今日はやっぱり本能寺の変
天正十年(1582年)6月2日は、戦国時代最大の名場面とも言える『本能寺の変』のあった日です。
このブログが歴史系ブログである以上、今日はやっぱり本能寺の変のお話を・・・
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この年の3月に甲斐の武田を滅ぼした(3月11日参照>>)織田信長にとって、その後は東方からの脅威が無くなり、彼の関心は西方の山陽・山陰へと向く事になります。
ちょうどその頃、羽柴(豊臣)秀吉の率いる織田・中国平定軍は、毛利方の清水宗治のこもる備中・高松城を包囲(4月27日参照)しながらも、なかなか落とせないでいました。
そのうち高松城には、毛利の援軍が駆けつけるであろう事が確実で、信長は自身の出陣を決意し、その先駆けとして明智光秀を援軍として派遣する事にします。
命令を受けた光秀は、5月中旬に居城の丹波・亀山城に入って出陣の準備を整え、6月1日午後10時に城を出陣します。
この日は、信長が京都・本能寺に滞在・・・嫡子・信忠は同じく京都・妙覚寺にいました。
織田家の重臣クラスの中で光秀と秀吉を除く他の者は・・・
柴田勝家が越前(福井県)に、神戸信孝(信長の三男)と丹羽長秀は四国征伐の準備で堺に、池田恒興も四国平定のため瀬戸内に、滝川一益が上野(群馬県)に、森長可(ながよし・蘭丸の兄)が信濃(長野県)に(6月26日参照>>)と、それぞれが地方遠征中。
つまり、この時、京都付近にいた織田家重臣は光秀ただ一人という事になります。
かくして、亀山城を出陣した光秀は、行軍の途中に方向を変え、西へは向かわず老ノ坂(おいのさか)を越えて京都に入ります。
天正10年(1582年)6月2日午前6時、本能寺を完全に包囲した明智軍は、一斉に攻撃を開始します。
この時、明智軍は1万3千・・・一方の本能寺にいたのは、小姓の森蘭丸や以前書かせていただいた黒人の弥介(2月23日参照>>)をはじめとする約100人程度。
寺のまわりの騒がしさに気づいた信長・・・。
それでも最初は足軽同士のケンカだと思って気にも留めていませんでしたが、やがて鬨(とき)の声が上がって矢玉が撃ち込まれる事態となり謀反を確信します。
寺の周囲にうごめく旗差物(はたさしもの)を確認した蘭丸は、「水色桔梗・・・明智の勢と思われます」と信長に報告。
信長は一瞬驚きながらも「是非に及ばず」と一言・・・御殿の廊下に出て弓で応戦します。
弓が壊れたら、今度は槍で応戦・・・。
そこを、明智の先鋒・天野源右衛門(安田作兵衛)が信長に槍をつけます。
さらに、とどめを刺そうとする源右衛門に、割って入る蘭丸・・・激闘の末、蘭丸はここで討死します。
その間に御殿の奥へと入った信長は、まだ残っていた女たちに早く逃げるようにうながし、自らは手にした手ぬぐいで顔と手を清め、部屋の中央にて自刃し、その生涯を閉じました。
炎に包まれた本能寺で、信長の遺骸を発見できなたかった光秀は、その後、嫡子・信忠が籠城するニ条御所を攻めます。
その頃には、攻撃の噂を聞きつけ、京都市街に分宿していた信長の将兵・千数百人がニ条御所に駆けつけますが、やはり明智の大軍には、なす術が無く、信忠はじめ名だたる者が次々と自刃し、こちらも昼頃には明智の手に落ちました。
・・・と、ここまで、『本能寺の変』の一連の流れを書かせていただきましたが、何だかんだと、かなり詳細な部分まで記録されています。
ところが、事件の流れに関しては、これだけわかっているにも関わらず、まったく読めてこないのが光秀の動機です。
「本能寺の変で信長を攻めたのは光秀ではない」という人は、やはり少ないでしょう。
誰もが光秀の仕業を確信してやまないのに、勧進の理由がわからない・・・それゆえ、様々な憶測を呼んで、戦国最大のミステリーと言われるようになるのです。
謀反の相手が光秀だと知って信長が発する一言・・・「是非に及ばず」。
この「是非に及ばず」とは、「しかたがない」「どうしょうもない」といった意味ですが、これは「相手が光秀なら万全の計画のもとに事を起こしているだろうから、いまさらあがいたってしかたがない」という意味から出た言葉と言われています。
信長はそれだけ、光秀を信頼し、優秀な武将と判断していたのです。
(ドラマで、よく大勢の目の前で光秀を罵倒するシーンがありますが、あれは後世の創作です)
歴史好きの皆さんもそう思われるでしょう。
あの光秀なら、考えに考え抜いた計画を立てて本能寺に攻め入ったと・・・。
しかし、そのワリには、その後の、一連の流れがオソマツ過ぎる・・・。
あまりの無計画ぶりに、その動機として「光秀ノイローゼ説」や「不安説」まで登場し、忠実な光秀に指示をした「黒幕」がいるのではないか?・・・黒幕がいるなら、その黒幕の保護のもと、光秀は生き続けている・・・といった「生存説」もあります(10月2日参照>>)。
このブログでも
