殺生関白・豊臣秀次の汚名を晴らしたい!
文禄四年(1595年)7月15日、豊臣秀吉の甥・羽柴秀次が謀反の罪により切腹・・・享年28歳、わずか4年間の関白の座でありました。
・・・・・・・・・
羽柴(三好・豊臣)秀次は、豊臣秀吉の姉・ともと三好吉房(みよしよしふさ)との間の長男として、永禄十一年(1568年)に生まれます。
16歳の時、秀吉の身内の一人として参加した賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)が初陣となります。
翌年の小牧・長久手の戦い(4月9日参照>>)では、渋る秀吉を説得して自らが総大将となって挑みますが、徳川家康に手玉に取られ、命からがら逃げ帰るという散々な結果となります。
でも、「若さゆえ勝ちを急ぐ、若さゆえ血気にはやる」というのは、誰もが一度は通る道でもありますので・・・
まして、彼は秀吉の身内という「七光」を背負っています。
「自分の地位が、七光ではなく、実力が伴う物だという事を証明したい」という、思いが強くあったかも知れません。
何の実力もないままに、七光の輝く椅子にどっかりと腰をかけて平気でいられる人物よりは、マジメで純粋だった事は確かです。
その後、18歳になった秀次は四国平定を成し遂げ、この時に近江・四十三万石を賜って、近江八幡の城下町の基礎を築きます。
天正十八年(1590年)、秀次23歳の時の小田原攻め(7月5日参照>>)では、支城の一つ・山中城を攻め落とす大活躍!
その功績が認められて、尾張・伊勢など百万石をもらい、清洲城を居城とします。
・・・と、この翌年、秀次に一つの転機が訪れます。
秀吉と淀君の間に生まれた長男・鶴松が、わずか3歳で亡くなってしまうのです。
ご存知のように、正室のねねさんとの間にも、他の側室との間にも、秀吉は子供を持っていません。
望んで・・・望んで・・・やっと生まれた待望の男の子を失い、その時の秀吉のショックは相当なものでした。
当時、秀吉は56歳・・・年齢が年齢ですから、「もう、子供は望めない」と思ったのか、秀次を養子に迎え、豊臣を名乗らせ(それまでは三好秀次でした)、関白職を譲って、聚楽第(2月23日参照>>)に住まわせます。
これは、もう完全に彼を後継者として認めたという事になります。
やがて文禄元年(1592年)の朝鮮出兵(4月13日参照>>)では、出陣せず、京都で留守を預かっています。
そして、その翌年、いよいよ秀次・人生最大の運命の時がやってきます。
文禄二年(1593年)の8月、淀君が二人目の男の子・後の秀頼を出産するのです(8月3日参照>>)。
ここから、秀次はまるで別人のようにその人物像が豹変します。
通説によれば、秀吉に実子が誕生した事で、現在の地位に危機感を抱いた秀次は、心神に異常をきたし、これより後、とんでもない行動に出るのです。
秀次は、「弓・鉄砲の稽古だ」と言って村へ出ては、罪のない領民を的にして射殺したり、妊婦を見つけてはその腹を裂いたり、あげくの果てに殺生禁止の比叡山へ出かけては狩りを楽しんだり・・・と、狂乱の一途をたどります。
もちろん、家臣への無理難題、暴力などは日常茶飯事。
人々は、そんな秀次を恐れ、彼を『殺生関白』なるニックネームで呼ぶようになるのです。
そんな秀次の乱行は、やがて秀吉の耳に入る事になります。
文禄四年(1595年)7月3日、秀吉の命で使者として聚楽第にやって来た石田三成が、秀次に詰問・・・
5日後の7月8日には、官位を剥奪され、即、高野山へ追放。
そして、さらに一週間後の文禄四年(1595年)7月15日に「謀反」の罪により切腹・・・という事になるのです。
・・・って、えぇ?謀反?、罪は「ご乱行」じゃなかったの~?
