高杉晋作と幕末の人々
文久三年(1863年)6月7日は、高杉晋作が奇兵隊を結成した日、そして、その3年後の慶応二年(1866年)6月7日は、第二次長州征伐が開始された日・・・と、奇しくも二つの出来事が重なった事で、今日は高杉晋作さんを中心に、幕末の志士たちのお話を書かせていただく事にします。
・・・・・・
それにしても、この時代の志士を見てみると、その年齢の若さに驚いてしまいます~。
高杉晋作が奇兵隊を結成したのは25歳の時、そして、その幹部に抜擢された伊藤博文は23歳(12月16日参照>>)。
彼らが、ともに学んだ松下村塾(11月5日参照>>)を開いていた吉田松陰は、この4年前、安政六年(1859年)に死刑になっていますが、その時の年齢が30歳です(10月27日参照)。
余談ですが・・・小学生の頃に松下村塾を見たときは、松陰さんには大学教授のようなイメージを抱いていて、てっきりオッサンだと思い込んでいたので、ずいぶんと驚いた記憶があります。
そして、慶応二年(1866年)に第二次長州征伐が行われる少し前、同じ年の正月に、薩長同盟(1月21日参照>>)が結ばれる事になるのですが、その時の中心人物の西郷隆盛が、ちょっと年上・・・それでも当時37歳。
対する長州の桂小五郎(木戸孝允)は33歳。
その薩長同盟の実現に奔走した中岡慎太郎と坂本龍馬が28歳と31歳。
まだまだ、個人的に驚く年齢の人々を、翌年(1867年)の大政奉還(10月14日参照)の時の年齢を基準にリストアップさせていただくと・・・
大久保利通=37歳
近藤勇=33歳
土方歳三=32歳
山岡鉄舟=31歳
徳川慶喜=30歳
板垣退助=30歳
大隈重信=29歳
後藤象二郎=29歳
西園寺公望=18歳・・・明治天皇にいたっては15歳であらせられますがな。
やっぱ世の中を変える・・・となると、若い情熱が原動力となるのでしょうか?
そして、この時代の志士と呼ばれる人たちは、ほとんどが武士ですが、下級武士だった人がかなり多いですね~。
西郷隆盛や大久保利通は薩摩の「小姓組」と呼ばれた身分の低い武士・・・伊藤博文にいたっては、足軽よりさらに下の「小物」と呼ばれていた人々です。
やはり、ハングリー精神が必要なのでしょうか。
もっとも、上級の武士は藩の掟に拘束されて、「なかなか自由に行動できない」という部分もあるのですが・・・。
だからこそ、ほとんどの場合、脱藩をして浪士となって、思う存分に活躍する事が多かったんですね。
しかし、そうなると、お金の問題が・・・なんせ、無職ですからね。
藩の機密費がらナイショで出してもらったり、坂本龍馬のように海援隊を組織して会社を立ち上げ海運業を営んだり・・・「西郷さんと大久保さんなどは天保通宝を密造して大儲けした」という噂も・・・あくまで噂ですが・・・。
そんな中、お金の苦労をしなかったのが、高杉晋作です。
晋作のお父さん・高杉小忠太は、150石という中の上くらいの武士・・・大企業の部長クラスのセレブです。
しかも、彼は一人っ子。
きままにわがまま放題に育った事は容易に想像できます。
24歳の時、長州藩の代表のひとりに選ばれ、清国(中国)に行く事になった時も、品川を出航した船が途中に寄った長崎で、早くも飲めや歌えのドンチャン騒ぎ・・・日本を出る前に出張費を使い果たすというお坊ちゃまぶりを発揮します。
そこで終ると、ただのアホだけれど、さすがは、晋作・・・清国でちゃんと見る所は見ています。
「先のアヘン戦争(8月29日参照>>)で、イギリスに敗れた清国は、十年以上に渡って内乱が続き、国民はやって来る外国人に対して、なすすべもなくひれ伏し奴隷のように生きている・・・外国への対応を間違えばこんな風になってしまう・・・これは明日の日本かも知れない・・・」
ただ・・・
この時、世界を見て、明日の日本を心配した晋作くん・・・帰国と同時に、オランダ製の最新鋭の軍艦を独断で購入しちゃいます。
お代金2万両・・・さすがに藩は大慌て。
やっぱりお坊ちゃまです。
