ネバる!足利義昭~ボロは着てても心は将軍
天正元年(1573年)7月18日、室町幕府・第十五代将軍・足利義昭が篭もる宇治・槇島(まきしま)城を、織田信長が攻撃しました。
・・・・・・・・・
永禄十一年(1568年)9月に、不遇の生活を送っていた室町幕府・第十二代将軍・足利義朝(よしはる)の息子・足利義昭を奉じて上洛した織田信長(9月7日参照>>)。
上り調子の信長の支援を得て、翌10月に第十五代室町幕府の将軍となった義昭は、年下の信長を「御父」と呼んで大喜び。
しかし、世の中そんなに甘かありません。
なんせ、信長にとっては、自分こそが天下を狙っている?のですから・・・。
自分が名ばかりの将軍で、結局、実権は信長が握っている事に気づいた義昭は、何とかこの状況を打開しようと、反・信長派の武将や寺院に接触し始めます。
そんな義昭の行動は予想済みの信長さん。
元亀元年(1570年)1月には、「天下の事は俺がやるから、アンタは口を出さずおとなしくしててね」なんて内容の『信長朱印条書』なる掟状を義昭に送りつけ(1月23日参照>>)、ふたりの仲は完全に決裂してしまいます。
それでも、信長が言うようにおとなしくしていれば良かったのかも知れませんが、将軍として天下に号令したい義昭は、以前不遇の時代に身を寄せていた越前(福井県)の朝倉義景に急接近。
それを察知した信長は、4月に朝倉を攻撃(4月23日参照>>)、さらに6月には、朝倉に味方した近江(滋賀県)の浅井長政を加えた連合軍を姉川の合戦で撃破します(6月28日参照>>)。
しかし、そんな中、信長討伐に、あの石山本願寺も加わり(11月24日参照>>)、全国の一向宗門徒も立ち上がり(5月16日参照>>)、反・信長派の包囲網が完成するかに見えました。
「これならいける!」と思った義昭は、先の越前の朝倉や、中国地方の雄・毛利などの援軍を期待しつつ、天正元年(1573年)2月20日、信長に反旗を翻します(2月20日参照>>)。
この時は、一旦和睦するものの、義昭は諦めず・・・3が月後の7月、またまた反・信長の狼煙(のろし)を挙げました。
しかし、実は反・信長派の一番の実力者だった武田信玄が、この4月に死去(4月12日参照>>)していたために頼みの武田氏は動かず、それ以外の武将もすぐには動きませんでした。
逆に、迅速に反応したのは信長です。
(ありゃりゃ・・・反応しちゃいましたか~)
天正元年(1573年)7月18日、義昭の篭もる宇治・槇島城を包囲し、攻撃を仕掛けたのです。
一気に攻め寄せられた義昭(戦闘の様子は2012年7月18日参照>>)・・・結局2歳の息子を人質に出して降伏し、翌19日に京の都から追放されました。
ここで、あの足利尊氏から十五代続いた室町幕府が滅亡・・・と言いたいところですが、いやいや、最後の将軍・義昭さん・・・まだ、粘ります。
そもそも将軍職というのは、天皇から任命されるもの・・・そして、自分で辞任するか、何かの理由で解任されないかぎり、事実上の力の「ある・なし」とは関係なく将軍は将軍なのです。
つまり、一応、室町幕府は、この時点では、まだ存在した事になります。
(あくまで、一応ですが・・・)
京都を追われた旅の途中で一揆の襲撃を受けて、持っていた宝物をすべて奪われ、命からがらのみじめな姿で、河内(大阪)若江城の三好義継のもとに身を寄せた義昭さん(11月16日参照>>)。
さぞや、身も心もボロボロで、泣き暮らしたんじゃ・・・と思いきや、まだまだ、やります!
毛利の勢いを借りて京に復帰し、信長から人質を奪い返そうとしますが、あえなく失敗・・・今度は、紀伊(和歌山)の由良護国寺に身を寄せます。
それでも、毛利の支援を諦めきれない義昭は、毛利へラブコールを送り続けます。
しかし、その頃は未だ、信長VS石山本願寺戦の真っ最中!