そうです。
上記の文章の「通説によれば・・・」という部分から続くご乱行の数々・・・そのご乱行が秀吉の耳に届いて・・・という事のはずなのに、いつしか罪が「謀反」に変わっちゃってます。
この謀反の内容については、「蒲生秀行への改易命令を、秀吉に無断で秀次が握りつぶした」とか、「諸大名に対して、秀吉ではなく自分に忠誠を尽くすよう連判状を回した」とか、囁かれていますが、いずれも証拠らしい証拠は残っていません。
さらに、秀次が親しくしていた公家・山科言経(ときつね)の日記には『彼が謀反を企てるなどありえない』と書かれています。
友人・言経によれば、「彼は、能や茶道にも通じ、古典文学にも親しみ、連歌を好む風流も持ち合わせ、何より血を見る事がキライで、争いごとを好まない人物だった」と言うのです。
そう、友人に言わせれば、最初のご乱行もありえない事なのです。
「罪の無い領民を的にして・・・殺生関白と呼ばれ・・・」とありますが、この領民というのは、当然、秀次が治めていた城下町・近江八幡の人々という事になるはずです。
しかし、道路や下水を整備し、琵琶湖からつながる水路=八幡堀(はちまんぼり)を切り開き、楽市楽座を設けて経済を発展させた秀次は、近江八幡の人々にとって、秀次は現在でもなお、名君なのです。
近江八幡の領民の中で、彼の名君ぶりを後世に語り伝えた人はいても、彼のご乱行を後世に語り伝えた人など、誰一人としていないのです。
ただ、秀吉の後継者(秀頼)が生まれた事によって、秀次が変わった・・・という記述は残っています。
それは、秀次の持病であった喘息の治療をしていた医師・曲直瀬玄朔(まなせげんさく)という人の書いた『医学天正記』という本に書かれています。
それによると、「喘息の発作がひどくなり、咳が止まらず、うつぶせに寝る事すらできなかった」というのです。
これは、かなり信頼できる書物と言えるでしょうから、秀次が、やはり秀頼の誕生で恐怖心を抱いていたのは確かでしょう。
しかし、それは、「自分の地位が脅かされる」恐怖心ではなく、「自分の命が危ないかも知れない」という恐怖心ではなかったでしょうか?
秀吉は、先の朝鮮出兵(文禄の役)の際に、「大陸を征服したあかつきには、時の天皇・後陽成(ごようぜい)天皇に明(中国)の帝王になってもらい、秀次を明の関白にしてやる」と言っていたと言います。
しかし、そんな朝鮮出兵を、秀次は最後まで反対をしていました。
彼が若い頃、てがらを焦ったのは、あくまで自分の実力を認めてもらいたい一心であって、「秀吉の後継者」という地位が欲しかったわけではないと思うのです。
百歩譲って、そこから恐怖心をつのらせたとしても、「持病の発作がひどくなる=その影響が内に出る」タイプであって、恐怖心を外へ向けてご乱行あそばすタイプの人ではなかったはずです。
彼は、まさに時代の犠牲者となってしまったのでしょう。
秀頼の誕生で、誰よりも恐怖心を抱いたのは秀次ではなく、他ならぬ秀吉です。
彼が整備した近江八幡という城下町の発展ぶり、領民たちからの評判高さ、公家からも一流の文化人として扱われる秀次が、将来、わが子・秀頼の最大のライバルになるであろう事を恐れた秀吉が、誰よりも恐怖におののいたのです。
その結果が・・・
「殺生関白・豊臣秀次、謀反の罪で切腹」
という結果を生み出したのでしょう。
秀次さんにも、こんな場所で、ゆったりと舟遊びなんぞしながら、老後を過ごしていただきたかったですね~。
*秀次の墓所~瑞泉寺>>
*秀次事件に連座した熊谷直之の逸話>>
も合わせてどうぞm(_ _)m
★追記
不肖茶々…2015年4月に近江八幡へ行って参りました~
その時のお話は【豊臣秀次と近江八幡~八幡堀巡り】でどうぞ>>
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コメント
茶々さん、こんにちは。
今日は「その日」でしたね。僕にとっても一番敬愛する人物なので、汚名は晴らさないといけませんよね!
