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2007年8月31日 (金)

幻の伏見城~徳川幕府は何を恐れたのか?

 

戦国時代・・・。
教科書には、このような分類の時代はありません。

どこからどこまでが戦国時代なのか?
その分け方も明確な定義はないように思います。

特に、戦国の終わりに関しては、織田信長が第十五代・室町幕府将軍となる足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)(9月7日参照>>)とも考えられますし、同じく義昭が将軍職を辞した天正十六年(1588年)(7月18日参照>>)とも言えますが、私としては、大坂夏の陣で終わりではないか?と、とりあえずは、このブログのカテゴリーでは、今のところ、勝手にそのように分類させていただいてますが・・・

俗に、戦国時代を『安土桃山時代』と呼んだりもしますが、安土というのは、ご存知安土城を指していて、つまり織田信長が事実上天下を握っていた時代

そして桃山時代は、事実上豊臣秀吉が天下を握っていた時代という事になります。

前置きが長くなりましたが、今日は、その桃山時代の象徴でもある『伏見城』のお話です。

‥…━━━☆

この時代は、桃山文化と呼ばれる、煌びやかで極彩色の華やかな文化が花開いた、まさに、秀吉全盛の時代です。

Dscn3724a1000 ちなみに、現在、京阪電車近鉄電車の車窓から見えるあのお城は、遊園地のシンボルとして建てられた物で、歴史的史跡ではありませんので、その名称も『伏見桃山城』→となっています。

遊園地が終わって、その跡地が運動公園となり、その伏見桃山城も維持管理が困難な状態となり、取り壊しの案も浮上していましたが、区民の「伏見のシンボルを壊さないで!」という希望から、先送りされていたところ、何やら、淀殿を主役にした映画のロケ地に決まったらしく、映画会社が前面バックアップして、城の修復作業が行われたようで、幼少のおり、遊園地で楽しく遊ばせていただいた私としては、現役の頃の美しいお城に生まれ変わるのはウレシイです。

少し話がそれてしまいましたが・・・

そんな秀吉の伏見城の建設は、聚楽第(2月23日参照>>)の取り壊しから始まります。

その資材を使って、伏見の地に新しい城を建設し始めますが、当時は朝鮮出兵(4月13日参照>>)の真っ只中で、残った大名たち総出で城の建築にあたりました。

それが、指月城と呼ばれるお城ですが、完成の頃には、ちょうど第1次の文禄の役が終結し、朝鮮からの外交使節を迎えるとあって、絢爛豪華な大城郭に仕上がりました。

しかし、完成間もなく、大地震によって指月城は崩壊してしまいます。

時期的に、朝鮮出兵への報いだとか、関白秀次の怨念(7月15日参照>>)だとか囁かれたりなんかもしますが、気をとしなおして、慶長二年(1597年)5月4日指月城から少し離れた地盤の強固な場所に、再び大城郭を建設します。

それが、伏見城です。

現在の桃山御陵(明治天皇陵)のあたりを中心に半径500mに及ぶ壮大な敷地に、五層の天守閣を備え、名護屋丸、二の丸、松の丸、御花畑山荘、舟入御殿など粋をこらした名城・・・先の指月山の伏見城と区別するため、木幡山伏見城とも呼ばれます

天守閣には、千畳の大広間があり、楊貴妃の間、学問所なども備えた、まさに、天下人にふさわしい壮麗なお城。

しかも、晴れた日には、遠く大坂城からも通信ができるという、計算されつくした設計となっていたほか、舟入りには宇治川から濠でつながれ、直接舟でも出入りできるという工夫もされていました。

城を取り巻いて、200余りの大名屋敷が建ち並び、建築資材を提供してまで、堺や大阪から大商人を誘致し、郷里・中村からも多くの移住者を呼び寄せました。

河川と道路網を整備した一大城下町は、当時、世界最大の都市としてヨーロッパに紹介されたほどでした。

しかし、完成してほどなく、秀吉は病に倒れ、帰らぬ人となってしまいます(8月18日参照>>)

その後には、息子・秀頼が入城しますが、翌年には徳川家康が入城し、この城に居座る事となります。

そう、天下を狙う家康から見れば、目の上のタンコブだった秀吉が建てた城であるにも関わらず、「それでも、この城が欲しい!」と家康に思わせるほど、天下人にふさわしい素晴らしいお城だったのです。

