山中鹿之介奮戦!上月城の攻防
天正六年(1578年)7月3日、毛利軍に包囲された上月城で籠城していた尼子勝久が自害し、山陰に勢力を誇った尼子氏が滅亡しました。
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南北朝時代に活躍した佐々木道誉を祖として、出雲(島根県)一帯を治めていた尼子氏は、永禄九年(1556年)に、安芸(広島県)の毛利元就に攻められ、一旦滅亡してしまいます(11月28日参照>>)。
しかし、そんな事(そんな事と言っても滅亡しちゃってるんですが・・・)で諦めきれない不屈の人・山中鹿之介(鹿介幸盛)。
彼は、16歳で初陣する際に、
「(御家の為になら)願わくば我に七難八苦を与えたまえ」
と、三日月に誓ったエピソードで知られる重臣で、尼子十勇士の一人。
彼は、その時、誓った通り、何度叩きのめされても、再び立ち上がり尼子氏を支えます。
一度、毛利方の捕虜となった時も、「ちょっと、ゲリ気味なんで・・・」と、宵の口から明け方にかけて、170回もトイレを所望。
最初は警戒していた見張り役が、呆れかえって油断したところを、ウ●コまみれになって汲み取り口から脱出するという離れワザをやってのけた人物です。
そんな鹿之介が、先の尼子氏滅亡から二年後の永禄十一年(1558年)、京都で僧となっている尼子氏の血を引く人物を還俗(一度出家した人が一般人に戻る事)させ、新たな当主とします・・・それが、尼子氏最後の人となる尼子勝久です。
この時から、波乱万丈の人生を送った鹿之介とともに、尼子氏にも新たな流転の歯車が回り始めます。
それから、一国一城を夢見て出雲の各地を転々としながら、何度か合戦に挑みますが、一度滅んだ尼子氏の旧臣たちだけでは、今や中国地方最強となった毛利に太刀打ちできるはずもありません。
天正五年(1577年)、鹿之介は、勝久をつれて京都へ行き、もう一人の最強の人物・織田信長に援助を求めます。
当時、天下統一へ向けて、各地平定の真っ最中の信長は、彼らを織田軍の中国地方平定担当・羽柴(豊臣)秀吉の傘下とし、上月城(こうづきじょう・兵庫県)の城番を命じます(11月29日参照>>)。
とりあえずは城を貰った勝久でしたが、まもなく上月城は宇喜多直家(秀家の父)に奪われてしまいます。
翌年・天正六年(1578年)の3月、秀吉の協力のもと総攻撃をかけて、再び城を奪い返し、もう一度上月城へ入った勝久。
奪われた城にまたまた同じ勝久ら尼子一族を配置するのは、毛利に刺激与えるための信長と秀吉の作戦だったのです。
・・・というのも、この上月城は、織田にとって対・毛利の最前線。
もともと出雲を中心に勢力を誇っていた名門の尼子氏。
その配下であった毛利が、尼子氏を倒して中国地方の最強となったわけですから、尼子氏にとっては積年の恨みを晴らしたい相手が毛利であり、毛利から見れば、目の前でチラチラさせるのが不愉快な相手が尼子氏だったのです。
案の定、毛利はすぐに仕掛けてきます。
毛利方の総大将・毛利輝元(元就の孫)は、吉川元春(元就の次男)と小早川隆景(元就の三男)を、上月城に向けて、3万という大軍を進軍させます。
もちろん、例の如く、尼子氏だけでは到底3万の大軍を相手にするのは無理ですから、羽柴軍からも援軍を派遣するのですが、ちょうどこの時、秀吉は播磨・三木城に籠城する別所長治を取り囲みの真っ最中(3月29日参照>>)。
秀吉の全軍を挙げて救援に向かう事は不可能な状況で、この時、上月城に向かった秀吉の軍勢は1万程度だったと言われています。
これでは、とても3万の毛利軍を相手にする事はできないと判断した秀吉は、上月城へ使いを出し、勝久以下尼子一族に一旦城から脱出するようにうながします。
しかし、勝久・鹿之介ら尼子氏にとっては、やっと叶った一国一城・・・そう簡単に明渡すわけにはいきません。
6月に入って秀吉は、信長に上月城への援軍の派遣を願い出ます。
しかし、信長の返事は、正反対の物でした。
