破竹の独眼竜・摺上原の戦い
天正十七年(1589年)6月5日、伊達政宗が陸奥会津の芦名盛重を破った摺上原(すりあげはら)の戦いがありました。
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破竹の勢いで陸奥・出羽(東北地方)の平定を進めていた若き独眼竜・伊達政宗(11月17日参照>>)。
天正十七年の春先には、最上氏・大崎氏との講和に成功し、4月には相馬氏に向けて攻撃を仕掛けます。
この行動に不安を抱いたのが、陸奥会津(福島県会津若松市)の芦名盛重(義広)です。
盛重は父・佐竹義重を結託して、伊達を攻撃しようと策を練ります。
しかし、そのたくらみは伊達側に筒抜け・・・実は、この時すでに政宗は、芦名方の重臣・猪苗代盛国(いなわしろもりくに)を仲間に引き入れていたのです。
6月4日頃には、盛国の招きで、政宗自身も猪苗代城へ入ります。
そして、天正十七年(1589年)6月5日早朝・・・その裏切った盛国を討伐しようと、盛重が1万6千の兵を率いて会津を出るのです。
まずは、湯達沢(ゆだざわ)付近で、芦名方の先鋒・富田隆実(たかざね)と、伊達方の先鋒であった盛国とがぶつかり、合戦の火蓋が切られます。
この時すでに、伊達軍は、先の盛国の軍と合わせて2万3千という大軍でした。
・・・にもかかわらず、伊達軍は、先鋒も、そして、それに続く第2陣・第3陣も敗れる・・・という失態。
撤退・追撃を繰り返すうち、戦場は磐梯山と猪苗代湖に挟まれた摺上原(すりあげはら)へと移ります。
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このイラストは位置関係をわかりやすくするため個人的趣味の範囲で作成しており、必ずしも正確さを保証する物ではありません。
ここでも、しばらくは芦名方の優勢が続きましたが、やがて、満を持して政宗の本隊が登場・・・。
これをきっかけに、戦況は一気に伊達側の優勢に傾きます。
崩れてゆく自軍を立て直そうと、大将・盛重自らが先頭に立って奮戦しますが、もう流れを変える事はできませんでした。
撤退をする芦名軍・・・。
しかし、撤退するその先は川でした。
実は、盛国は事前にこの日橋川にかかる橋を落として敵の退路を断っていたのです。
逃げ道を無くした芦名の兵たちは、ある者は討ち取られ、ある者は川に飛び込み・・・溺れ、ここで、多くの犠牲者が出たと言います。
この合戦の勝利によって、伊達政宗は陸奥南部(福島県)を勢力圏内に治める事に成功し、奥州の約半分を手に入れた事になるのですが、わずか23歳で、奥州の覇王となった政宗・・・ここでプトップをかけられます。
当時、芦名氏と親交が深かった天下取り目前の豊臣秀吉の「芦名を滅ぼした真意を聞きたい」との再三の上洛要請を断け・・・と、この先は11月4日のページ>>でご覧あれ!
今日のイラストは、
やはり、『伊達政宗』さんを書いてみました~。
伊達政宗さんと言えば、あの有名な銅像(写真でしか見た事ないけど・・)と、大河ドラマの渡辺謙さんの印象が強すぎて・・・。
あまりのハマり役に謙さん自身も政宗を脱皮するのにご苦労されたようです。
黒っぽい色合いで統一されたシブイ鎧で、オシャレ度バツグンの元祖伊達男・・・血気盛んな『夢見る奥州の覇王』・・・というイメージで・・・。
「梵天丸も、かくありたい・・・」
↑大河の子供時代のセリフが忘れられません~
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