●本能寺・前夜>>
●本能寺~信長公記より>>
●その時、安土城では…>>
●堺の商人・黒幕説>>
●豊臣秀吉・黒幕説>>
●徳川家康・黒幕説>>
●家康暗殺計画(431年目の真実)説>>
●四国説>>
●信長の首は静岡に?>>
●突発的な単独犯>>
●アンケート「本能寺の真相は?」>>
など、様々に展開しております。
・・・で、今回は・・・
遺骸が見つからなかった事によって、やはり、あります『信長・生存説』!
本能寺の焼け跡から見つかったのは、信長が着ていた着物の焼け残りだけ・・・。
光秀らが必死に探しますが、遺体は見つかりませんでした。
本能寺・炎上の炎は、遺体が消えてしまうほどすざまじいものだったのでしょうか?
信長が本能寺を鉄砲用の火薬の保管に使っていたため大量の火薬に引火し、大爆発を起こしたのでは?という説もありますが、着てた着物が焼け残ってるんなら、そんなに大した炎ではなかったようにも思いますね~。
信長配下の武士たちが、寺から遺体を運び出して持ち去った・・・という話もありますが、寺の回りはビッシリと明智軍の兵で包囲され、「遺体を担いで逃げる」というのは不可能に近かったのでは?
そして、本能寺は信長が京都に滞在する時は常に利用していた場所で、寺とは言え、堀なども造られ、ちょっとした砦のようになっていた事から噂されるのが、「抜け穴説」です。
たとえ小さくても、それが砦あるいは城郭のたぐいであれば、抜け穴くらいは造られている事は容易に想像できます。
ひょっとしたら、その抜け穴を通って信長は逃げたかも知れません。
ただ、悲しいかな、その後の歴史に信長は登場しません。
あの信長の事です。
生きているのなら、再び歴史の表舞台に登場するのは当然でしょう。
それが無い以上、やはり、「信長は本能寺で死んだ」という事になるでしょうね。
(【信長の首は静岡に?】参照>>)
私は常日頃、「死に様は生き様」だと思っています。
その人の死に方が、その人の生きてきた道を表しているように思えてならないのです。
もし信長が、本能寺境内のどこかで死んだのだとしても、「この首は渡さない・・・死体は見つけさせない」といった気迫のような物が、信長の、最も信長らしい覇王としての死に様だったのではないかと思います。
今日のイラストは、
森蘭丸が見たであろう『その日の本能寺』という感じで書いてみました~。
「実際の殺人事件はごく単純な物、ミステリー小説のような入り組んだ事件は現実には起こらない」という話を聞いた事があります。
現代人が「あーだ、こーだ」と、推理を戦わせているのを見て、光秀が「もっと単純だよ」と笑ってるような気もしますが・・・
歴史好きにとっては、「それが楽しいんですよ!光秀さん」
今日のお話の続きは、明日6月3日の【富山・魚津の攻防戦 勝家未だ信長の死を知らず・・・】へどうぞ>>>
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コメント
こんにちわ~♪
本能寺・・今はなんだかワケわからん界隈ですが、本能寺快感(わ!すごい字が出た!あまりに面白すぎるので、このまましにしておきます)のふきんは、修学旅行生が一杯だし、ざわざわしてて、まあ、信長さまの霊も笑っているようですが、抜け穴で生き延びても、きっと「おれの美学は完結した」とどこか遠い外国にでも行ったってことにしたら面白い物語が出来そうですね。
投稿: 乱読おばさん | 2007年6月 2日 (土) 17時00分
たしかに、信長さんには生きててほしいですね~。
「実は後の誰々だった」みたいな・・。
「光秀さんが生き延びて天海になった」という説がありますが、光秀さんだと以前の自分を死んだ事にして天海として生きてけそうですが、信長さんは「俺はホントは信長なんだ!」と周囲にバラしまくりのような気がします~性格的な面で・・・勝手な想像ですが・・・
投稿: 茶々 | 2007年6月 2日 (土) 17時22分
ご無沙汰ですね(^o^)/
新年度が始まり、活動が忙しくなって自分のブログを書くだけで精一杯な感じなもので…。
光秀の話、普通にそーなんだぁ~と思ってきただけですが、詳しく分かってると謎めいた話になってるんですね!そーゆーのって原因を突き止めたい!って思っちゃいますよ。無理だけど(^_^;)
投稿: 見習い大工 | 2007年6月 3日 (日) 23時12分
見習い大工さん、こんばんは~。
コメントは残してませんが、毎日のようにブログは拝見させていただいてますよ~。
お仕事以外に、いろんな委員(係?)などをこなして頑張っておられるお話を読んで、いつも感心しています。
私のブログは、これからしばらく「信長死亡」の波紋広がる各武将の話が続きそうです。
戦国最大のミステリーの謎解き・・・結局は答えはわからないんですけどね。
投稿: 茶々 | 2007年6月 4日 (月) 00時30分
初めまして!
