キスカ撤退作戦・成功!
昭和十八年(1943年)7月29日、日本軍が『キスカ島・撤退作戦』を決行!
見事、全員が無事の帰還を果たします。
・・・・・・・・・
昭和十七年(1942年)6月にあった太平洋戦争の転換点とも言えるミッドウェー海戦。
この海戦は、日本軍の多くの空母と、多くの優秀なパイロットを失い、その後の戦況に多大な影響を与えた敗戦でした。
映画などにもなって、皆さんもよくご存知のミッドウェー海戦ですが、実は、この時、もう一つの作戦も実行されていました。
それは、「アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を占領する」というものでした。
こちら↓は、縮尺無視のつたない地図ですが、これで大体の位置はわかっていただけるかと思います。
アリューシャン列島は、その名の通り「島」ではありますが、点々とたどって行けば、アメリカ本土に直結する場所にあります。
「ここを、攻略される事で、アメリカは、このアリューシャン列島に食いついてくるに違いない。その間にミッドウェーを・・・」
そうです。
この作戦は、ミッドウェー作戦を成功させるための、言わば「おとり作戦」・・・
空前の大艦隊を率いて挑むミッドウェー作戦を、何が何でも成功させるためのサポートをする事が目的の『アッツ島・キスカ島攻略作戦』だったのです。
そして、日本軍はアッツ島とキスカ島を、あっさりと攻略します。
・・・と、言うのも、実は、この時、すでに日本軍の暗号は解読され、本来の目的がミッドウェーである事を、アメリカ軍は知っていたのです。
かくして、ミッドウェー作戦は決行され、アッツ島とキスカ島は、その目的を果たす事なく、海戦は大敗に終ってしまうのです。
先にも書きましたように、ミッドウェーでの敗戦以降、日本軍は太平洋の各地でことごとく敗退してしまいます。
確かに、アリューシャン列島はアメリカ本土へ直結していますが、もともとミッドウェー作戦のための「おとり作戦」で、ここから本土へ進攻する作戦は、最初っから無かったワケですから、日本軍の注目は、負け戦の続く南方戦線へと移り、アッツ島とキスカ島は、守備隊のみが駐留するという孤立状態となってしまいます。
やがて、昭和十八年(1943年)5月、キスカ島の西隣りにある「アッツ島の守備隊が全滅する」という事態になります。
そこで、急きょ、まだ無事なキスカ島の守備隊を、救出する作戦を決行するのです。
しかし、現在の主体は南方・・・それほど大きな戦力を、ここに費やすわけにはいきませんから、軽巡洋艦3隻を含む駆逐艦・計16隻で向かいます。
頼みの綱は、北太平洋に時々発生する濃霧。
わずかの艦隊で、この作戦を成功させるには、天気を味方につけるしかありません。
一方のアメリカ軍は戦艦2隻を含む計・30隻を用意して、キスカ攻略の準備を始めます。
やがて、7月15日・・・キスカ島に向かう途中、頼みの霧が徐々に薄れて来た事に気づいた司令官・木村昌福(まさとみ)少将は、大いなる決断をします。
撤退です。
「運を天にまかせて勢いで突っ込む」という事を、彼はしませんでした。
そのため、この時には「臆病者」というレッテルを貼られてしまうのですが・・・。
やがて、一旦、千島列島の占守島に帰った後、再び出撃します。
昭和十八年(1943年)7月29日・・・今度はバッチリ濃霧です。
いや、それどころか、アメリカの船1隻すら見当たりません。
木村少将率いる艦隊は、まったくの無傷のまま、一発の攻撃も受けずに、島に残っていた守備隊・5000人を収容し、無事帰還を果たすのです。
キスカ攻略の準備をしていたはずのアメリカ軍はどうしたのでしょう?
準備が間に合わなかったのでしょうか?
いえいえ、実は、もう攻撃をした後だったのです。
3日前の26日、アメリカ軍のレーダーが敵艦隊をキャッチします。
「それ!来た!」とばかりに、即、発進!
大量の爆弾を投じて、そこに猛烈な攻撃をしかけていたのです。
しかし実際には、当日、その海域には日本軍の艦隊は存在しませんでした。
つまり、アメリカ軍は、誰もいない所に猛攻撃を仕掛け、大量の爆弾を使ってしまったために、次の攻撃の準備が整わず、29日当日は、キスカ島の警戒を解いていたのです。
アメリカ軍のレーダーがなぜ26日に反応したのか?については、濃霧が原因では?との推測はあるものの、決定的な解明には至っていません。
誤作動の原因は、未だ、謎のままですが、とにかく15日に木村少将が『勇気ある撤退』をしていなければ、艦隊も、そして、キスカ島に残っていた兵士たちも、全滅していた事は確かでしょう。
この出来事が、負け戦の続く日本軍の士気を高めたのは言うまでもありません。
それにしても、お国柄の違いと言うか・・・欧米の場合、こういう「孤立してしまった戦地の兵士を救出する」という事は、ほとんど行われません。
それは、「見殺しにする」という意味ではなく、「軍が救出しない」変わりに「兵士も投降する事を恥としない」という考え方があるからです。
日本の場合、「捕虜になる事は恥」という気持ちがどうしても根底にある以上、「孤立した戦地の兵士を救出しない」となると、イコール死を意味する事になってしまいます。
ですから、何としてでも、助けなければならなかったのです。
しかし、このキスカ島撤退の頃から、戦況はどんどん悪くなります。
「負け」の色が濃くなると同時に、「救出」の二文字が消え、いつしか「玉砕」の二文字が、日本軍を支配して行くようになるのは、もう、皆さんご承知の通りです。
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コメント
うちの祖父の弟がアッツ島玉砕でなくなっています なんだか懐かしかったです
投稿: 内田 佳奈子 | 2011年6月25日 (土) 04時36分
内田佳奈子さん、こんにちは~
そうですか、
アッツ島の守備隊におられたのですね。
最近は、アッツ島もキスカ島も、ご存じない方が多いのでしょうね。
それだけ、平和だという事かもしれませんが…
投稿: 茶々 | 2011年6月25日 (土) 12時21分
星野道夫さんの「イニュニック アラスカの原野を旅する」という本から、「アリューシャン、老兵の夢と闇」と題してキスカ島からの帰還兵たちと、キスカ攻略の米軍兵とが50年ぶりにキスカ島で慰霊祭を実現できた感動的な随想が高校の現代国語の中に掲載されています。玉砕したアッツ、敗戦の転機になったと言われるミッドウェー作戦は知っていても、このキスカ島撤退作戦のことは、この文章に出会うまで知りませんでした。戦争のそれぞれの場でのドラマ、生死の分かれ、戦争を知らない者には想像するしかありませんが、感慨深いものがあります。
投稿: 細萱 麻美子 | 2013年10月24日 (木) 14時45分
細萱 麻美子さん、こんばんは~
>戦争のそれぞれの場でのドラマ…
ホントですね。。。
私たちには想像し難い事ではありますが、知らねばならない事でもありますね。
投稿: 茶々 | 2013年10月25日 (金) 00時50分