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2007年6月10日 (日)

今川義元登場!花倉の乱

 

天文五年(1536年)6月10日、今川家のお家騒動花倉の乱で、岡部親綱が駿河方ノ上城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

天文五年の3月17日、今川家の当主・今川氏輝が急死しました。

先代・・・つまり、氏輝のお父さん・今川氏親(うじちか)は、当時としてはめずらしい『今川仮名目録』という法律を発布した事でも知られる名君で、しっかりと領国を治めていた人でした。

その後を継いだ正室・寿桂尼(じゅけいに)の子・氏輝が志半ばにして急死・・・しかも、同じ日に弟の彦五郎も急死するというニオイまくりの不可解な死・・・(3月14日参照>>)

そして、氏輝には子供がいなかった事から、この後継ぎを巡って、今川家のお家騒動となるわけです。

氏輝には、同じ日に死んだ彦五郎以外にも、まだ二人の弟がいましたが、三男・四男という事もあって、二人とも幼い頃に出家して、すでに僧になっていました。

その二人とは・・・正室・寿桂尼の子・梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と、側室の子・玄広恵探(げんこうえんたん)です。

氏輝の死の直後、玄広恵探は母方の福島氏をバックに今川家の後継者として名乗りを挙げます。

そうなると、当然、もと正室の寿恵尼が黙っていられるわけにはいきません。

しかも、その寿恵尼さんは、「女大名」とのニックネームをつけられるくらい、氏輝が生きていた時から、何かと政治に口出すやり手の母でした。

即座に、自分の息子・梅岳承芳を後継者に推薦します。

当時、梅岳承芳は駿河瀬古(静岡県富士市)善得寺で修行の身でしたが、同じ善得寺の僧で梅岳承芳の教育係でもあった太原崇孚たいげんすうふ・雪斎)が、その推薦を受けて、すぐさま動き始めます。

水面下で、今川の古くからの重臣たちを抱きこんで、彼らを梅岳承芳の支持へと誘い込みます。

徐々に孤立していく玄広恵探・・・。

不安を感じた彼は、当時住職をしていた照光院(しょうこういん)の近くの花倉館に籠城し、対抗する姿勢を見せます。

かくして、天文五年(1536年)6月10日・・・梅岳承芳派に属する岡部親綱(ちかつな)が、玄広恵探側につく方ノ上(かたのかみ)城を攻めるのです。

またたく間に落ちる城・・・敗走する兵を追って、岡部軍は花倉館に近づきます。

玄広恵探は、花倉館を捨てて、今度は瀬戸谷へと逃れました。

しかし、自分の母方の福島氏以外の武将が、ことごとく梅岳承芳の味方についている事を悟った玄広恵探・・・「もはや、勝利の望みはない・・・」と、自らの命を絶って果ててしまうのです。

親綱の攻撃から4日後・・・6月14日の事でした。

後継者争いに勝利した梅岳承芳・・・。

彼は、この時から、義元と呼ばれる事になります。

今川義元・・・18歳の夏でした。

そして、義元は父・氏親の時から続く敵対関係を無くすため、甲斐の武田信虎(信玄の父)の娘と結婚。

しかし、これには以前から同盟を結んでいた北条氏が黙っていませんでした。

やがて、義元は、先の太原崇孚の補佐のもと、この北条氏の2度に渡る攻撃を撃退するかたわら、織田の領地・三河をも攻略し、駿河遠江三河の三国を制する「海道一の弓取り」に成長します。

Imagawayosimotohanakuracc
今日のイラストは、
『18歳の頃の義元さん』を書いてみたつもりでございます~。
ちょっと「おぼっちゃま風」の雰囲気で・・・。

ちなみに、氏輝と彦五郎の死には、太原崇孚が関与しているとの噂もあります。

今年の大河ドラマでも、伊武さんが太原崇孚(ドラマでは雪斎の名前のほうで呼ばれてますが・・・)で、いい味を出してますね~あやしい感じがすごく良いです。

それにしても、戦国ゲームに登場する今川義元のキャラはヒドすぎる!
普通はありえないくらいカッコよくなってるのに・・・彼だけが、お気の毒な感じです。
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