やがて、関ヶ原の合戦の時に、この城は、最初の抗戦の舞台となり、一部焼失してしまいますが(7月19日参照>>)、合戦に勝利して事実上の天下人となった家康は、すぐに伏見城を修復して、この城で政務を行い、側室の中でも一番のお気に入りだった亀の方を御花畑山荘に住まわせ、晩年のほとんどをこの城で過ごします。

家康自身もそして、あの三代将軍・家光も、この伏見城で将軍宣下を受けています。

しかし、そんなに徳川家も大好きだったはずのこの城が、なぜか、家康の死後、数年も経たないうちに、跡形もなく取り壊されてしまうのです。

本丸御殿は二条城に移され、櫓は江戸城へ、石垣は川を下って大阪城の修復に・・・。
門などは、大徳寺や西本願寺といった寺院などに・・・。

Nisihanganzikaramonfusimizyoucc 京都を巡っていると、本当にたくさんの「伏見城の遺構」という物にお目にかかります。

有名な、西本願寺の唐門。
(←唐門の画像をクリックしていただくと、HPの西本願寺の紹介のページが開きます。唐門のアップも掲載してます)

Gokounomiyagenkuuzifusimizyoucc_2 伏見の御香宮(ごこうのみや)神社の表門は、かつての伏見城の大手門。
拝殿は、かつての車寄です。

同じく、伏見にある源空寺・山門も伏見城の遺構です。
(写真をクリックしていただくと、HPの伏見の紹介ページが開きます。地図もありますので、場所の確認の参考にしてください→)

 

絢爛豪華な桃山文化の遺構が、一部でも無事残った事にホッとしますが、それにしても、この壊し方はいったい何なんでしょう?

合戦で焼け落ちたわけではありません。
誰もいなくなって廃城になったわけでもありません。

現役で機能していたりっぱな城が、石垣どころか、礎石すら残らないほどの状態になるまで徹底的に壊される・・・というのは、他に例が無いのではないでしょうか?

徳川家にいったい何があったのか?

史料となるべき物がない以上、本当の理由は藪の中ですが・・・
「伏見城には淀殿の怨念がこもっている」
「豊臣の城に徳川が入って、どうなるものやら・・・」

なんていう、町の噂も、ひょっとしたら、単なる噂では片付けられないような事件が起こっていたのかも知れません。

跡地には、明治天皇の御陵ができた事もあり、ほとんど発掘調査らしい調査は行われていない伏見城ですが、近くの毛利輝元の大名屋敷跡と見られる場所から、大量の金箔瓦発見されています。

あの秀吉さんの事ですから、天守閣に金箔が貼られていたのは、大体想像がつきますが、大名屋敷にまで金箔とは・・・それも、地下わずか1mの所に埋まっていたという事なので、オドロキですね。

徳川時代に徹底的に破壊された広大な跡地には、見渡す限りの桃の木が植えられ、花の季節になると、あたり一面、淡い桃色の花で埋め尽くされたとか・・・それが、このあたりの桃山という地名の由来です。

秀吉の天下であった事を意味する桃山時代という名称・・・
豊臣の繁栄を映し出す豪華絢爛な桃山文化という名称・・・

皮肉にも、その名称が、豊臣天下の象徴であった伏見城が壊された跡の桃の花に由来するとは・・・何とも言えない空しさを感じさせられます。

なんせ、秀吉の全盛時代は、ここは『桃山』ではなかったわけですから・・・。

ちなみに、秀吉亡き後の伏見城下には豊臣恩顧の西国大名たちが詰め、一方の大坂城下には東国の大名が詰めていたのですが・・・そのお話は2013年3月7日の【秀吉亡き後の大坂城と伏見城の役割】でどうぞ>>
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2007年8月30日 (木)

徳川家だけ、なぜ葵?葵祭と家紋のお話

 

今日は家紋のお話です。

家紋はそれぞれのお家にあるもので、そのご家庭では、そのわが家の家紋が一番有名でしょうが、全国的にみんなが知ってる有名な家紋と言えばやっぱ、黄門様のアレですね~。

「頭が高い~控えおろ~」と、取り出す、あの印籠に、燦然と輝く『三つ葉葵』!

