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2007年8月 7日 (火)

万葉集1番の雄略天皇のお話

 

雄略天皇二十三年(479年)8月7日は、第21代雄略天皇が崩御された日・・・という事で、今日は雄略天皇のお話を・・・

・・・・・・・・・・・・

タイトルにありますように、あの『万葉集』一番最初に収められているのが、今日のお話の雄略天皇の歌。

万葉集はだいたい年代順に並んでいると言いますが、450年代に詠まれたという雄略天皇の歌から、次の舒明天皇の630年代に詠まれた歌まで、200年近くも開きがあるのはなんでだろう?という疑問が湧きつつも、とりあえずその歌をご紹介しておきますと・・・

♪籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ
 み堀串持ち この岡に
 菜摘ます児
(こ) 家聞かな 名告(の)らさね
 そらみつ 大和の国は おしなべて吾こそ居れ
 しきなべて吾こそ居べ 吾こそは告らめ 家も名をも♪

「そこの、草を摘んでるキミ・・・名前を教えてよ!
この国は、ボクが治めてる。ボクはこの国の王なんだ!
ほら、ボクが自己紹介したんだから、今度はキミがどこの誰か名乗る番だぞ!」

Yuuryaku600acc ・・・って、ナンパかい!
あの由緒ただしき古典の中の古典『万葉集』の第一番目の歌がナンパする歌とは・・・

しかも、この声のかけ方・・・
口が裂けても「NO!」とは言えない雰囲気です。

この時代、女性が家族以外の人に自分の名前を教える事はご法度で、もし、男が名乗って来て、女が名前を告げたら、それは「家族になる=結婚OK!」っていう意思表示になりますが・・・やっぱ、逃れられないでしょうね~

この大胆な王は、天皇に即位した時も、この上なく大胆です。

兄である先代の安康天皇眉輪王(まよわのおおきみ)刺殺されたと聞くや、即座に行動を開始!

そして、兄の八釣白彦皇子(やつのしろひこのみこ)坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)その事件に関与していると見るや、八釣白彦皇子を斬り殺し、坂合黒彦皇子と眉輪王を焼き殺します。

しかし、安康天皇が、生前、彼らの従兄弟である市辺押磐皇子(いちばのおしはのみこ)を後継者にしたい」と言っていた事を知っていた彼・・・「このままでは、次期天皇の座は回って来ない」と、市辺押磐皇子を大胆にも狩りに誘い出し、持っていた矢で射殺・・・だまし討ちします。

そうやって、すべての邪魔者を消し去って、見事、第21代天皇の座を勝ち取った雄略天皇・・・彼が生まれた時は、宮殿中に光が満ち溢れたという逸話は、そんな事しなくても皇位につけたって事じゃぁないのかい?

そんな、大胆を通り越した彼の暴挙はまだあります。

彼が、目をつけた百済の姫・池津媛(いけつひめ)を、宮中に迎え入れようという時、臣下の石川楯(いしかわのたて)と彼女が、すでにデキちゃってると知った途端、二人を焼き殺すという行動に・・・。

また、狩りに出た時、従者が自分の質問に答えなかった事に腹を立て、その者を斬り殺したと言います。

そんなこんなで、『大悪天皇』なるニックネームを持つ彼・・・。
そんな人にさっきの歌なんぞ歌われたひにゃ、身も凍る思いです~。

しかし、彼はもう一つ『有徳天皇』なるニックネームも持っているのです。

各地に分散した養蚕業を、桑の生育に適した地を調べ、その一箇所に集める事によって、絹の生産効率を高め、経済の発展に尽くしたのです。

その時、天皇の「蚕(こ)を集めよ」という命令を聞いた臣下の者が、最初、間違って子供をたくさん集めてきた様子を見て、天皇は「ちゃうちゃう!」と笑ったと言いますが、先ほどの暴挙からは別人のような光景です。

埼玉県・稲荷山古墳から出土した鉄剣には、『獲加多支鹵(わかたける)大王』の銘があり、当時、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)と呼ばれていた雄略天皇の事であとされ、畿内だけではなく、日本の国土を統一した最強の王との評価も得ています。

また、中国の『宋書(そうじょ)・倭国伝』に登場する、昇明二年に、宋の皇帝・順帝から、倭・新羅・任那(みまな)加羅(から)秦韓(しんかん)慕韓(ぼかん)の六国の軍事を引き受ける『安東大将軍倭王』に任命される倭国「武」という王が雄略天皇であるとも言われています。

こんな二面性を持つ彼は、ひょっとしたら何人かの人物の複合体なのかも知れませんが、何らかの形で実在していた事は確かでしょう。

彼は、死の2年前、丹波の国に祀られていた豊受大神(とようけのおおかみ)を、伊勢の地に遷し、天照大神(あまてらすおおみかみ)の食物の神として祀る・・・という事を行っていますが、これが、伊勢神宮の外宮の起源です。

雄略天皇二十三年(479年)7月、病に倒れた彼は皇太子に後をまかせます。

そして、翌月の8月7日見守る臣下者たちに別れの言葉を言い、その手を握りながら崩御されたと言います。

ただ、やはり大いなる王が心配した通り、その皇太子の即位は、すんなりとはいかなかったのですが・・・そのお話は、2010年8月8日【天皇の後継者を偶然発見!顕宗天皇と仁賢天皇】でどうぞ>>
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