そんな晋作くん・・・今まで度々見え隠れする「親の七光」ですが、さすがに晋作を光らせるだけあって、このオヤジさん、力もあれば口も出す・・・保守的に凝り固まった頑固オヤジです。
晋作が新しい事をやろうとすると、必ず「国へ帰って来い」との呼び出しがかかり、目の前に座らせて自論を展開します。
そんな時は、もう弁解の余地などありません。
そんな事が何度も、何度も・・・晋作は、何か事あるごとに自宅に連れ戻されています。
・・・で、手のつけられない暴れん坊と称された晋作の事ですから、そんな頑固一徹の父親さんに反発して・・・と思いきや、これがけっこうお父さんには従順で頭があがらなかったんです。
一時、脱藩した時も、脱藩せざるを得なかった理由を、とくとくと並べ「親孝行できなくて申し訳ありません」という手紙を送っています。
意外と、そんな頑固オヤジが好きだったのかも・・・。
・・・で、そんな晋作さんが最後の勇姿を見せるのが、慶応二年(1866年)6月に勃発した第二次長州征伐です(6月8日参照>>)。
この時、海軍総督に任命された晋作・・・晋作らしい破天荒な攻撃ぶりで縦横無尽の大活躍をします。
ところが、幕府軍がこもる小倉城を攻めた時の事(7月27日参照>>)・・・城は炎上し、敵は敗走し、戦いには勝利しましたが、その燃え上がる城を見上げながら、ハンパじゃない量の血を吐いてしまいます。
そう、晋作は肺結核に冒されていたのです。
根っからの負けず嫌いで、何とか持ちこたえて体も、もう無理でした。
病状はどんどん悪化していき、翌・慶応三年(1867年)4月14日、29歳の若さでこの世を去ります。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
有名な晋作の時世です。
これを詠んだ時、看病していた野村望東尼(ぼうとうに・もとに)(11月6日参照>>)が、
「すみなすものは 心なりけり」
と下の句をつけ加えると、
「面白いのう」
と一言・・・これが最後の言葉だったとか・・・。
「動けば雷電(らいでん)の如し、発すれば風雨如し」
伊藤博文は、晋作の事を、こう評したと言います。
まさに、雷電の如く幕末を駆け抜けた高杉晋作でした。
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コメント
茶々さん、おはようございます!
晋作ネタなので、ちょこっと書き込みしました!(笑)
高杉晋作の父、小忠太(のちに丹治)は第二次長州征伐(幕長戦争)で晋作が指名手配になったため、晋作を廃嫡しちゃいます。後継ぎには晋作の妹に婿を獲って家を継がせるんですね。
晋作は「谷潜蔵」と名を変えて幕府の探索から目をくらませます―
その後…晋作は慶応3年(1867)に死の床につくのですが、藩から正式に「谷潜蔵」として藩の戸籍に記載され、谷家の初代と認められます。
4月14日、晋作は死去しますが、同日に息子の梅之進が「谷家」の後継ぎとして認められ、6月に「谷家」を相続します。
それから20年後の明治20年(1887)、梅之進は「東一」(晋作が藩主・敬親から授かった名前)に改名し、「谷家」から高杉家に改称します。
しかし、本家は晋作の妹が婿を獲って継いでいるので、現在、晋作の家系は高杉家の「分家」になるんですよね。
投稿: 御堂 | 2007年6月 7日 (木) 06時13分
なつかしいですね~♪
彼も私の青春のアイドルでしたねえ。小学校のお絵かき友達と、晋作資料探しをして、図書館をうろつきましたがな。彼女が、当時、一般向けには、たった一冊しか出ていなかった伝記を探してきて、これみよがしに見せ付けられた時はくやしかったぞ~!大人の本でしたが、一生懸命読みましたね。著者も忘れたけど。
越中ふんどしを「これぞニッポン!」って、外人に見せたというところが、ミョーに印象に残っていますね。あと女装!
投稿: 乱読おばさん | 2007年6月 7日 (木) 09時18分
御堂さん、おはようございます。
そ~か・・・後継ぎ失格ですか・・・
お父さん、厳しいですもんね~。
お父さんの頑固な氷がもう少し解けていたら、晋作の行動は少し変わっていたんでしょうか?