この『三つ葉葵』の紋は、徳川家が独占使用権を持ってるので、皆、家紋を見ただけで「はは~」となるわけですが、この葵の花自体は、特別、目を惹くような目立つ植物ではありませんよね。
しかも家紋は葉っぱだし・・・。

これは、徳川家に限らず、家紋に使用される植物というのは、見栄えの良さよりも、その効能や生育の強さ、縁起の良さなどによって選ばれてきたからなのです。

・‥…━━━☆

たとえば、藤原氏の家紋の藤の花なども、「他の木に巻きつき、その木を枯らしてしまうくらい強い」という、その強さで選ばれたのだそうです。

天皇家の御紋のも、もともと薬草として使われていて、その効能から魔よけとして飾られていたという経緯があります。

葵は、古代から、菖蒲(こも)などとともに、宮廷などで行われる神事の時に飾られる霊草だそうで、京都・三大祭りの一つ『葵祭』で、行列に参加する人が身につけたり、牛車などに葵が飾られている事は有名です。

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葵祭・路頭の儀

この葵祭は、今から1400年ほど昔の欽明天皇の6世紀中頃、凶作が続いた時に、五穀豊穣を願って始められたお祭りで、あの『枕草子』『源氏物語』にも登場すつ由緒正しきお祭りですが、当時は『賀茂祭』という名前で、呼ばれていたのです。

ご存知のように、上賀茂神社と下鴨神社のお祭りですからね。

現在では、5月1日から5日までの5日間は、流鏑馬(やぶさめ)神事競馬神事などの神事が上賀茂・下鴨の両神社の境内で毎日行われ、その後、5月12日には下鴨神社境内で御陰祭・・・そして、最終日の5月15日には、総勢500名が平安王朝装束に身を包んで京都御所から下鴨神社を経由して上賀茂神社まで行列する「路頭(ろとう)の儀」という、最も有名な儀式が行われて、15日間のお祭りの幕を閉じます。
神事の日程王朝行列のルートなどは、本家HP「京都の年中行事」のページ>>で紹介しています)

ところが、そんな由緒正しきお祭りも、室町の頃になると、公家に代わって武士が力を持つようになり、その頃にはお公家さんちの経済状態は火の車で、亡くなった人の葬式代にも事欠く始末。

とてもじゃないが祭りまで手が廻らない・・・そんな中、応仁の乱が勃発して、世は戦国へと突入してしまい、一旦、祭りは休止状態に陥ります。

その窮地を救ったのが、戦国の最後に天下を取った徳川家・・・200年間の空白を撃ち破って、元禄七年(1694年)に突如として祭りが再開されるのです。

これを機会に、以前は、霊的とされるいくつかの植物を使用していたのを、すべて葵の葉で飾るようにして、名前も『葵祭』と呼ばれるようになりました。

そうです。
スポンサーがついたのです。

今ハヤリのネーミング・ライズ・・・
さしずめ、大阪ドームが京セラドームに変わった・・・ってところですね。

すでに、この頃には、徳川家は葵の紋の独占使用権を握っていますから、「こんな格式のある神事に使用される植物が、わが家の家紋なんだぞ」ってな感じで、ハクがつくわけです。

ところで、さっきから「独占使用権」「独占使用権」と強調してますが、当然の事ながら、最初はこの葵の家紋・・・徳川家だけの物ではありませんでした

三つ葉葵ではないにしろ、葵の葉っぱを家紋にしているお家はたくさんあって、徳川(当時は松平)もそのうちの一つだったのです。

もともと、賀茂神社の氏子であった『三河三豪族』と呼ばれる松平・本多・伊奈などが、すでに賀茂神社の神紋である葵を家紋として使用していました。

徳川家康は、その松平の支族です。

しかし、家康が将軍となった時に、その葵の家紋を権威の象徴・シンボルとするために、いきなり一般の使用を禁止し、一門だけの独占使用権を主張して、他の家は、すべて別のデザインに変えさせられたのです。

享保八年(1723年)2月25日には、葵の紋をデザインした品物の販売を禁止する法令も出しています。

まぁ、将軍の主張ですから、他の人は聞くしかないですわな。

Kamonaoicc ・・・で、結果、葵の紋は、将軍家、御三家、御三卿だけの物となって、印籠を見せるだけで「はは~」となるわけです。

丹波西田氏の家紋というのが残っていますが、これは明らかに、徳川が独占する前の葵の紋・・・みんなこんな感じで使ってたんでしょうね。

面白いのは、同じ徳川家の三つ葉葵でも、時代によってちょっとずつデザインが変わってきてるところですよね~。

これって、やっぱ手書きだからですかね。
当時は、コピペできひんからなぁ~。

まさか、書く人によって変わるって事はないでしょうが、水戸家の葉っぱには茎が無いんですね~テレビではどうなってるのかな?
今度、じっくり見てみないといけませんね~

どころで、家康さん・・・たしか、新田氏の末裔だって言い張ってませんでしたっけ?

