歴史の闇に消えた橘奈良麻呂の乱
天平宝字元年(757年)7月4日、時の権力者・藤原仲麻呂の暗殺計画『橘奈良麻呂の乱』が発覚し、首謀者らが逮捕されました。
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時は花の天平真っ盛りの頃・・・
東大寺の大仏や全国各地の国分寺で有名なあの聖武天皇の後に、聖武天皇の娘・第46代孝謙天皇が即位します。
彼女は、その聖武天皇を父に、光明皇后を母に持つ、サラブレッドの中のサラブレッドです。
しかし、歴代の女帝が、天皇の奥さんであったり皇太子の奥さんであったり、先の天皇が亡くなった時、次に天皇になるべき皇子がまだ幼いために、その皇子が成長するまでの中継ぎとして即位したのに対し、この孝謙天皇は、天皇になるべくしてなった天皇なのです。
母の光明皇后は、藤原一族の出身で初めて皇后になった人・・・つまり、それまで皇后という位には天皇家の血を引く女性しか、なった事がなかったわけで、藤原氏としてはこのチャンスを逃すわけにはいかなかったのです。
その事は、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた(つまり孝謙天皇の弟です)基(もとい)皇子をわずか生後2ヶ月で、皇太子にしてしまう事でもうかがえます。
しかし、その基皇子は1歳の誕生日を待つことなく亡くなってしまうのです。
しかも、そんなタイミングで、聖武天皇の別の夫人・県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)に男の子・安積(あさか)親王が生まれます。
さらに、その後、天然痘の流行で藤原四卿と呼ばれた藤原不比等の息子たち四人(光明皇后の兄さんたち)が次々と亡くなってしまいます。
このままでは、他家の皇子に天皇の座を持っていかれるのも時間の問題。
あわてた藤原氏は、史上初の女性皇太子・安倍内親王(後の孝謙天皇)を立てるのです。
「あわてた藤原氏」と書きましたが、はっきり言って、この藤原氏は光明皇后その人です。
強靭でたくましい意欲を持ったこの力強い皇后は、晩年病気がちな聖武天皇をトップとする朝廷とは別の皇后宮職(こうごうぐしき)なる組織を拡大した、もう一つの朝廷を造りあげていたのです。
本来なら、宮廷内の一組織であった皇后宮職が、実は実権を握っていたのです。
初の女性皇太子を立てたのも、健康のすぐれない聖武天皇に譲位をうながしたのも光明皇后でした。
そして、この皇后宮職の長官をつとめていたのが、皇后が頼りにしていた亡き藤原四卿の長男・武智麻呂の息子・藤原仲麻呂です。
皇后が、今の藤原家の中で最も聡明で政治力に富むと目をかけているかわいい甥っ子です。
仲麻呂は階級を飛び越えて昇進し、それまで大仏造営の主導権を握っていた僧正・玄昉(げんぽう)は大宰府に左遷され、仲麻呂お気に入りの行基(ぎょうき)が大僧正になります。
しかも、反・藤原派の希望の星だった、あの安積親王は17歳の若さで突然の死亡・・・もちろん、その死には仲麻呂の暗殺説なる物も浮上しますが、それは、あくまで疑わしいだけなので、ここでは「突然死」という事にしておきます。
もはや、朝廷内を光明皇后と仲麻呂が牛耳っているのは明らかでした。
もちろん、その事はさずがの聖武天皇も気づき、かつ心配だったようで、皇后と仲麻呂に勧められて孝謙天皇に位を譲る時も、そのまわりを固める大臣たちの人選は、聖武天皇の意図が感じられる藤原四卿・橘氏・大伴氏ほか、古くからの名族出身の者をまんべんなく配置した物でした。
そして、それらの大臣を従えて、孝謙天皇が即位するのです。
しかし、事実上すべての実権を握ってしまっている仲麻呂・皇后コンビには、そんな人選は何の効果もありません。
おもしろくないのは、反・藤原氏の人々です。
特に、それまで中心になって朝廷を動かしていた橘諸兄(たちばなのもろえ)(11月11日参照>>)は、今回の新天皇での人事でも左大臣というトップの位に任命されているにも関わらず、すべての権限が皇后宮職にある現状に、不満を抱いていたのは明らかです。
各人の重苦しい空気が立ち込める中、やがて、天平勝宝四年(752年)、大仏開眼という一大イベントがやってきます。