追伸 TBもさせて頂きました!
投稿: 御堂 | 2007年7月15日 (日) 14時43分
御堂さん、コメント&TBありがとうございます~。
城下町の整備の仕方と言い、御堂さんがお書きになっている「水裁き」の話と言い、秀次さんは、かなりの名君で頭の良い人だったんでしょうね。
秀吉が腹割ってちゃんと話をすれば、きっとサポート役に回って、秀頼を盛り立て、最高の味方になってくれたでしょうに・・・残念です。
投稿: 茶々 | 2007年7月15日 (日) 15時24分
今日は。
私、今年の4月に近江八幡を始めて訪れました。
秀次は5年ほどの城主だったそうですが、その業績は今も近江八幡の人々の誇りであり、優れた名君であったと認識しました。
晩年の秀吉は、秀頼誕生以来可愛さのあまり老醜をさらけ出したように思います。
淀君を取り巻く旧浅井の三成を始めとする官僚にとって、秀次が名君であればあるほど邪魔な存在だったのかもしれませんね。
投稿: さと | 2007年7月17日 (火) 17時51分
私の近江八幡訪問記です。
http://www.doblog.com/weblog/myblog/34335/2610509#2610509
投稿: さと | 2007年7月17日 (火) 18時09分
さと様・・・コメントありがとうございます。
そうですか、近江八幡に行かれたんですか・・・。
私は、ずいぶん前なので、うっすらと景色を覚えてる程度。
>その業績は今も近江八幡の人々の誇り・・・
そうなんですよね。
地元では、秀次さんの人気は健在で、今も尊敬されてるんですよね。
何だかあらためて行ってみたくなりました。
投稿: 茶々 | 2007年7月17日 (火) 19時12分
初めまして。実は真田信繁(幸村)さんの側室になった秀次さんの次女、隆清院さん及び、父上(秀次さん)のことが気になりまして、こちらのサイトにたどりついたものです。
一度近江八幡に行ったことがありましたが、こちらでは秀次さんは名君と慕われていたので、一般的に言われる「殺生関白」のイメージと違い、驚いたことがありました。
歴史は勝者が作るものだとしたら、真実は庶民など下層級の伝承が綴るものだとしたら、やはり秀次さんは勉強熱心な温厚な方で、言い訳しない方だったのでしょう。だから、汚名を着せられても言い訳せず、豊臣のために切腹したのかなと(まさか、彼自身妻子まで罪が及ぶことは知らなかったのかもしれませんが)
まあ、歴史の皮肉というか、実は秀次さんの血統はしっかり残されてます。しかも秀頼系の血統は天秀尼(秀頼娘)の死で江戸前期に絶えたのに対し、秀次の血統は実は現在も続いてます。
秀頼と婚約してた、清洲姫君が秀次さんの長女だとしたら、彼女はダミーを立てて(つまり身代わりを処刑して)生き残ってます。それも公家の梅小路家の正妻として。
次女は後見人(この方の名前はあえて伏せさせていただきます。定説では秀次事件の首謀者といわれていますので・・。ただ、首謀者のはずのこの方に、秀次さんの家臣団、若江八人衆が関ヶ原で討ち死にするほど忠誠を立てるには、やはり秀次さんの長女、次女の後見人である必要があるので・・)の関係で、佐竹家と縁組をしていたようですが、関ヶ原のため果たせず、後見人と縁戚関係のあった、真田家に引き取っれたようです。
実は当時娘は女親の所有物という考えがあったようで、本来なら正妻若御前(池田氏)が秀次さんの2人の娘さんの親権を持つはずでしたが、秀吉に遠慮したのか放棄してます。そこで引き取ったのが例の後見人ですが。そこで後見人が関ヶ原で亡くなったため、親権が後見人の夫人の実家に移り、その縁戚関係で真田家に移るというややこしいことが起こったようです。