新田氏の家紋は、「大中黒」・・・別名・新田の一つ引きなんですが、子孫でも家紋は違うんですね。
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2007年8月29日 (水)

家康の妻・築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!

 

天正七年(1579年)8月29日、徳川家康が、織田信長の命令により、妻・築山殿を殺害しました。

・・・・・・・・・

ご存知のように、徳川家康は、幼い頃、今川家に人質として出され、駿府で育ちます。

家康の父・松平広忠が、しょっちゅう攻め込んで来る隣国の織田氏に対抗するため、当時、海道一の弓取りと呼ばれていた今川義元の力を借りようと、わが子を人質として差し出したのです(8月2日参照>>)

やがて義元のもとで元服を済ませた後、弘治三年(1557年)家康16歳の時に、今川家の重臣で義元の妹(養妹=1月12日参照>>)を妻に持つ関口義広(親永)の娘・瀬名姫と結婚します。

今川の本意で決められた結婚でしたが、名目上とは言え、義元の妹の娘とは、人質の身にしては、ありあまる良縁ですし、瀬名姫も家康と同い年で、なかなか良い夫婦関係だったようです。

翌・永禄元年(1558年)には、寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の戦い初陣を飾り(2月5日参照>>)、さらに、その翌年には二人の間に長男・竹千代(後の信康)も誕生しますが、そんな時に起こったのが例の永禄三年(1560年)桶狭間の戦い(5月19日参照>>)です。

合戦では今川の一員として大高城で戦っていた家康(当時は松平元康)でしたが、織田信長の奇襲作戦の成功で今川義元が討たれ、奇しくも人質の身から開放される事になった家康は、そのまま駿府には戻らず岡崎城へと入ります(5月19日参照>>)

当然、奥さんの瀬名姫と長男の竹千代は駿府に残したまま・・・。

家族が再開するのは、その2年後の事・・・。

上ノ郷城の戦いで生け捕りにした今川方の鵜殿長照(うどのながてる)の息子(2月4日参照>>)・・・彼を駿府へ帰す代わりに、妻子をこっちへ・・・つまり人質交換です。

この時、家康の側近中の側近・石川数正(かずまさ)が、命がけで単身駿府に乗り込み、見事人質交換をやってのけ、妻子を無事取り戻したのです(11月13日参照>>)

やっと、家族一緒に・・・と思いきや、瀬名姫は「今川家の人=敵」と見なされ岡崎城には入れてもらえなかったのです。

事実、この翌年には長男・竹千代と、織田信長の娘・徳姫との婚約が成されていますから、この頃すでに家康は今川を離れ、織田との同盟関係にあったわけです。

Tukiyamadono600a ・・・で、瀬名姫は城外の築山の近くにある館に住む事になり、これ以降、彼女は「築山殿」と呼ばれる事になるのです。

やがて5年後に、竹千代と徳姫は正式に結婚(5月27日参照>>)しますが、その間に竹千代は両家の父の名前を一文字ずつもらい、信康と名乗ります。

元亀元年(1570年)には、家康は岡崎城を信康にまかせ、自身は浜松城へと移ります。

そして、今回の「築山殿殺害事件」は、その9年後、天正七年(1579年)に起こります。

事の発端は、その年の7月16日・・・徳川家の重臣の中の重臣・酒井忠次が、主君・家康の名代として、信長に馬を献上するため安土城を訪れた時、娘・徳姫の書状を、直接、信長の手渡した事に始まります。

その書状には、「築山殿がいかに悪い女であるか、信康がいかにアホな男であるか、そして何より、この二人が武田と密通し、織田家を攻め滅ぼそうとしている」という内容の事が書かれてあったというのです。

徳姫の『十二か条の弾劾文(だんがいぶん)なる書状を読んだ信長が、忠次に「ここに書かれている事は本当か?」と聞きただすと、「はい」との返答。
「ならば、信康を殺せ。家康にそう伝えよ」と言ったのです。

信長の命令を受けた家康は、逆らう事ができず、妻・築山殿を殺害し、その後、息子・信康を切腹させるのです。

・・・と、以上が事件のあらましですが、この話の出典はすべて『徳川幕府の公式史料』

ほとんどが、何十年も経ってから書かれた、いわゆる「徳川家の成り立ち物語」「家康の伝記」みたいな物で、中には、いかに築山殿が悪女でひどい女であるか、殺されても当然といった書き方の物まであると言います。

あやしい・・・とにかく、うさんくさい・・・。
これらの書物のおかげで、小説やドラマで描かれる築山殿は、ホント、嫌な女に描かれてしまっています。

作家さんの中には、「家康を主人公として描く以上、彼に殺された妻を悪女にしないと、殺した家康が悪人になってしまう」的な発言をされている方もおられるようで、やっぱり、誰が見てもこの一件はあやしいのです。

