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2007年7月23日 (月)

切腹のルーツは五穀豊穣の祈り?

 

天武元年(672年)7月23日、前日の瀬田合戦に敗れた大友皇子が、山崎の地で自害し、古代最大の内乱・壬申の乱が終結しました。

・・・・・・・・・・・

壬申の乱は、第38代・天智天皇の息子・大友皇子(おおとものみこ)と、同じく天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ)が、次の天皇の座をめぐって争った・・・つまり甥っ子と叔父さんとの後継者争いです。

壬申の乱の経緯については、それぞれ「その日」の日づけで書いておりますので・・・

・・・と上記のリンクからご覧いただくとして・・・

合戦に敗れた大友皇子・・・一旦、瀬田から逃走するのですが、逃げ切れないと思って敗戦の翌日・・・つまり、天武元年(672年)の今日・・・7月23日自害するわけです。

・・・で、この大友皇子・・・その自害の方法が「首吊り自殺」なんです。

「合戦に敗れて自害」と聞くと、ついつい「自刃=切腹」を思い浮かべてしまいますが、よくよく考えれば、それは、時代劇などで見る「武士の敗戦」の場合で、大友皇子は武士ではありませんし、武士が歴史の舞台に登場するのは、まだまだ先の事ですから、落ち着いて考えれば当然なんですが、一瞬「えっ?首吊りなの?」っと思ってしまいますね。

では、いったい、いつ頃から切腹が行われるようになったのでしょう?

この先、「切腹の話題」という事で、少々グロテスクな表現もあるかと思いますが、話題が話題なので、それも歴史の一つという事でお許しを・・・。

・‥…━━━☆・

以前の【源為朝・琉球王伝説】(3月6日参照>>)で、保元の乱で敗れた源為朝(みなもとのためとも)が、伊豆大島に流された後、その伊豆大島でも謀反をくわだて、やがて追い詰められて切腹し、これが日本最初の切腹である・・・という事を書かせていただきました。

たしかに、今、皆さんが「切腹と聞いて、思い浮かべる、いわゆる「武士の切腹」というのは、この為朝さんが最初だと思います。

貴族が自分の身を守るために、武芸に優れた者たちを集め、親衛隊としてそばにおき、やがて起こった天皇の後継者争いで、自分の親衛隊を使って合戦をする・・・この為朝が関わった保元の乱は、武士が朝廷の内紛に参加した初めての大きな戦いです。

「武士が、政権を左右するのだ」という事を知らしめた、まさに、武士の時代の到来を見せつけた乱が保元の乱なのです。

やがて、初めての武士政権である鎌倉幕府の頃に、主君と部下の固い絆を中心とする「もののふの道」なる物が誕生してきます。

それは、個人の損得ではなく、武士団としての名誉のため、主君との主従関係のためには、命を惜しまず戦うという事が美徳とされる道・・・つまり、「死を恐れない」という事。

こうして徐々に「武士道」なる物が確立されていく中で、切腹は、「自分は死を恐れない。このような苦痛にも耐えてみせる」という勇気を見せるための手段として、武士の美しい死に方のように扱われる事になります。

『武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり』
これは、江戸時代に成立した有名な武士道論書『葉隠』(10月10日参照>>)の一文です。

では、なぜ斬る場所が腹なのか?

という事に関しては、前5千円札でお馴染みの新渡戸稲造(にとべいなぞう)が、その著書『武士道』の中で、「古代信仰の中で、人の魂は腹にあるとされていたから・・・」という感じの事を書いています。

もちろん、『武士道』という観点からの理想を言えば、そういう精神が根底にあった事も確かですが、現実の問題として、「切腹ではなかなか死ねない」という事実もあります。

テレビの時代劇の切腹のシーンなどでは、武士が切腹し、コテンと横になった感じのところでカット!となって、次のシーンに移る事が多々ありますが、現実には、そんなにあっさりとはいかないものです。

先の為朝の場合も、切腹では死にきれず、側にいた敵が首を落として絶命・・・となっています。

それこそ、時代劇の切腹シーンでも横に介錯人がいて、お腹を斬った後、介錯人が介錯をして・・・というシーンの場合もありますよね。

実際には、その介錯で絶命する・・・というのが圧倒的に多かったのです。

ですから、江戸時代の後半には、切腹といっても、実際にはポーズだけというケースも多くなります。

切腹する人が、刀を手にした時点で介錯をしたり、刀をお腹に当てた時点で介錯をしたり・・・たとえば、あの赤穂浪士なんかも、討ち入りの後、最終的に切腹の処分になった事は皆さんもご存知でしょうが、全員が実際にお腹を斬ったわけではないのです。

本当に切腹したのは大石内蔵助以下数名だけで、残りの人たちは、扇子などを刀に見立てたりして、切腹の儀式を再現し、最終的には介錯で絶命しています。

こうして見てみると、切腹が死ぬ事を目的とした行為ではない事が、うっすらとわかってきます。

では、切腹は何のための行為だったのでしょうか?

