を計るチャンスはあります。
しかし、一行が山科小栗栖(おぐるす)に差し掛かった時、突然藪の中から竹槍が突き出されます。
竹槍は落ち武者狩りをしていた周辺の村人の物でした。
即座に村人を撃退して、再び近江へ向けて進む一行・・・しかし、その時、突然、光秀が落馬をしてしまいます。
見ると、脇から大量の血が・・・。
先ほどの竹槍は、光秀に予想以上のケガを負わせていました。
「もはや、これまで・・・」と悟った光秀は、その場で自刃し、付き添っていた側近が介錯をし、その首を敵に取られぬよう地中深く埋めたのです。
明智光秀、55歳・・・本能寺の変から11日目の事でした。
翌、14日には、坂本城にて、光秀の正室や子供たちが自刃し(6月15日参照>>)、完全に光秀の夢は露と消えました。
このブログでは、本能寺の変の時にも、その動機に関して「戦国最大のミステリー」と書きましたが、この光秀の死に関しても腑に落ちない部分があるのは確かです。
光秀に槍をつけたのも、通りすがりの村人。
またこの後、見つからないように埋められたはずの光秀の首を発見するのも、通りすがりの村人。
光秀の最期としてはあまりにも不可解な最期です。
・・・よって、またまたミステリー・・・光秀生存説となるのですが、そのお話は10月2日の【天海=光秀説】のページでどうぞ>>
★今日の出来事のあとに起こる関連事項ページ
●【安土城が炎上】>>
●【光秀家臣・斎藤利三の処刑】>>
●【滝川一益の神流川の戦い】>>
●【河尻秀隆が討死】>>
●【森長可の東濃制圧前半戦…】>>
●【前田利家の石動荒山の戦い】>>
●【信長後継者を決める清洲会議】>>
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コメント
茶々さん、こんばんは。
山崎の合戦…秀吉も光秀もまさに“転機”となる戦でしたね。
さて、最近考えるのに、光秀が勝龍寺から敗走して小栗栖で果てるまでのルートってどこを使ってんでしょうね?
陸路を使って敗走した―という記述ばかりが多く見られます。
ところが、最近発見したのですが、宇治の槇島城主・井戸良弘の息子が光秀の娘に嫁いでおり、井戸氏は光秀方に味方しています。
それを考慮に入れると、もしや巨椋池を舟で渡航してたのでは?って考えるパターンもありかな!と思うのですが…
あっても不思議じゃないでしょ?
投稿: 御堂 | 2007年6月13日 (水) 02時36分
御堂さん、こんにちは~。
なるほど・・・それもアリですね。
私も色々な本を見ていますが、山崎の合戦で、光秀側についた武将・・・一般的な書籍では、個人名は斉藤利三の名前くらいしか出て来ないんですよね。
たとえば、記事の布陣図に書いている津田正時・・・天王山にある看板には、「津田氏」としか書かれていません。
枚方市にある津田城跡や津田正信(正時の祖父)のお墓に行って、初めて山崎の合戦の津田氏がこの枚方の津田正時である事を知りました。
そんな感じで、この時の光秀側には、個人名さえ出てこない地元の侍が数多く参戦していたのではないかと思います。
そうすれば、きっと地元の侍の地の利をいかし、地元民しかしらないようなルートを通ったのではないかと思います。
先日書いた家康の伊賀越えの時も、家康は交野から津田・穂谷(ここも枚方市です)を通って宇治へ抜けるルートを選択しています
御堂さんのおっしゃるルートは、そんな地元密着のルートの中でもかなり有力候補ですね。
投稿: 茶々 | 2007年6月13日 (水) 13時51分
昨年の「天地人」では少ししか取り上げていませんでしたが、来年はもう少しクローズアップされるでしょうね。
名門の流れを汲む細川藤考か忠興が五大老になれなかった(ならなかった?)理由として、この戦いがネックになったでしょうね。元々は足利系なので新興の豊臣家の家臣に甘んじられない所が、プライドとしてあったかもしれないですね。豊臣秀吉も細川家を信用できなかったか?
投稿: えびすこ | 2010年5月22日 (土) 22時20分
えびすこさん、こんばんは~
合戦シーンはお金がかかるので、「天地人」のように、またもやナレーションでスルーになるかも知れません。
個人的な望みとしては、やっていただきたいですが・・・
投稿: 茶々 | 2010年5月23日 (日) 01時13分
茶々さん、こんばんは!!