まず、その発端となった徳姫の「十二か条」ですが・・・

  • 築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする
  • 築山殿は、女の子しか生んでない私の事を「役立たず」と言って殴る
  • 築山殿は、岡崎城内の豪華な邸宅で贅沢三昧やってる
  • 築山殿は、甲州の唐人医師・減敬(げんきょう)と浮気してる
  • 築山殿は、武田勝頼に織田と徳川の両家を滅ぼして欲しいと言った
  • 築山殿は、両家が滅んだ後は、私を武田の家臣の妻にして~と頼んだ
  • 武田から、小山田という家臣が妻とする証文が送られてきた
  • 近頃、岡崎城下で踊りが流行ってるのは信康が悪いからだ
  • 信康は、踊りが好きなので踊りの下手な者を弓矢で射殺する
  • 信康は、鷹狩で獲物がなかったため不機嫌になり、通りがかった僧侶をなぶり殺した
  • 信康は、私の侍女を「おしゃべり女」と言って口を裂いて殺した

なんじゃ、こりゃ~。

こんなもん見て、あの信長さんが「ならば、殺せ」ってなるか?

第一、さっき書いたように、築山殿は岡崎城内に入れてもらえないから築山殿と呼ばれてるんじゃ?
「岡崎城内の豪華邸宅で贅沢三昧」なんてできたのかしら?

たしかに、信長さんは、思ったらすぐに行動する人です。
感情的な部分もある人です。
しかし、とても頭の良い人でした。

こんなアホみたいな手紙と、たった一人の家臣の証言を鵜呑みにして行動を起こす人ではないでしょう。

徳姫も、本当にこんな手紙を書いたかどうか・・・それこそ、もし虚言なら彼女に対しても失礼な話です。

この書状の内容があまりにヒドイため、一説には「家康の息子・信康が生まれながらの逸材で、かなりのデキた人物・・・それに比べて信長の息子たちが凡人なので、将来、織田と徳川の勢力が逆転する事を恐れたため、今のうちに始末しようと命令した」という説まであります。

これは、先ほど出てきた『徳川幕府の公式史料』の一つで、あの大久保彦左衛門が書いた『三河物語』に、このような記述があり、その中では、築山殿も信康も悪くなく、悪いのは信長だとされています。

しかし、一般的な歴史を見てみると、信長さんは明らかに家康の事を「同盟関係」と見ており、「家臣のような扱い」をしたようには思えませんよね。

本当に妻と息子を殺せというような命令を出したのでしょうか?

また、それならそれで、命令が下ったから、いきなり殺害・・・というのも変です。

家康は、この一件に関して、築山殿や信康に「事実を問いただす」という事を、ほとんどしないままに死に至らしめています。

これは、どう考えても、家康自身が、築山殿と信康を排除したかったとしか思えません。

その理由については、以前【徳川家康は四人いた?説】(11月27日参照>>)でも触れたように、「途中で別人にすり替わっている」というのがありますが、これはやはり仮説の域を出ないものでもありますから、今日のところは素通りしますが、何らかの理由があったにせよ、妻子を殺害した事は、家康にとっての生涯の汚点となるわけです。

しかも、明快な理由が書けない以上、『徳川幕府公式記録』では、築山殿が悪女のせい、信康がアホなせい、徳姫の手紙のせい、いやいや信長の無理難題のせい・・・てな、不可解な理由をでっちあげなくてはならなくなったのでしょう。

なんせ、家康さんは神様ですから・・・

・・・で、最も肝心の公式記録に書けないその理由とは・・・

もちろん、公式記録がないわけですから、その理由というのも、推理の域を出ない物なのですが、おそらく徳川家内のお家騒動・・・つまり、信康の成長を怖がっていたのは、信長さんではなく家康さんなのではないか?という事です。

もちろん、「親としては、自分の息子に後を継いでもらう」というのは、うれしい事です。

現に家康さんも、最後には二代将軍・秀忠に将軍職を譲るわけですから・・・。

しかし、それはあくまで、思い通りの世代交代・・・戦国時代の場合、親子関係であっても、時として、思い通りの世代交代にならない場合があります。

斉藤道三・義龍父子しかり・・・武田信虎・信玄父子しかり・・・。

・・・で、その、お家騒動のお話にいきたいのですが、ここから先は築山殿・・・というよりは信康さんの事になりますので、そのお話は、信康さんが切腹した9月15日のページ>>でご覧いただくとして、記事も長くなりましたし、なにぶん今日は築山殿のご命日なので、築山殿の最期の場面を・・・。