まだ大仏は完成には至っていませんでしたが、聖武上皇の病状が思わしくなく、予定を早めての大仏開眼・・・女帝・孝謙天皇はこの大イベントで、天皇としての役目を一つ果たしました。
しかし、その夜・・・
今まで、あやつり人形のように心の内がまったく読み取れなかった孝謙天皇が、ここで初めてその心情をあらわに見せ、大胆な行動に走ります。
『是の夕(ゆうべ)、天皇は大納言藤原朝臣仲麻呂の田村ノ第に還(かえ)り、ここを御在所となされた』
と、『続日本紀』にあります。
「是の夕」とは、大イベントのあった日の夜。
「田村ノ第」とは仲麻呂の邸宅。
つまり、孝謙天皇はその日から、仲麻呂の家に転がり込んだ・・・という事です。
どうやら、仲麻呂は叔母さんの光明皇后だけでなく、その娘の孝謙天皇のハートも射止めたようです。
もちろん、こちらは男と女の関係・・・。
仲麻呂は女帝にとって、12歳年上の頼れる従兄弟。
しかも、彼女は21歳で皇太子になったため、一生独身で暮らさなければならないという宿命を背負っていました。
天皇の座を受け継ぐのは男系男子・・・最近問題になったので、もう、皆さんもご存知でしょうが、彼女が子供を生んで、その子供が皇位につけば、問題の女系天皇となってしまうわけです。
とは言え、純心無垢な環境で育ってきたお嬢様・女帝だって、年頃になれば恋をします。
しかも、免疫のないぶん、その溺愛ぶりも相当な物で、仲麻呂にはすでに奥さんも子供もいましたが、そんなもん、おかまい無しでございます。
もちろん、仲麻呂も大いに打算あり・・・これで、自分の天下がさらに強くなるわけですから・・・。
やがて、聖武上皇が56歳の生涯を閉じる日がやって来るのですが、上皇は遺言として「次の皇太子には道祖王(ふなどおう・天武天皇の孫)にせよ」と言い残して亡くなります。
もちろん、先ほども書いたように孝謙天皇は、一生独身でいなければなりませんから、「子供を生む」という事はありませんので、当然、天皇家の誰かから皇太子を選ばなくてはならないのですが、実はこの道祖王という人は、仲麻呂が次期天皇になって欲しい人物ではなかったのです。
あまりに傍若無人に事を運ぶ光明皇后と仲麻呂に、一矢を報いた感じの聖武天皇・・・これは、後にモメる事を完全に承知した上の遺言ですね。
それでも、しばらくはおとなしくしていた仲麻呂。
しかし、天下であると言っても、やっぱりちょっとは気を使う相手だった表向きトップの左大臣・橘諸兄が亡くなった直後、彼はモロに行動を表します。
天平宝字元年(757年)3月、孝謙天皇は、大臣たちの意見を無視して道祖王を皇太子から廃し、他にも天皇家の地を引く皇子が何人かいるにも関わらず、独断で大炊王(おおいおう)を皇太子に決定します。
もちろん、彼は孝謙天皇が望む人物ではなく、仲麻呂が望む人物です。
大炊王は舎人親王(11月14日参照>>)の息子で、仲麻呂の息子の嫁の再婚相手・・・血縁ではないものの、田村の邸宅に一緒に住むという間柄で、彼の意のままになる人物でした。
さらに、仲麻呂は紫微内相(しびないしょう)という新しい役職を作って、自身がその地位に着きます。
これは、宮廷や都を守る近衛軍と、地方諸国の軍、さらに防人など・・・つまり、現在で言うところの警視総監と防衛省長官を兼ねたような、国内の武力を一手に管理する役職です。
この一件で、とうとうブチ切れたのが、父・諸兄を亡くしたばかりの橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)です。
もちろん、不満を持つ反対派は彼の声かけに応じ、6月の始めから2度に渡ってクーデタ計画の会合を開きます。
そして、3度目の会合・・・6月29日の夕方、大胆にも太政官院の庭・・・つまり宮廷内で密談をするのです。
決行の日は7月2日。
まずは、仲麻呂邸を攻撃し仲麻呂を暗殺。
そして皇后宮職に押し入り光明皇太后の持つ鈴璽(れいじ・駅鈴と天皇印)を奪い、現天皇と現皇太子を廃し、他の皇子から天皇を選出する・・・。
しかし、宮廷内でクーデター計画とは・・・あまりにも無防備すぎましたね~。
当然の事ながら、この計画は事前にバレてしまいます。
クーデターを決行するはずだった7月2日の夜に仲麻呂への密告が入り、クーデターは中止。
翌3日の夜に、首謀者とおぼしき人物らが、孝謙天皇のいる仲麻呂の邸宅に呼び出されます。