なお次女の血統は真田信繁(幸村)の子孫として現存してます。当初は秀次さんの名籍を継ぐ形で「三好姓」を名乗ったようですが、最終的には「真田幸村の子孫のほうが見栄えがいい」という理由かららしく、明治には真田姓に戻したようですが(苦笑)
そうしてみると、歴史の神様は秀次さんを見捨てなかったとも取れますね。あんなに残したかった秀頼系よりも、秀次系のほうが血統のこりましたからね。
それでは長文失礼しました。
投稿: 葉月 | 2008年12月 5日 (金) 08時26分
葉月さま、はじめまして、
神様は、本当に気まぐれです。
もっと生きたかった人が早く死んだり、意外な人の子孫が意外な職業についていたり・・・
勝者が書いた歴史から、真実を探り当て、いかに敗者に迫れるか・・・
そこが歴史の一番オモシロイところですね。
また、ご訪問くださいませ。
投稿: 茶々 | 2008年12月 5日 (金) 10時05分
この人の弟である秀保も「悲劇の殿様」ですね。もう1人の弟でお江さんの2人目の夫の豊臣秀勝(「秀勝」としては3代目)も朝鮮の地で病死。この秀次と言う人、去年は影が薄かったです。豊臣家の一族の結束が弱い理由に、豊臣秀長にどういう訳か実子(息子)がいなかったのもありますね。
私が思うに来年の大河で「泥をかぶる人」は、石田三成と本多正純になると思います。
余談ですが、時代劇は架空の人物を主人公にした方が、ストーリーを組み立てやすいと思います。(主人公関係の)変な脚色や不自然な演出がないので。大河ドラマは元々、「架空人物を主人公にしてはいけない」と言う決まりがないので、久々にやってもいいのでは?
投稿: えびすこ | 2010年5月14日 (金) 09時47分
えびすこさん、こんばんは~
なんか大河ドラマも、一時、路線が変わった事がありましたが、不評だったようなので、やはり、大河らしい大河を視聴者は望むってとこなのでしょぷか?
投稿: 茶々 | 2010年5月14日 (金) 18時10分
私は、信繁側室隆清院が清州姫であり、梅小路室の方が、妹だと思います。
何故なら、戒名の院号に当人が、生前住んでいた場所に因む字を使うので、それを根拠とすると、そう言えるのです。
隆清院同腹姉妹の嫁ぎ先は、清閑寺家で間違いないと思います。
姉妹の嫁ぎ先が、誤伝した背景に、清閑寺家から徳川宗家へ養女になった竹姫の存在が、関係しているせいでしょう。
竹姫は一時期、吉宗の御台候補だったから、その辺のゴタゴタで、事実を伝えられなかったと思われます。
投稿: 匿名希望 | 2011年5月22日 (日) 07時50分
隆清院姉妹の後見人は、定説の石田三成ではないと思います。
隆清院実母とされる一の台の、武田信玄姪説を信じると、姉妹の後見人は、信玄娘婿の上杉景勝が正しいでしょう。
何しろ上杉は、佐竹との付き合いが古く、関ヶ原でも、同盟関係にあったのは有名です。
あと上杉は、菊姫を通じて、皇室との血縁がある、勧修寺家とコネがあったから、そう考えた方が、妥当でしょう。
投稿: 匿名希望 | 2011年5月22日 (日) 08時43分
匿名希望さん、こんにちは~
ずいぶん前のページなので、自分でも改めて読み直してみましたが、書き足りない部分も多々あり…
情報&ご意見、ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2011年5月22日 (日) 15時48分