・・・・・・・・・・・

運命のその日・・・天正七年(1579年)8月29日

家康の命令で、岡崎城から遠州(静岡県西部)堀江城に移された息子・信康から築山殿のもとに「母に会いたい」という使いの者がやってきます。

息子から「会いたい」なんて言われて、うれしくない母親はいません。

たとえ、息子が、もう、りっぱな大人になっていても、母親から見れば、いつまでも息子なのですから・・・。

まして、夫が寄り付きもしない隔離されたような町外れで、幽閉にも近い暮らしをしていたなら、なをさらの事・・・。

築山殿は、久しぶりに、少女のように心躍らせて輿に乗ります。
「お出かけをするなんて、もう何年ぶりかしら・・・」

使者としてやって来た野中重政に連れられ、浜名湖を渡り、小藪という村に差し掛かった時、浜松城からやって来たという石川義房岡本時仲の二人に迎えられます。

「浜松城から?何の用かしら?」と、輿から降りた築山殿・・・その背後から斬りつけたのは、彼女をサポートするはずの野中重政でした。

遺体は、その場の藪に埋められ、その首は浜松城へ送られました。

そう、浜松城からやって来た二人は、彼女の首を受け取りに来た二人だったのです。

後日、築山殿の死を聞いた侍女が一人・・・入水自殺をはかっています。

その侍女は家康の家臣・伊奈忠基(ただもと)の娘だったと言いますが、「家康の命令で殺害された築山殿を追って殉死をする」という行為は、残された家族にどんな影響があるかは想像できるはず・・・それでも、気持ちを抑えられなかった侍女。

そして、もう一人・・・築山殿を斬った野中重政も、結局この後、城を出て故郷に帰り、引きこもってしまいます。

主君の命令で決行したとは言え、その背負った重荷に、心が耐えきれなかったのかも知れません。

野中重政にしても、その侍女にしても、らの行動が、「いかに築山殿が悪女でなかったか」を物語っているのではないかと思うのです。

決して家康さんを悪者に仕立てあげようとは思ってはいませんが、久しぶりに息子に会えると喜び勇んで出かけた彼女の心中を思うと、胸にこみ上げてくる思いがありますね。
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2007年8月28日 (火)

末森城攻防戦~夫婦愛と奇襲の連携プレーで守りぬけ!

 

天正十二年(1584年)8月28日、徳川方に属した佐々成政が、羽柴(豊臣)方に属す前田利家朝日山砦を攻撃し、北陸版・小牧長久手の戦いが勃発しました。

・・・・・・・・・・・

そもそもは、本能寺の変(6月2日参照>>)によって織田信長と、その後継者であった長男・信忠が亡くなった事によって、当然のごとく持ち上がる後継者争いから始まります。

信長の死からわずか2週間後に行われた清洲会議(6月27日参照>>)では、信長の次男・信雄と三男・信孝を押さえて、わずか3歳の信忠の遺児・三法師(後の秀信)後継者に決定します。

もちろん、これは三法師の後見人的立場に立っていた羽柴(豊臣)秀吉作戦勝ちといった感じ・・・誰よりも早く京へ舞い戻り、主君の仇である明智光秀山崎の合戦(6月13日参照>>)で倒した事で、織田家・家臣の中でかなり優位な立場に立った秀吉が、丹羽長秀(にわながひで)池田恒興(いけだつねおき)を丸め込んで多数決で決定したのです。

納得いかないのは三男の神戸信孝(かんべのぶたか)・・・3歳の幼児に織田家・当主が務まるワケもなく、秀吉が実権を握ろうとしているのがミエミエです。

また、信孝を支持する柴田勝家も、織田家の家臣内では秀吉よりも上の立場にあった事もあって、不服な思いを押さえる事ができません。

そして、勃発した賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)で、勝家は秀吉に敗れ自刃

取り残された信孝を、秀吉と結んだ信長の次男・信雄(のぶお・のぶかつ)が追い込み、やがて信孝も自刃させられてしまいます(5月2日参照>>)

しかし、はなから信雄を支持する気など毛頭ない秀吉・・・その事を感じ取った信雄は、次に、もう一人の実力者・徳川家康を頼るようになります。

家康も、このまま指をくわえて秀吉の天下取りを見過ごすのは胸くそ悪い・・・信雄を旗印に立てれば、秀吉への攻撃の大義名分になります。

そうやって勃発したのが、小牧・長久手の戦い
 
(3月12日:亀山城攻防戦>>)
 (3月13日:犬山城攻略戦>>)

