秀吉の大バクチ・中国大返し
天正十年(1582年)6月6日、この日の夕刻、備中高松城からの毛利の撤退を確認した羽柴(豊臣)秀吉が、高松城を出発・・・いよいよ『中国大返し』の始まりです。
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『本能寺の変』で、明智光秀に攻められた織田信長が自刃して果てたのは天正十年の6月2日早朝(6月2日参照)。
「信長死す」のニュースは、織田方の各地の武将に徐々に広がっていきます。
その日のうちに、このニュースを聞いたのは、前日の堺見物から少し移動して飯盛山(東大阪市)にいた徳川家康・・・身の危険を感じた家康は、決死の伊賀越えで、所領の岡崎を目指します(6月4日参照)。
次に、このニュースを聞いたのが、織田軍・中国地方担当で、備中高松城を水攻め中の羽柴(豊臣)秀吉(4月27日参照)・・・
光秀が毛利に放った密書が間違って秀吉に届くというラッキーなサプライズで、全国に地方遠征中の他の織田軍・重臣たち(6月3日参照)より、1日早い3日の夜にニュースを聞きます。
秀吉に絶好のチャンスが転がり込んできました。
その気転の良さから信長に気に入られているとは言え、織田家には古くから仕える重臣が数多くいて、彼らから見れば秀吉はまだまだ下っ端・・・しかし、ここで、主君の仇を取れば、彼らからも一目置かれる存在になる事は確か・・・。
秀吉は、まず「信長死す」のニュースが毛利に知られないように、その夜のうちに山陽道を遮断し、翌4日の朝には、毛利に休戦を申し出ます。
「そのうち信長が大軍を率いてやってくる」と考えていた毛利は、この休戦協定をあっさりと受諾・・・その日のうちに城主・清水宗治が自刃し、高松城は開城されました(6月4日参照>>)。
気持ちがはやる秀吉ですが、やはり毛利軍の全面撤退を確認するまでは、この地を離れるわけにはいきません。
やがて、信長の死を知った毛利軍でしたが、もはや休戦協定を結んでしまった以上後の祭り・・・しかたなく撤退を開始します。
この間に、秀吉の腹心・黒田官兵衛は、秀吉の居城・姫路城までの帰り道の手配を整えます。
道筋に沿っての松明(たいまつ)・炊き出し・替え馬・渡し舟など・・・先駆けを走らせて徹底させます。
また、織田家配下の武将たちが弔い合戦に出遅れるようにと、光秀側につかないようにするため、「信長は生きている」とのウソの情報を流します。
そして、毛利軍の撤退を確認した、6月6日の夕刻・・・もしもの時のために、岡山城に宇喜多秀家(うきたひでいえ)を配置(8月18日参照>>)して、いよいよ出発するのです。
明けて、翌7日・・・この日は朝から雨模様で周囲の河川が氾濫する中ではありますが、「今日は走るゾ~!」の決意は固い。
主君の仇討ちという大義名分を掲げて己のチャンスをモノにしようとする秀吉・・・
その秀吉のチャンスは、そのままその配下に従う家臣のチャンスでもあるわけで、おのずと士気は上がり家臣たちが一丸となってそのスピードを速めます。
驚異的な80㎞を走破し、この日のうちに姫路城に到着します。
さすがに、疲れる将兵たちを見て、翌8日は姫路城にとどまり休憩・・・。
ここで、秀吉は、官兵衛に、「今回はバクチを打ってみようと思う」と相談。
官兵衛も「大バクチをお打ちなされ」と賛成し、姫路城での籠城はせず、即座に光秀を討つ決意を固めたのです。
そして、9日の早朝・・・1万5千の兵を率いて、姫路城を出陣し、まずは大坂・摂津を目指します。
一方の光秀・・・10日に、「秀吉がもうすぐ尼崎に到着する」という知らせが届き、あわてて近江(滋賀県)を出立して京に向かいます。
これは、光秀にとって大きな誤算でした。
あれたけの大事を引き起こしたのですから、そのニュースはいずれ知られる事になるにしても、それぞれ遠方で遠征中の織田家の重臣たちが、大軍を率いて京に攻め上ってくるのは、早くても1ヶ月はかかると睨んでいたのです。
その間に畿内の主要部を支配下に治め、毛利の援軍と合流して・・・という青写真がすべて崩れ去りました。
まさか、200㎞離れた一番遠いところで、最強の毛利と対峙している秀吉が、たった9日で帰ってくるとは思ってもみなかったのです。
翌、11日に秀吉は尼崎に到着します。
淀川の向こうはもう大坂です。
ここで、秀吉は、茨木城主・中川清秀や高槻城主・高山右近といった地元の武将たちに味方になるよう声をかけます(6月5日参照>>)。
もちろん、それは光秀も同じ事・・・。
光秀も、畿内の武将たちに声をかけています。
そんな中・・・ここで、大和郡山城の筒井順慶さんに、ご登場をしていただくわけですが、筒井順慶と言えば、皆さんよくご存知のあの逸話・・・しかし、ページが長くなりそうなので、そのお話は、その事が関連する6月11日>>に書かせていただく事にします。
それにしても、この秀吉の早ワザ・・・あまりの手際の良さに、一部では『本能寺の変』の黒幕では?との疑いが囁かれています。
もともと、中国攻めに信長の出陣を要請したのも秀吉ですし・・・。
光秀の毛利への密書も、「まちがって届く」という事がありえるのか?
