徳川家康・決死の伊賀越え
天正十年(1582年)6月4日、本能寺で織田信長が討たれた事を知った徳川家康が、決死の伊賀越えをした日とされています。
・・・・・・・・・
一昨日起こった『本能寺の変』(6月2日参照>>)の激震は、まさに波紋のようにそれぞれの武将に伝わっていきます。
変の前日=6月1日に魚津城を落とした柴田勝家と前田利家に「信長死す」のニュースが飛び込んできたのが、今日=4日である事は昨日のブログで書かせていただきました(6月3日参照>>)が、この織田軍・北陸担当部門の武将たちは、「知らせを聞いてすぐに上洛する」という事ができませんでした。
それは、彼らがいた場所は信長の勢力圏の最前線=国境に位置しているからで、こちらが信長の死を知ったように、敵もそれを知り、おのずと相手の士気は上がる事になる・・・なんせ、一番怖い人が亡くなっちゃったわけですから、このチャンスを逃すまいと敵方は必死で食い下がってきてます。
それは、北陸だけでなく、上野(こうずけ=群馬県)の滝川一益(たきがわかずます)や、信濃(しなの=長野県)の森長可(もりながよし)、甲斐(かい=山梨県)の河尻秀隆(かわじりひでたか)ら、武田の滅亡後に、その旧領を与えられた彼らも同じ・・・なんせ、武田の滅亡から3ヶ月しか経ってませんから。
一益は1万8千の兵を率いて一旦厩橋(うまやばし)城を出て上洛しようとしますが、信長の死を知った北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)父子に攻撃され、痛い足止めを喰らっています(2007年6月18日参照>>)。
主君=信長とともに弟=蘭丸(らんまる)の死を知って、鬼の形相で京へ向かう長可に立ちはだかるのは武田の残党(4月9日の真ん中あたり参照>>)・・・秀隆などは、その武田の残党に囲まれて脱出する事ができずに命を落としています(2013年6月18日参照>>)。
信長傘下の武将たちの多くが、そのような状況でした。
・・・と、ここで、神業のような俊足移動をする武将がふたり・・・そう、羽柴(豊臣)秀吉と徳川家康です。
秀吉は、織田軍・山陰山陽担当部門で、この時、備中・高松城を水攻めの真っ最中(4月27日参照>>)。
そんな時、明智光秀が毛利の小早川隆景に送った密書が間違って秀吉の陣に届くというラッキーなサプライズによって、秀吉は勝家らより一日早い3日に信長の死を知る事になります。
そして、今日4日の早朝、信長の死を隠したまま毛利方に休戦協定を申し込みます。
このあと、信長の率いる大軍がやってくると思っていた毛利は、休戦の申し出を快諾し、高松城主・清水宗治が切腹・・・高松城は開城されます(2008年6月4日参照>>)。
毛利方が信長の死を知ったのは休戦協定がなされた直後・・・。
そして、秀吉は、「主君・信長の敵討ち!」とばかりに、京に向かってまっしぐら・・・いわゆる『中国大返し』をするわけですが、それは、秀吉が出発する6日の日(6月6日参照>>)に書かせていただく事にして、今日の主役は、もうひとりの俊足・・・徳川家康です。
この頃、謀反を起こした光秀は畿内を制圧するとともに、つてのある武将に声をかけて、味方になってくれるよう連絡をとっていましたが、その光秀が最も警戒していたのは、やはり越前(福井県)の柴田勝家だったでしょうが、なんせ越前は遠い・・・
・・・で、この日、織田軍として最も近くにいたのは・・・
堺にて、四国征伐の準備をしていた信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)とそのサポートを任されていた重臣・丹羽長秀(にわながひで)・・・
この時、本能寺のニュースを聞いた信孝は、5日に、野田城(大阪市福島区)にいた光秀の娘婿の津田信澄(つだのぶずみ)を襲って殺害しますが、その後は、混乱する自軍の兵士をまとめる事ができず、なかなか思うように動けませんでした(この後、畿内に戻って来た秀吉と合流します)。
そして、もう一人・・・
前日まで堺を見物していた家康です。
しかも、距離的に最も近い位置だったせいもあってか、家康は本能寺の変があったその日のうちに飯盛山(大阪府四条畷市)で、誰よりも早く信長の死を知るのです。
しかし、悲しいかな家康はわずかの近臣を連れての堺見物・・・兵を持たない彼が、明智方とぶつかれば、仇を討つどころか自分の身が危ない・・・。
おそらく、街道はすべて明智軍に押さえられているはず・・・三方ヶ原(12月22日参照>>)以来のピンチです。
家康は一旦死をも覚悟しますが、家臣に説得され、とにかく山道・ウラ道を通って、鈴鹿の山を越え、岡崎へ脱出する事にします。
ちなみに、この時に説得した家臣があの服部半蔵(はっとりはんぞう)だったという話もあります。