戦国では、武田滅亡の時に高遠城に籠った信玄の息子=仁科盛信(にしなもりのぶ)・・・(3月2日参照>>)
織田信長亡き後、その息子の神戸信孝(かんべのぶたか)・・・(5月2日参照>>)
さらに、幕末では、あの堺事件で・・・・
「切腹をした時に斬ったお腹から腸を出して投げつけた」という話があります。

いずれも、切腹に追い込まれた経緯の中に強烈な怨みを持った人物の切腹ですが、実は、これが、切腹の本来の姿なのです。

それは、「武士=切腹」という形ができあがるずっと以前に、農耕民族の儀式として、日本人の心の奥深くに潜んでいた行為なのです。

『播磨風土記』には、それこそ日本最古の切腹のお話が書かれています。

それは、神代の昔、淡海神という女神が、夫の花浪神の浮気に腹を立て、自分のお腹を裂いて内臓を露出させた後、沼に身を投げたというのです。

その播磨には、昔、鹿のお腹を裂いて取り出した腸を田畑にまいて、五穀豊穣を願うという儀式があったと言います。

もちろん、このような儀式がおこなわれていたのが、播磨だけではない事は、あの『古事記』を見ても明らか・・・

須佐之男命(スサノヲノミコト)が、高天原を追われるくだりで、食物を司る女神・大気津比売神(オホゲツヒメノカミ)を殺す話が出てきますが、この殺された女神の頭から蚕が生まれ、目から稲種が生まれ、耳から粟、鼻から小豆、お尻から大豆、そして大事な所からは麦が生まれたとなっています。

この記述からも、肉体と五穀豊穣が密接な関係にあったのが、播磨という一地方だけではない事がわかります。

先の鹿の内臓を田畑に捧げる儀式は、「飢饉に襲われる=五穀豊穣の神に見放される」という事で、肉体をさらけ出し、いけにえとして捧げ、神様にアピールする事によって、もう一度、神のご加護にあずかろうという考え方から来ているものではないかとされています。

もちろん、そのアピールは、五穀豊穣の神以外の神にも向けられる場合も・・・

『播磨風土記』の淡海神の場合は、愛する夫・花浪神という神に見放された事へのアピール・・・それは、自らの肉体をいけにえにする事で、より、強力なアピールと化します。

そこから考えて、武士の場合は勝利の女神に見放された事へのアピール・・・という事なのではないでしょうか?

その行為に苦痛がともなう事から、やがて、死を恐れぬ武士道精神の証しのようなものへと変化していったのだと思いますが、本来は、切腹とは、お腹を裂いて、内臓を取り出して、相手に見せつける行為・・・それは死ぬという行為とは別の物だった???

そして、その相手とは、場合によっては深い怨みを伴う、自分の思いが通じなかった相手・・・時には敵であり、時には愛する人であり、時には神様であるという事なのではないでしょうか?

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今日のイラストは、
ちょっと季節は早いですが、五穀豊穣の祈りを込めて『秋の稔り』を・・・。

話題は切腹でしたが、切腹の場面を書くのはちょっと怖いので、神代の昔の本来の目的であったこっちを書かせていただきました~
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コメント

わ~! ハラキリは痛そう!
というより、死んでから五体バラバラにして(残酷)畠にまくというのは、金枝編にも出てきますし、古代的な様相ですね。イタリア映画の「王女メディア」にまさにこういう場面が出てきて、喜色悪かった・・。

投稿: 乱読おばさん | 2007年7月23日 (月) 09時08分

おお・・・やっぱり外国にもあるんですね。

「鹿の内臓を畑に・・・」と聞くと、なんだか気色悪い感じがするのに、牛の内臓が「ホルモン」という名称になれば、「おいしそ~」ってなるんだから人間て勝手ですよね。

投稿: 茶々 | 2007年7月23日 (月) 09時24分

切腹の起源と理由がよくわかりました。
鹿の腸(はらわた)が肥料となり、五穀豊穣に繋がったのは、なるほどと思いました。
五穀豊穣を願い、あるいは、飢饉の年に、村の飢餓を救うため、神社の巫女は、嬉々として切腹し、自らの腸を神に捧げたのでしょう。切腹が儀式的で、美しく感じる理由を知ることができました。ありがとうございました。もし、私が、播磨風土記の時代に巫女に生まれていたら、五穀豊穣を祈り喜んで切腹したと思います。


投稿: 原田千春 | 2011年11月 6日 (日) 04時11分

原田千春さん、こんにちは~

古い事の、しかも、そのルーツのお話なので、あくまで諸説あるうちの一つですが、「武士にとって、討死よりも切腹のほうに価値がある」という点を見ても、何やら、そこに儀式的な意味合いが込められているような気がします。

投稿: 茶々 | 2011年11月 6日 (日) 16時17分

切腹のこと、詳しく教えて下さりありがとうございました。
切腹の起源が、五穀豊穣の為だと知り、なるほどと思いました。本来は、女性のものだったのですね。
戦に負けての男の切腹より、五穀豊穣を祈る巫女の切腹の方が、有意義で、美しく感じました。
切腹は、日本の伝統的文化として残したいものです。

投稿: moonless night | 2015年4月19日 (日) 05時52分

moonless nightさん、こんばんは~

古いお話なので、そのルーツというのも複数あるようで、あくまで一つの説ではありますが、参考になれば幸いです。

投稿: 茶々 | 2015年4月20日 (月) 03時49分

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