 (3月17日:羽黒の戦い>>)
 (3月28日:小牧の陣>>)
 (4月9日:長久手の戦い>>)と呼ばれる一連の合戦・・・
事実上、秀吉VS家康の戦いです。

戦いに地名がついている事でもわかるように、おおむね東海地方で繰り広げられた戦いですが、彼らそれぞれの支持者は、ここ北陸にもいました。

Maedatosiie 賤ヶ岳の合戦で勝家の追い込みに強力した事から、秀吉方に属した加賀前田利家

一方の家康方に属していたのは、富山城主・佐々成政(さっさなりまさ)

成政は、家康派・秀吉派・・・というよりは、地元・北陸でライバルだった利家が秀吉方についている、そして、すでにこの春から勃発していた一連の小牧・長久手の戦いで、家康側が有利であった事などから、家康方に属していたのでしょう。

とにもかくにも成政は、家康や信雄らの戦いに触発されるかのように、天正十二年(1584年)8月28日利家の朝日山砦を攻撃したのです。

こうして、合戦は勃発しましたが、当日は豪雨のため、一旦攻撃を中止し、今度は利家の持ち城である末森城にターゲットを変更します。

能登の南部に位置する森末城は、加賀(石川県)越中(富山県)との国境ににも近く、利家にとっては重要な城です。

9月9日、成政は城への猛攻撃を開始します。

寄せる成政軍は総勢5千余り・・・一方、末森城を守るのは、利家の重臣で末森城主・奥村永福(ながとみ)1500ほどです。

怒涛のごとく押し寄せる成政軍に、わずかの兵で踏ん張る永福らでしたが、やはり、数では到底かないません。

二の丸三の丸と次々と落とされていく中、やがて城兵も3百程になってしまいます。

しかし、それでも永福の配下の兵たちの士気は衰えません・・・永福以下、全員が死を覚悟しての応戦です。

・・・というのも、この時、永福の奥様が自ら生き残った兵、一人一人に、少なくなった城内の兵糧からかき集めて作った握り飯を手渡しながら「頑張ってね」声をかけて回ったという、献身的な協力の逸話が語り継がれているのです。

記録にはありませんが、きっと美人で気品のある奥方だったんじゃないでしょうか?

そんな人に、手をとりながら声をかけられたら・・・「ボク、がんばっちゃう!」ってなっちゃいますよね~。

そんなこんなで、何とか本丸だけを守りながら耐えていたところに、末森城攻撃の知らせを聞いた前田利家の援軍が到着します。

しかし、実はこの援軍もすんなりと出されたものではありませんでした。

急遽集められた兵はわずか3千足らず・・・これでは勝てないと、軍儀では一旦援軍を出さない方向に、話は進みましたが、利家自身が援軍の派遣を強く主張し、自らが豪雨の中の夜の行軍を決行してやって来た援軍でした。

利家が末森城に到着した時には、すでに本丸だけの孤立状態・・・周囲は成政軍に囲まれています。

豪雨に紛れた利家は、からめ手から成政軍の背後に回り、成政軍を逆包囲する事に成功します。

そして、9月11日の未明・・・まだ暗闇に閉ざされた中、利家率いる援軍は、一気に背後から奇襲攻撃を仕掛けます。

この時、利家自らが先頭に立ち、降りそそぐ矢をかいくぐって戦ったと言います。

こうなったら、本丸に追いつめられていた永福隊も、援軍の奇襲攻撃に合わすかのように、本丸から撃って出ます。

この連携プレイが見事成功!

成政隊は総崩れとなって、散り散りに敗走していきましたが、もちろん、戦上手の成政が、このままでは引き下がりませんが、そのお話は10月14日の【前田利家VS佐々成政~鳥越城の攻防】>>でご覧いただくとして・・・

とにもかくにも、奥村夫婦の協力で守り抜いた本丸と、一か八かの奇襲をかけた利家・・・この末森城攻防戦は、戦国の数ある戦いの中でも、歴史ファンをひきつける屈指の合戦です。

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
翌年6月24日:阿尾城の戦い>>
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2007年8月27日 (月)

小谷城・落城~浅井氏の滅亡

 