逆にブレーキの利かない人になってたりして・・・そこンところは子育ての難しいところですからね~。
投稿: 茶々 | 2007年6月 7日 (木) 11時35分
おばさま・・・こんにちは~。
おお・・・小学生で、すでに大人向け伝記を・・・
>>女装!?・・・
あの例の長崎で撮ったというはっきりした写真が残ってるので、モロ想像してしまいますね~
私はその写真を見るたび・・・
「三千世界の烏を殺し、ぬしと添寝がしてみたい」
というの思い出し、「この人がこの口で・・・」と、まじまじと見てしまいます。
投稿: 茶々 | 2007年6月 7日 (木) 11時46分
いつも楽しく読ませていただいております。高杉晋作の辞世の句はお書きになっているように、看病した女性、野村
望東尼(幕末の勤皇の歌人)によるものです。
子供や夫を早くに亡くし、前半生は不幸の連続も、晋作を母のような慈しみで、最期を看取ったということでしょうね。
彼女の人生も高杉晋作との交わりによって後半は輝いていたのかもしれません。
巴御前とても素敵です。
投稿: さと | 2007年6月14日 (木) 19時33分
さと様・・・いつもコメントありがとうございます。
看病していた女性・・・そうですね、また、野村望東尼の事も書いてみたいですね。
晋作の妾だったおうのさんは、妾ゆえその病床のそばへ行く事すら許されなかった・・・彼女は晋作の死後、一生その墓守をしたと聞きます。
野村望東尼といい、おうのさんといい、晋作さんってよほど魅力的な人だったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2007年6月14日 (木) 20時25分
龍馬伝では伊勢谷さんが演じます。似ていると言えば似ています。7月後半から出ます。
高杉はザンギリ頭なので、またまたかつらがいらない配役です(笑)。でも実際はいつからザンギリだったでしょうか?
もうすぐアクセス200万件ですね。
投稿: えびすこ | 2010年5月27日 (木) 09時06分
えびすこさん、こんにちは~
伊勢谷さんの晋作・・・楽しみですね。
投稿: 茶々 | 2010年5月27日 (木) 09時49分
この記事で「慶応3年時点の年齢つき」で出る人は、龍馬伝では「年上の」俳優が演じていますね。昨年は享年の約半分の年齢の俳優が多かったですが。でも来年は男性で出演が決まった人がまだいないので、幅広い世代から選ぶのが賢明でしょうね。
(最近の傾向として)歴女の人の視点では中年以下の年齢で死んだ人に、興味・関心が集まるようですね。「自分の年齢に近いから」と言う理由もあると思いますが。幼児が桃太郎や金太郎を好きな訳と同じ?
投稿: えびすこ | 2010年5月29日 (土) 08時50分
えびすこさん、こんばんは~
若い歴女さんにとっては、中年のオッサンはやはり魅力薄でしょうね(゚ー゚;
幕末は意外に若いですが、戦国は意外にオッサンだったりするので、俳優さんの平均年齢も上がるのでは?と思います。
投稿: 茶々 | 2010年5月30日 (日) 00時20分
茶々様、こんばんは
下の句の出所は初めて知りました。
大和歌は相手が下の句を接いで楽しむ習慣があったのですし、ちゃんと二人のやり取りとして話される分には、私は尼さんの発句も気になりませんでした。上の句は晋作の上の句として、純粋に味わい深いですし、下の句は、歌人であった尼が本領としてたまたま機を捕らえて、自分の詩才を差し挟もうとしたというよりは、見送りの言葉として『世を面白く墨なして描くのはお前さんのような気高い男の心意気こそではないかい』
と気持ちを添えた、と思われます。
晋作の『面白いのう』は、臨機応変の彼女の機転の面白さの上に、自分と同じような維新の志士達の心意気に思いを馳せて、確かにそうかもね、と感じてる含みもあるような気がします。
下の句の継ぎ合わせの楽しさは、昔話の『物ぐさ太郎』なんて最高じゃないでしょうか?
ではまた~
投稿: 瀬戸の花嫁 | 2013年4月14日 (日) 20時05分
瀬戸の花嫁さん、こんにちは~
野村望東尼の下の句は、高杉ファンの中には「せっかくの高杉の句に、いらんモンくっつけんな」と酷評される方も多いと聞きましたが、歌のよしあしがわからない私には、やっぱり、二人の関係が垣間見える感じがして好きです。
投稿: 茶々 | 2013年4月15日 (月) 13時07分