大江戸第三セクター~永代橋のお話
元禄十一年(1698年)7月28日、江戸・隅田川に永代橋が完成しました。
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永代橋は、隅田川の最も下流に位置する橋で、当時の将軍・徳川綱吉の50歳を記念して、「深川の渡し」という渡し舟で通行していた場所に架けられました。
江戸湾に近く、多くの船が行き来するため、橋はかなり高く、そして大きく造られていて、高い建物がなかった江戸時代には、かなり見晴らしが良く、そういう意味でも名所だったようです。
ところで、『里見八犬伝』で有名な滝沢馬琴の『兎園小説余録(とえんしょうせつよろく)』には、次のような記述があります。
『橋の南北の詰に板壁の小屋をしつらひて、番人二人居り、笊(ザル)に長き竹の柄をつけたるを持ちて、武士、医師、出家、神主の外は、一人別に橋を渡る者より二銭ずつ取りけり。人を渡らんとすれば、くだんの笊を差し出すに、その人銭を笊に投げ入れて渡りけり』
つまり、この橋は有料だったのです。
当時、有料の橋は、隅田川に架かる大橋と大川橋・・・そして、この永代橋の3つでした。
・・・と、言うのも、これらの橋は度々洪水に襲われ、火災なども頻繁に発生しており、その度に幕府は膨大な費用をかけて修復にあたっていたのですが、幕府の財政が苦しくなった享保四年(1719年)、とうとう幕府は「その維持が困難である」として永代橋と大橋の廃止を決定したのです。
しかし、この橋は、すでに地元住民にとっては無くてはならない物・・・それが重要な役目を果たしている事は、皆が承知していた事でしたので、当然の事ながら地元住民からは「反対!」の声が上がります。
「そこまで言うのなら・・・」
と、幕府が出した答えが、「橋の維持と管理を地元住民にまかせる」・・・つまり、橋の民営化を図ったのです。
第三セクターとなった以上、赤字では成り立っていきませんから有料=「通行料」を徴収した、ってワケです。
まさに、昨今の「○○民営化」、「聖域なき改革(ちょっと古い)」ってな感じでしょうね。
「武士、医師、出家、神主以外は・・・」という特権階級があるのは、さしずめ新幹線に議員さんがタダで乗れたりなんかするのと同じ感覚かな?
それ以来、約百年ほど続いた「有料・永代橋」も、文化四年(1807年)の崩落事故によって廃止されます。
文化四年8月19日・・・その日は、八幡祭の日でした。
しかも、前回、モメ事が傷害事件に発展したため、12年間も中止されていた八幡祭がやっと復活したという事もあって、一目、神輿(みこし)を見ようと、予想外の人の数が永代橋に殺到!
そのために、橋は真ん中から無残にも崩れ落ちます。
さらに、その事に気づかないたもとの人々は、それでも前へ前へと押し寄せ、押された最前列の人が橋の壊れた部分から転げ落ち・・・といった形で、とどまる事を知りません。
その時、一人の武士が、壊れた橋の真ん中部分に躍り出て、刀を抜き「近づいた者は斬り殺すぞ~!」と叫びながら、大きく刀を振り回しました。
「キャー!」と、彼を遠巻きに見る人々・・・そのまま彼は橋のたもとの方へ移動し、群衆はやっと橋が壊れている事に気づいて、前へ押す行為をやめるのです。
しかし、その時すでに1500人以上の老若男女が犠牲になってしまっていました。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言って、火の恐怖には慣れっこだった江戸市民も、さすがにこの大事故は恐ろしかったようで「橋落事件」として長く語り継がれる事になります。
・・・かと言って橋が無ければやっぱり不便。
結局また、永代橋は架け変えられたのですが、その橋も明治の頃には、すでにボロボロになっていて、明治三十年(1897年)に、鉄製の近代的な橋に生まれ変わる事になります。
私は関西の人間なので、実際には見た事ないのですが、現在の永代橋は、ドラマのロケでよく登場するあの青い橋ですよね。
今日のイラストは、
『永代橋のヒーロー』という感じで書かせていただきました~。
最初は昼間の景色にするつもり(お祭りなので・・・)だったのですが、そう言えば、「今日は隅田川の花火大会だわ!」
・・・と、いう事で、バックを花火にしてみました~
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