信長は、城の周辺にいる羽柴軍の撤退を命ずるのです(5月4日参照>>)。
先ほども書きましたように当時信長は天下統一へ向けての真っ最中・・・敵は毛利だけではありません。
長篠の合戦(5月21日参照>>)で勝ったとは言え、未だ武田は健在で、北陸では一向一揆が抵抗中。
信長にとっては、このあたりで、一度態勢を立て直す・・・という考えであったのでしょうが、この6月26日の羽柴軍の撤退によって、結局、上月城は見捨てられた形となってしまいます。
城の中に残る者は数百人。
やがて、食糧も水もつき、秀吉の援軍も撤退した以上、このまま籠城を続ける事は不可能だと判断した勝久は、毛利に城を明渡す意志がある事を伝えます。
毛利の出した条件は、勝久の自刃でした。
毛利は、その条件さえ呑めば、その他の者にいっさい危害を加えない事を約束しました。
かくして、天正六年(1578年)7月3日、上月城内で、当主・尼子勝久以下数名が切腹をし、5日には、上月城が開城されたのです。
ここに、南北朝から続いた戦国大名・尼子氏は事実上滅亡したのです。
鹿之介は主君の首を持ち、毛利軍へ届けに行った後、そのまま捕虜となります。
そうです、彼は勝久と一緒に自刃しなかったのです。
なぜなら、彼にはまだ生き続けて、この先、やらなければならない事があったのです。
それは、主君との約束を果たす事・・・。
勝久は自刃する直前に、鹿之介を呼び、「いかなる事があっても生き抜いて、御家再興を達成せよ」と言い残し、鹿之介もそれに答えて、たとえ一人になっても復讐をする決意であったと言われています。
しかし、そんな彼の決意は、毛利方にもそれとなく知られる事となります。
毛利の本拠地・安芸に送られる途中の7月17日、備中(岡山県)・甲部川の渡しで、護送を担当していた河村新左衛門に、背後から斬りつけられます。
それでも、鹿之介は、川に飛び込み逃げようとしますが、なんせ傷を負っていますから、うまく泳げるはずもありません。
結局、同じく護送を担当していた福岡彦右衛門に追いつかれ、そこで首を落とされたと言います。
山中鹿之介、34歳・・・
彼にとっては、まだまだ夢の途中・・・
16歳のあの日、三日月に誓った七難八苦の人生は、この先、さらに波乱万丈の夢を見させてくれるに違いありませんでした。
志半ばの無念の死であった事でしょう。
追記:昨年の11月19日のブログで、永禄九年(1556年)に一度尼子氏が滅亡した事を書かせていただいた時に、その先の部分も書いてしまったため、今回の記事と少し・・・いや大きく?内容がかぶってしまった事をお詫びしておきます。
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コメント
今日の記事からこちらの記事に戻って読みました。8月に鳥取の三佛寺から白兎海岸へと車で移動中、立派な小学校の校舎に、なぜか堂々たる(?)三日月がついているのをみて、不思議に思いました。まもなく出た交差点が「鹿野」…そこでようやく、山中鹿之助に所縁の地と気がつきました。ということは、鹿之助のいた尼子氏を滅ぼしたかつての毛利氏はこんなところまで支配した、ということになりますよね。偶然ですが、1週間がかりのこの旅で毛利元就の領地をほぼ横断する格好になり、改めてその広大さに驚いています。それにしても、小学校に三日月の前立て、郷土の誇りを感じました。
投稿: おきよ | 2008年11月28日 (金) 09時48分
おきよさん、こんにちは~
おぉ・・・やっぱり、地元ではかなりの英雄なんですね鹿之介さん。
歴史ファンの中でも、この鹿さんのファンは、「ムチャクチャ好き!」「鹿之介一筋」って感じの人が多いです。
やっぱ魅力的なんですね。
ところで・・・
>改めてその広大さに驚いて・・・
そうなんですよね~
その広大な領地が、あの関ヶ原で山口県だけになってしまうんですから、幕末の長州の行動に、関ヶ原の怨み説が囁かれるのもわかる気がしますね。
投稿: 茶々 | 2008年11月28日 (金) 15時54分