そのメンバーは、先に皇太子になっていた道祖王や黄文(きぶみ)王といった天武天皇の孫である次期天皇候補の皇子と、大伴古麻呂(おおとものこまろ)、多治比犢養(たじひのうしかい)、小野東人(おののあずまびと)、加茂角足(かものつのたり)といった、昔からの名門の家柄の面々・・・そして、一番の首謀者である橘奈良麻呂です。
でも、この時は、
「お前たちは私の親族・・・謀反を考えているなんて噂は信じられない。きっと何かの間違いだと思うので罪には問いません。信じています。」
という光明皇太后の意見により、彼らは何のお咎めも無く返されます。
しかし、これは皇太后のまったくの独断・・・仲麻呂は納得していませんでした。
翌日の天平宝字元年(757年)7月4日、彼らは再び逮捕されるのです。
そして、自白を強要する杖(むちうち)で、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多治比犢養、小野東人、加茂角足の6人が、命を落とします。
処罰は「死刑」となってますが、「死ぬまでムチ打ち」というのは、「死刑」って言うのとは違う?気もしますが・・・。
ともかく、彼ら以外にも、死刑、流刑など4百人以上が処罰されました。
ところが、不思議な事に、この事件の事が書かれいる『続日本紀』には、一番の首謀者である奈良麻呂の名前が無いのです。
その事から、奈良麻呂は死刑にならずに流罪になったとか、後に嵯峨天皇に嫁いだ奈良麻呂の孫娘=橘嘉智子(たちばなのかちこ)(5月4日参照>>)が、名前を排除したとか、様々な説が囁かれています。
しかし、この状況で一番の首謀者が死刑にならないという事は、とても考え難いです。
この事件は、現在の教科書にも『橘奈良麻呂の乱(あるいは変)』と、しっかりと記されている政界を揺るがした大事件・・・しかし、ひょっとしたら、仲麻呂の仕業によって、奈良麻呂の名前が消されたのかも知れません。
仲麻呂は、自分を脅かした最大のライバル・橘奈良麻呂を歴史という舞台から引きずりおろし、その存在自体をこの世から抹消し、彼という人物がいなかった事にしたかったのかも・・・
事件の記事に首謀者の名前が無い・・・とてもミステリアスです。
そんな、仲麻呂も・・・盛者必衰。
このお話の続きは、9月11日【盛者必衰~藤原仲麻呂の乱】へどうぞ>>
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コメント
おお~奈良麿だ~!
ブチ殺されるというよりも、もっと、凄まじい死に方をしてしまったので、慰霊のために名前を消したのでしょうかね。早良親王みたいにたたられてもこまるし・・?
いや、それとも、古代ローマのような「記録抹殺刑」が日本にも存在した? それって面白すぎます・・が、魅力的ですねえ。
投稿: 乱読おばさん | 2007年7月 5日 (木) 20時35分
教科書では、「橘奈良麻呂の乱」としっかり首謀者の名前入りのこの事件・・・当時は何て呼んでたんでしょうなねぇ~。
「記録抹消刑」か・・・
当時は、名前も変えられちゃいますからね~。
ひょっとして別の名前で書かれちゃってるって事は・・・無いですよね~。
変えたなら変えた事を記録しとかないと意味ないですもんね。
投稿: 茶々 | 2007年7月 5日 (木) 21時21分
奈良麻呂は流罪で佐賀県武雄市永島に、近くに香橘神社が有り、17代橘公業が1237年、肥前国潮見山頂に城を築き、潮見社に諸兄と奈良麻呂を合祀したそうです。行ったことは無いのではっきりは分かりませんが?以前、読んだ本に書いてありました。
投稿: | 2015年2月 2日 (月) 15時09分
ありがとうございます。
早速、調べてみますと、江戸時代に書かれた『菊池風土記』という文献に、鎌倉時代の「橘公村(?)の代に、姓を渋江に改めて、肥前国杵島郡三法方郷にある潮見山に、諸兄を祀る宮を建てた」というような記述があるようです。
奈良麻呂の最期については書かれていないようですので、そこところの出典は別の文献かと思いますが、本文にも書かせていただいた通り、『続日本記』には、名前の記述さえありませんから、生存説があったとしても、不思議ではありませんね。。。
興味深いです。
投稿: 茶々 | 2015年2月 2日 (月) 16時52分