私もやってほしいです山崎の戦い!!!
なんといっても、秀吉さんの天下統一の第一歩ですからね!ゲームでも一番やってて楽しいですし♪秀吉さん大活躍ですからwwそれに、敵が少ないので楽ですし(笑)
でも明らかに次の賤ヶ岳の合戦の方が重要ですから…市死んでしまいますし…残念ながらスルーされる可能性大ですよね~orz
えびすこさん、細川さんは教養人・茶人で有名で、千利休に最も気に入られた弟子で、彼の死に猛反対をした人物ですから、そこらへんも関係あるかもしれませんね~
でも、明智光秀の仲間にならなく、本当に世渡り上手ですよね彼。誰からも人目置かれる文化人で戦上手の美男子。かっこいいですよね!
けど、秀吉さんには勝てませんけど!!
はい、すみませんでした。
投稿: 暗離音渡 | 2010年5月23日 (日) 22時03分
暗離音渡さん、こんばんは~
神戸信孝が、先に大坂城に行ってくれた事が秀吉にはラッキーでした。
彼が直で光秀討伐に向かっていたら、秀吉の出番はなかったかも知れませんが、かと言って、信孝にそこまで多くの兵がついて来たがどうかは微妙なのですが・・・
投稿: 茶々 | 2010年5月24日 (月) 01時16分
茶々さん、こんばんは!
そうですよね!本当に秀吉さんは幸運な男です!!中国大返し!いいですよね~ここらへんの歴史本はとても面白いです♪好きですww
家康さんが一番乗りは自分ができると、国に帰ってからのんびりと高をくくっていたのもラッキーです!毛利軍より先に情報ゲットしたのももちろんですがw
天王山、いつか絶対行きたいです!!
その前に、大坂城もですが(笑)
あ、でも名古屋城にも行きたいです!おもてなし武将隊を見てみたい!!!
はい、すみませんでした。
投稿: 暗離音渡 | 2010年5月24日 (月) 23時11分
暗離音渡さん、こんばんは~
>おもてなし武将隊
いいですね~
ウマい事考えて、見事、成功してますね。
大阪城も、朝早くに手づくりの甲冑姿で公園のゴミ拾いをしてくださってるボランティアの方々がいらっしゃるんですが、平均年齢的なアレもあって「おもてなし武将隊」とはいかないようです。
京都の新撰組のほうは、プロデュースしたどなたかが私欲に走っているので、地元にまったく還元されていない気がします。
投稿: 茶々 | 2010年5月25日 (火) 03時36分
明智光秀にとって山崎の戦いは、何がなんでも、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に勝たなければならない戦いであったことは、言うまでもないでしょう。何しろ、細川幽斎(剃髪前は、藤孝)&忠興親子や筒井順慶が味方しなかった上に、全国の大名や武将が、光秀に加勢しなかったわけですから、それを考えると、光秀としては、もしも秀吉に勝利すれば、なびく者たちが現れるかもしれないという淡い期待をしていたのではないでしょうか。しかし光秀は、痛恨の敗北を味わうことになってしまい、その果てに、惨めすぎる最期を遂げました。山崎の戦いは、最終的には、光秀の人生に、終止符を打っただけの戦いでしかないような気がしました。あと、全国の大名や武将が、なぜ、光秀に味方しなかったのでしょうか?
投稿: トト | 2016年2月 8日 (月) 21時45分
トトさん、こんばんは~
ホント本能寺の変は謎ですね~
なんたって、光秀ともあろう人なんですから、謀反起こすなら起こすで、完璧な準備をして…って思いますよね~
光秀にとっては、謀反=死亡フラグでは無かった筈なんですけど…不思議です。
投稿: 茶々 | 2016年2月 9日 (火) 04時43分
山崎の戦いのことで、新たに追記したいことがあるのですが、明智光秀に勝利した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、最終的には太閤に昇りつめるほどの天下人になったのは、言うまでもありませんが、仮に、光秀が秀吉に勝利していたら、少なくとも朝鮮出兵だけは、起きなかったような気がします。ただし、光秀が勝利し続けるのは、極めて難しかった可能性の方が高いかもしれません。それに、繰り返し言いますが、細川幽斎(剃髪前は、藤孝)&忠興親子や筒井順慶が、味方しなかったことを考えると、光秀に、求心力が大いに不足していたのだと思います。山崎の戦いが残したものは、光秀や明智一族の滅亡に加えて、朝鮮出兵が引き起こされてしまったことや、織田信長死後の織田家の力が低下したことでしょうね。
投稿: トト | 2016年2月15日 (月) 22時51分
トトさん、こんばんは~
敗者となれば滅亡は必須ですから、負けた明智家や正統な後継者もろとも暗殺された織田家が衰退するのは当然だと思いますが、朝鮮出兵の話は、山崎の合戦の勝敗とは別に考えるべきではないでしょうか?