ひょっとしたら、本当は秀吉への「暗殺成功報告」だったのかも知れません。
中でも私が個人的に最も疑いたくなる部分は、先にも書いた『織田家配下の武将たちが弔い合戦に出遅れるようにと、光秀側につかないようにするため、「信長は生きている」とのウソの情報を流す』という所・・・これって、信長さんの遺体が発見されていたら、まったく意味のない事なのでは?と、思うのです。
それとも、光秀の密書には、未だ遺体を確認していない事が書かれていたんでしょうか?
もっともっと、その時の史料を見てみたいですね~
もちろん、秀吉以外にも疑わしい人はたくさんいるんですが・・・
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コメント
茶々さん、こんばんは!!
天正十年(1582年)の今日の今、秀吉様たちは走ってるのでしょうか?「明智め~っ」て。
私も本能寺の変は光秀の突発的犯行だと思います。でも、ひでよっさんの対応のよさはできすぎですよね~。だから、私は秀吉さんは光秀が信長様を殺す危険があるな~ってあらかじめなんか気づいてて、(彼は人の感情の変化には敏感ですから)光秀の動きを誰かに見張らせて、そのときの対応を一応考えていた…そして、実際に起こったとき、まさかと思いつつ考え道理に実行っていう手筈ではないでしょうか?
なんかどんどん時間が経ってしまうんですが、秀吉さんたちは今必死に生きてますよね。私も命がけでテスト勉強頑張ります!!
長々と失礼しました。
投稿: 暗離音渡 | 2010年6月 9日 (水) 23時18分
暗離音渡さん、こんばんは~
おそらく、皆、テンションがMAXになってるから良いようなものの、ホントならお尻が痛くてたまらないでしょうね。
普通の心境じゃ、そんなに長く馬に乗っていられないですもんね。
暗離音渡さんも、テンションMAXにして試験に挑んでくださいね。
投稿: 茶々 | 2010年6月10日 (木) 01時05分
こんばんわ。
多分秀吉のことですから、配下の兵は
重りになる甲冑の類は付けさせず、
出来ればその甲冑を売って馬を手にし
驚異的な騎馬率で移動したあと、
今度は移動先で馬を売って武器なりを
揃えたんじゃないかと思います。
勿論、元々持っていた金銭も有効活用
したんでしょう。
この場面での目的は光秀を討つ、あるいは
居城に戻る、ですからそれを最優先した
んだと思います。
思うに、秀吉みたいな人にはお金が
良く集まったでしょうが、秀吉はお金が
道具であることを認識し、目的の為に
お金が存在することをよく考えていたのだと
思います。
他方、私みたいな目的も無く凧の様に生きて
いる人間はお金そのものの魅力はわかっても
道具としての使い方ができません。
手にすること、貯めることに生涯を費やして
終わりそうです。
投稿: 暗愚な跡取り | 2016年3月22日 (火) 00時22分
暗愚な跡取りさん、こんばんは~
おっしゃる通り、これだけの移動を成功させるためには、秀吉はじめ軍勢全体が甲冑を身につけず身軽になって駆け抜けたのだろうと推測されてますね。
一説には、その時、水軍が瀬戸内海を並行して走って、武具やその他モロモロを同時進行で運んだとも言われています。
もちろん、それには大金が必要だったでしょうけど…
投稿: 茶々 | 2016年3月22日 (火) 02時14分