偶然、こういった興味の持てる歴史ブログを見つけましてつい、ちょっとした意見を言ってみたいと思いました。
私としては色々な要因が積み重なった結果、度を超してしまった…と言うよりも、当人は熱に浮かされていて、自分の仕出かしていた事の重大さが後になって気付いた頃には遅かった…のではないかと(--;)
「信長がここまでのし上がれたのはそもそも私が仲介役をしたお陰」
「信長家臣団筆頭はこの私」
「なのにここ最近は氏素性の判らぬ(卑しい)秀吉が重宝されている」
(この辺、四国、中国制圧に置けるそれぞれの思惑も絡んでいそうな気が…)
「佐久間信盛を始めとした古参の家臣が一斉に解雇させられた!?」
「どうしてこの私が京都から離れた出雲坂本に左遷されるのか!?」
「いっそ…信長に直談判を!」
流石にそれはないのでは…と思いますが、どこか光秀の中に過信と甘えがあったのか、信長の光秀に対する人物評価(能力ではない)が甘かったのか…
信長は良くも悪くも割り切ることが出来た。
光秀は良くも悪くも出来る限り足掻いた。
本能寺の変はそんな二人の性質が如実に現れた決定的な出来事の様に思えます。
見ようによっては…秀吉の存在が切欠に見えないことも無いような…(@@;)
投稿: うちゃ | 2012年2月 3日 (金) 00時17分
うちゃさん、初めまして…
ホント、一番読めないのは光秀の心理ですね~
今回、うちゃさんからコメントをいただいたおかげで、この記事を書いた後に、色々と本能寺について書かせていただいたページへのリンクを、本文に追加させていただきましたが、あらためて、「やはり謎だな~」と思いました。
まぁ、本文にも書いた通り、色々詮索するのが楽しいんですが…
また、遊びに来てくださいね。
投稿: 茶々 | 2012年2月 3日 (金) 03時25分
信長の嫡子で二条城にいたのは、信忠ですよね?
途中から三男の信孝になってますよ。
投稿: | 2012年9月 6日 (木) 03時32分
おぉ、見つけていただいてありがとうございます。
訂正しときます。
投稿: 茶々 | 2012年9月 6日 (木) 12時55分
茶々さま こんばんは
今日(2012/9/24)のブログから
あちこち散歩して、この日にたどり着きました。
>私は常日頃、「死に様は生き様」だと思っています。
・・・名言ですね。
ホント、その通りです。
光秀生存説も結構好きです。
というか、信長さんの息の根を止めた人が、
かっこ悪い死に方をしたと思いたくない、というとこでしょうか。
・・・妄想かき立てられます(^ム^)
投稿: hana-mie | 2012年9月24日 (月) 20時38分
hana-mieさん、こんばんは~
ホント、本能寺の変は妄想をかきたてられます。
1番優秀で1番気に入られていた家臣が、そのキッチリした性格から考えられないような大雑把な謀反を起こし、わずか11日で討たれる…
謎が多すぎてワクワクしますです
投稿: 茶々 | 2012年9月24日 (月) 21時09分
おはようございます。今日6/2は、本能寺の変の日ですね。
「是非に及ばず」の解釈も、いろいろ考えずにやるきゃないっていう意味もあるようです。天命もつきたんでしょうか。
投稿: やぶひび | 2013年6月 2日 (日) 07時58分
やぶひびさん、こんにちは~
今も、戦国最大のミステリーですからね~
複雑なのか?単純なのか?すらわからない…
それだけ妄想のし甲斐がありますが…
投稿: 茶々 | 2013年6月 2日 (日) 18時10分
本能寺の変は本当に不可解な事件だと思いますが、何処かの記事に茶々さんが書いてらしゃった信長は本能寺に誘い出されたという記事が僕の頭から離れません。
その当時は足川義昭も毛利方の居候になっていたようで、
そこから信長襲撃の情報が足川と明智光秀のやりとりで羽柴秀吉側に漏れたのではないかと推測しています。
明智の手紙にも明らかに自分よりも身分が上の存在を匂わせた文面ですしね。
挨拶が遅れましたがこんにちは
ここは凄く楽しいブログだから何度も見てしまいます
これから期待しています!!