当時の世界情勢を見れば、朝鮮出兵が秀吉個人の野望や私利私欲で無い可能性は高いです。
この山崎の合戦から約100年前の1494年にスペインとポルトガルの間で結ばれたトルデシリャス条約>>の延長線が日本の真上を通っている事で、当時は「ポルトガルに属する東インドかスペインに属する西インドか…ジパング(日本)は、どっちのインドに属するのか?」という事が、両国の間で激しい論争になっていたくらいですから、この時点で、日本が世界を相手に戦える事を明確に表明していなければ、九州あたりは、どちらかの国の植民地になっていた可能性もゼロでは無かったと、個人的には考えています。
もちろん、例え秀吉が天下を取っていなくても、あまたいる戦国大名が黙って植民地にされるとは思えませんので、可能性としては低いとは思いますが…
投稿: 茶々 | 2016年2月16日 (火) 02時27分
山崎の戦いに関連した2度目の追記で申し訳ありませんが、津田信澄という武将をご存知でしょうか? 織田信長の甥で、信長の弟の織田信行の息子なのですが、いつ頃、津田姓を名乗ったかについてはまったく分かりません。ただし、明智光秀の娘婿であることははっきりしてますので、それが災いして、山崎の戦いが勃発する前に、信長の三男である織田信孝と丹羽長秀に攻め滅ぼされたそうです。反対に、細川忠興は、正室である細川玉子(後の細川ガラシャ)を幽閉した上に、味方しないことを宣言したことで、最終的には、細川家は存続することができました。同じ娘婿でも、信澄と忠興の辿った運命は、完全に正反対でした。それでも、信澄には、織田昌澄という息子がいまして、昌澄の子孫は、江戸時代まで、旗本として続いたそうです。それが、信澄にとっての救いではないかと思います。
投稿: トト | 2016年2月26日 (金) 21時35分
トトさん、こんばんは~
津田信澄は、このブログにも何回か出て来てますヨ。
まぁ、全部、本能寺関連で神戸信孝に野田城を襲撃された話なんですけどね。
津田姓を名乗ったのは、一般的には、元服した永禄七年(1567年)と言われています。
人物往来社の『戦国人名事典』でも、そうなってます。
異説もあるようですが…
投稿: 茶々 | 2016年2月27日 (土) 03時57分
今回は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の視点で追記したいことがありますが、秀吉は、中国大返しの最中だと思うのですが、中川清秀・高山右近らに対して、「信長公と信忠公父子は、明智の襲撃を切り抜け、ご無事である。」という嘘の書状を送ることで、賛同を得ることに成功しました。秀吉は、織田信長&信忠親子の死を上手に利用することで、明智光秀を完璧に倒すことができたのだと思います。もちろん秀吉は、山崎の戦いが終了した後に、味方してくれた武将らに対して、信長&信忠親子が死んだことを正直に説明した上で、人心掌握に気を配ったのではないでしょうか。それこそ、秀吉のことですから、手抜かりはないでしょうね。
投稿: トト | 2016年5月15日 (日) 16時26分
トトさん、こんばんは~
>「信長公と信忠公父子は…」という嘘の書状を…
そのお話は現存する書状とともに2008年6月の『本能寺~秀吉黒幕説』のページ>>にupさせていただいています。
なぜ、黒幕説かというと、書状の日付けは6月5日=高松城が開城した翌日ですから、もし、光秀が速やかに信長の首を手に入れて公表していたら、畿内にいる中川らにとっては意味の無い書状になりますから…
なぜ、秀吉が信長の首が取らてていない事を知っていたのか?
あるいは一か八かのハッタリなのか?
気になるところです。
投稿: 茶々 | 2016年5月16日 (月) 01時44分