飯盛山は、生駒山地の北端に位置する山・・・家康は、そのまま北へ進み、津田・穂谷(いずれも大阪府枚方市)から宇治(京都府宇治市)へのコースをたどったと言われています。
交野(かたの=大阪府交野市)には、本能寺のあった6月2日の夜に家康が身をひそめたと伝わる『家康ひそみの藪→』という竹やぶがあります。
伝承によれば、このあたりの村長・平井氏に連絡をとって、宇治へ抜ける道案内を依頼したとか・・・。
平井家では、たくさんの握り飯を提供し、信用のおける二人の農民を選出し、無事、大役を果たしたそうです。
*「ひそみの藪」のくわしい場所は、本家HP:歴史散歩「交野ヶ原」のページでどうぞ>>
また、一説には茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろうじろうきよのぶ)なる京都の商人が周囲の村々に金をバラまいて、金目当ての落ち武者狩りから家康一行を守ったという話もあり・・・(茶屋家はこの功績により江戸時代を通じて徳川家の御用商人のトップに君臨したらしいです)
その後、3日には、宇治田原の山口藤左衛門の館に到着し、ここで一泊・・・4日の夜には信楽(しがらき)に到着しますが、いよいよここから伊賀越え、鈴鹿越え・・・。
すべてが山道で難所続きのこのルートでも、ここが最も難所です。
山賊も怖いが明智も怖い・・・見つかりにくさを重視して、鈴鹿山脈で最も険しい「鹿伏兎(かぶと)越え」のコースを行きます。
しかし、このあたりから、服部半蔵が地元・伊賀で、声をかけた残党たちが次々と湧いて出るように集まってきます。
実は、この『本能寺の変』が起こる9ヶ月前、信長は伊賀攻めを強行しています(9月11日参照>>)。
4万5千の軍勢で伊賀を包囲し、徹底的に根絶やしにしたとか・・・
その攻撃をかわして生き残った残党たちにとって、家康の祖父・清康の代から徳川(松平)家に仕える伊賀出身の服部一族は、最後の頼みの綱に思えたのかも知れません。
半蔵の呼びかけに答えてくれた者は約200人ほど・・・家康を囲むように護衛し、決死の突破作戦に協力したのです。
後に、家康が岡崎に着いてから、彼らに「仕官したい者は残れ」と言った時、この時の200人全員が残ったと言われています。
かくして、伊賀忍者たちの協力で鈴鹿の山を越えた家康は、6月6日、白子浦から出航し、船で伊勢湾を横断します。
『本能寺の変』からわずか5日後・・・家康は最大のピンチを切り抜け、無事、岡崎に戻ります。
このイラストは、歴史好きの茶々が趣味の範囲で作成した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません
秀吉の「中国大返し」もスゴイけど、家康の「伊賀越え」もスゴイ!
なんせ、山道ですからね・・・。
しかし、このズゴさがまたまた色んな憶測を呼ぶ事になるんですね~。
6月2日のページで、『本能寺の変』は光秀の動機が見えない事で、戦国最大のミステリーとなった・・・ような事を書きまたが、この謎をさらに大きくしているのが、秀吉と家康の行動。
秀吉に関しては、謀反の事を事前に知っていたからこそ、あの「中国大返し」ができたのではないか?
(「中国大返し」については6月6日でどうぞ>>)
また、家康に関しては、彼が命からがら脱出しなければならないほど恐怖を感じた光秀なら、なぜほとんどの武将が味方につかなかったのか?
・・・などなど、
まだまだ歴史ミステリーのお話はつきませんが、記事が長くなってきましたので、推理はまた別の機会に書かせていただく事にして、とりあえず今日、6月4日は、徳川家康が伊賀越えをした日という事で、そのお話を書かせていただきました。
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コメント
服部半蔵の分析力&情報収集力は、徳川家康に仕えた武将の中では、トップクラスだったのではないでしょうか。何しろ半蔵は、伊賀忍者たちの最高司令官のような存在ですから、家康が半蔵に対して信頼したのは、至極当然でしょう。もちろん、徳川四天王と言われた、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政に加えて、本多正信・鳥居元忠などの優れた家臣の存在も忘れてはなりません。伊賀超えなくして、家康の天下取りは、最終的にはありえなかったと思います。
投稿: トト | 2016年2月10日 (水) 19時50分
トトさん、こんばんは~
前回の大河「真田丸」での内野さんの逃げっぷりは良かったですね~
半蔵の、「ただ押すだけ」の作戦もおもしろかったです。
投稿: 茶々 | 2016年2月11日 (木) 01時39分