いや〜歴史っていいですね〜(真似)
投稿: 三河武士 | 2014年5月11日 (日) 17時39分
三河武士さん、こんばんは~
コメントありがとうございます。
いや、ホント、色々と推理するのは楽しいです。
これからも、よろしくお願いしますm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2014年5月12日 (月) 01時49分
明智光秀が本能寺の変を引き起こした理由については、怨恨説・野望説・ノイローゼ&将来悲観説などに加えて、黒幕がいたかもしれないなど、はっきりしていないわけですが、個人的には、ノイローゼ&将来悲観説の可能性が高いような気がします。というのは、佐久間信盛&林秀貞が追放されたことや、荒木村重が、織田信長に対して、反旗を翻したことを目の当たりにしたことが、最終的には、光秀の心に重くのし掛かったのではないでしょうか。もちろん、本能寺の変&山崎の戦いが、確実に光秀の転落人生及び明智一族の滅亡を、一気に加速させたのは間違いないと思います。
投稿: トト | 2016年2月 9日 (火) 10時48分
トトさん、こんにちは~
あの光秀にしては計画性に欠けるような気もしますからね~
本能寺については複数書いてますので、昨年の新しいページ>>も見ていただけるとありがたいです(*^-^)
投稿: 茶々 | 2016年2月 9日 (火) 13時19分
今年の9月12日の読売新聞に、明智光秀の手紙の原本が発見されたという記事が掲載されたのをご存じでしょうか? 三重大学の藤田達生教授という方をを中心とする調査チームが発表したそうです。おおよその内容は、足利義昭との関係を復活させ、室町幕府の再興を目指していたと思われる記述のようで、本能寺の変の10日後に、土橋重治という武将に宛てられた上に、光秀の花押(サイン)があったようです。後に光秀は、細川幽斎(剃髪前は、藤孝)&忠興親子に宛てた手紙に、「この度のようなことに及んだのは、忠興らを取り立てたいと思ったからである。(以下は、省略。)」という内容が書かれていましたが、もしかしたら、光秀は、義昭を迎えた後に、幽斎&忠興親子を、室町幕府の管領として復活させたかったのかもしれません。
投稿: トト | 2017年9月24日 (日) 22時26分
トトさん、こんばんは~
原本の発見は新聞各紙で大きく報道されてましたね。
私としては、以前より度々ブログで書いております通り、もともと「義昭が京都を追放され、室町幕府が滅亡」という教科書の記述に違和感を持っておりまして…
将軍というのは朝廷からの宣下を受けてなる物なので、例え京都を追放されて安芸にいようとも将軍は将軍…現に義輝だって義栄だって京都を追われてますからね。
なので、本能寺の変の後にでも、「将軍=義昭を担ぎ出そう」と光秀が考えた事は、その事=室町幕府は滅亡していない事の裏付けとなるので、その点では大いに喜んでおりますが、
一方で、光秀の心境としては「どうかな?」という疑問符がつきます。
なんとなく…誰も味方になってくれないので、変を起こした後に義昭うんぬんを言いだした感が拭えないのです。
なんせ、このままだと単なる謀反人になってしまいますから…
なので、謀反とならないために、大義名分として義昭を持ちだしたような気がしてならないのです。
もう少し早い=変を起こした直後の日付の書状なら、印象も違うのかも知れませんが…
投稿: 茶々 | 2017年9月25日 (月) 02時13分