たしかに、毛利は石山本願寺を影で支えてはいましたが、あくまて信長と真っ向から対決しているのは本願寺・・・この時点での信長との直接対決を避けたい毛利は、義昭のラブコールとやんわりと断り続けます。
そんな毛利の態度にシビレを切らした義昭さん・・・たまらず、自らが動いて、毛利の領地であった備後(広島県)の鞆(とも)に移り住み、そこからまたまた全国の大名へ向けて『信長討伐令』を出します。
しかし、このタイミングで、信長が最も恐れていた越後(新潟県)上杉謙信が亡くなり、石山本願寺も降伏(8月2日参照>>)という事態になって、『信長討伐令』はどこへやら・・・。
(まったくタイミングの悪い人やなぁ~)
しかも、信長の命を受けた織田軍・中国地方平定班の羽柴(豊臣)秀吉が、西へ西へとやって来ます。
「あかん!もうあかん!信長の天下やぁ~!」
・・・と、思った瞬間、信長は本能寺の変で、家臣の明智光秀に襲われ自刃します(6月2日参照>>)。
「やった~!」と、心の中で、Vサインをした義昭さん。
でも、その信長を倒した光秀は秀吉に倒され(6月13日参照>>)、よくよく考えてみれば、目の上のタンコブが信長から秀吉に代わっただけ・・・。
その後、織田家内でのライバルだった柴田勝家を倒し、やがて毛利もその傘下に治め、もはや事実上、天下は秀吉の物となります。
しかし、悲しいかな秀吉には、力はあっても名誉と地位と身分がありません。
そこで秀吉は、「義昭さんの猶子(契約的な養子)にしてよ~、そしたらボク、次の将軍になれるから~」と、義昭に熱烈なラブコールをしますが・・・義昭さん、ここはきっぱり「NO!」の返事。
(プライド高いなぁ)
やがて、関白になった秀吉のはからいで、義昭はやっと京に戻り、天正十六年(1588年)に、やはり秀吉のお情けで槇島・1万石を頂戴し、ここで、やっと出家して将軍職を引退します。
たとえ、どこで放浪生活をしようとも、この日まで、京都五山への法帖頒布など、慣例的な将軍の仕事は続けていたというから、その根性はまさに将軍!
つまり、厳密に言えば、この時点で室町幕府が滅亡・・・って事になりますかね。
結局、義昭さん本人はこの後、慶長二年(1597年)まで、ご健在あそばし、61歳の時、大坂にて病に倒れ、その生涯を閉じられました。
♪ボロは着てても、心は錦~♪
きっと最後まで、将軍としてのプライドは捨ててなかったんでしょうね。
今日のイラストは、
『足利最後の将軍・義昭さん』
本人は大マジメなので、笑っちゃいけないんだろうけど、落ちぶれても落ちぶれても一行に下がらないプライドの高さ、あまりの粘り強さに、思わず顔がほころびます~。
昨年の大河の三谷さんのイメージと相まって、こんな感じの絵になっちゃいました~
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コメント
はじめまして、30代主婦ですが、あまり歴史は苦手で詳しく拝見はしていないのですが、娘(小6)の宿題で家紋や自分の先祖の事を少し調べていたのですが、家紋をしれべて見ると、八角形の中に上の字なのです、私もお墓にいかないと100%確実ではないのですが、めずらしいタイプらしく、やっとみつかったのでうれしくなってしまい、コメントしております。去年の8月2日ノコメント欄でみつけました。家の主人の実家は九州の福岡で、苗字の頭は藤がつきます。
なにか共通ありますでしょうか。
投稿: とまと | 2007年7月18日 (水) 21時20分
とまと様・・・コメントありがとうございます~。
たしかに、家紋のサイトに行っても、能島の村上氏や、今、大河ドラマで信玄と交戦中の信州の村上氏の「○に上」の家紋はよく見かけるんですが、8角形は見た事がありませんし、人生で出会った事ありませんでした~。
やっぱ、めずらしいんですかね。
苗字に「藤」がつくのは、藤原氏の子孫と聞いた事がありますが、違うんですか?
ウチの場合は、先祖代々の土地に、今も叔父が住んでいるので、ルーツははっきりしていると思います。
ちなみに、周りの8角形は、正8角形ではなく、上下左右の辺が短く、斜めの辺が長い・・・遠くから見ると◇な感じに見える8角形です。
とまとさんの所もそうですか?
投稿: 茶々 | 2007年7月19日 (木) 00時40分
近江の武将をモデルにしたキャラクターが出てるみたいです。
http://ameblo.jp/7kenshi/
投稿: にゃんにゃん | 2007年8月 3日 (金) 11時34分
にゃんにゃん様・・・
コメントありがとうございます~。
なるほど・・・モデルの近江の武将とは、蒲生氏郷さんでしたか・・・
投稿: 茶々 | 2007年8月 3日 (金) 16時05分
数年前まで足利義昭京都追放=将軍更迭=室町幕府崩壊と思っていました。真ん中はなかったんですね。朝廷が織田信長を将軍に任命しない限り、足利将軍家は存続ですね。そして豊臣秀吉の将軍就任の望みをシャットアウトした。
晩年は秀吉と良好だったみたいです。
「天正元年」はいろいろな意味でターニングポイントですね。
投稿: えびすこ | 2010年5月22日 (土) 22時01分
えびすこさん、こんばんは~
教科書では、今でも「足利義昭の京都追放=室町幕府・滅亡」ってなってますね~。
個人的には、ちょっと気に入らないんですけどね。
本文にも書いた通り、将軍は天皇が任命するものなのですから、他の戦国大名のように、力のあるなしでは決まらないような気がするので・・・
投稿: 茶々 | 2010年5月23日 (日) 01時08分
来年の大河ドラマでは和泉元彌さんが演じるみたいです。家康から見ると(歴代将軍では)前任将軍で「もう1人の将軍」ですが、序盤に登場するとの事。和泉さんは実に10年ぶりの大河ドラマ出演ですね。主演経験者はどうしてもブランクが長くなるのかな?
投稿: えびすこ | 2010年9月20日 (月) 09時27分
えびすこさん、こんにちは~
私にとっての義昭さんは、三谷さんのイメージが強いですが、なるほど、和泉元彌さんも合ってるかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2010年9月21日 (火) 17時26分