天正元年(1573年)8月27日、織田信長の軍勢が北近江を支配する浅井長政の本拠地・小谷城への攻撃を開始しました。

・・・・・・・

元亀元年(1570年)の姉川の合戦(6月28日参照>>)で、織田信長徳川家康連合軍に、手痛い敗北をしながらも、本拠地を未だ維持し続けていた越前朝倉氏北近江浅井氏(11月26日参照>>)

信長の度々の挑発を無視しつつも、一方でゲリラ戦を展開する浅井長政(あさいながまさ)に対し(7月22日参照>>)、天正元年(1573年)の8月6日、信長は、いよいよ大軍を率いて越前・朝倉氏に狙いを定めます。

慌てて防御の準備をしようと疋壇(ひきた)に入城する朝倉義景を、織田軍は、すでに待ち受けて攻撃する素早さを見せます。

もちろん、信長は、越前へ攻撃を仕掛ける一方で、朝倉氏と同盟関係にある浅井氏へ策略を張り巡らしておく事も、同時進行で行っていました。

北近江の武将たちに、密かに織田方にくみするよう即していたのです。

その策略が功を奏して、8月8日、近江山本山城の城主・阿閉貞征(あつじさだゆき)織田方へ寝返ります。

これを絶好のチャンスと見てとった信長は、すばやく浅井氏の本拠地・小谷城へ主力部隊を向かわせます。

これを知った朝倉義景は、自分自身が応戦しつつも、2万の軍勢を小谷の援軍として派遣します。

その援軍は、小谷城の北側で、織田軍と衝突!激戦が開始されたのもつかの間、織田軍の猛攻撃に耐えられず、やむなく義景が派遣した援軍は敗走します。

勢いに乗った織田軍は、そのまま朝倉勢を追走し、越前へ侵入(8月14日参照>>)
もともと越前で奮闘中の軍と同調し、朝倉義景のいる疋壇城に総攻撃を仕掛けます。

敗色が濃くなって、本拠地・一乗谷へ敗走した義景を追って、さらに一乗谷も攻略し、追い詰められた義景は、8月20日に自刃・・・朝倉氏は滅亡してしまいます(8月20日参照>>)

完全に孤立状態となってしまった小谷の浅井長政・・・。

越前で朝倉義景の最期を見届けた織田軍・主力部隊は、再び近江の小谷城へと舞い戻り、天正元年(1573年)8月27日総攻撃を開始します。

典型的な山城だった小谷城は、黒金門を入ると、大広間本丸小丸局屋敷中丸京極丸山王丸上に向かって階段状に並んでいるという構造で、攻撃が開始された時は、浅井長政が本丸、父・久政が小丸にて抗戦しました。

この日、織田軍の先鋒を務めたのは羽柴(豊臣)秀吉

城内へなだれ込んだ羽柴隊は、まず京極丸を占拠して、城内の連絡を絶ち上下を分断させてから久政の守る小丸を攻撃します。

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小谷城の特徴の一つである大堀切

奮闘した久政でしたが、敵の猛攻撃に耐え切れず、その日のうちに自刃してしまいます。

さらに、羽柴隊は、城主・長政のいる本丸へ突入!・・・翌、28日に長政も自害して、ここに浅井氏は滅亡します。
*長政の自刃については29日or9月1日説もあります…2009年8月29日の【浅井長政、最後の手紙】でどうぞ>>

ところで、そう、この小谷城には、信長の妹・お市がいました。

18歳で浅井長政に嫁いだお市は、織田氏と浅井氏の同盟のための政略結婚ではありましたが、夫婦仲はたいへんむつまじく長男・万福丸と、茶々・初・小督(おごう)という3人の女の子をもうけていました。

長政が自刃するにあたって、お市は夫と共に死ぬ覚悟していましたが、長政の「子供のためにも生きろ!」という説得に、子供たち共々、織田方の手引きで、落城寸前に脱出します。

しかし、お市と3人の娘は助かりますが、長男・万福丸は男子であるが故に、お市の願いも空しく、串刺しの刑に処せられてしまいます。

それから4ヶ月後の天正二年(1574年)の正月。

朝倉義景と井久政・長政父子の頭蓋骨は、漆と金粉で塗り固めて盃にして酒宴の席に出されたとか・・・。

「いや、盃にしたというのは俗説で、盃にはしていないが、頭蓋骨に漆と金粉を塗って酒の肴にしたのは本当だ」とか、色々取りざたされるこの話は、信長さんの特異な一面を伝えるエピソードとして、ドラマでもよく描かれている話です。

今では、「おそらく事実ではない」とされる話ですが、もし、あったとしても、大事な妹を嫁にやってまで結んだ同盟があまりにもろく崩れ、信じていた者が裏切るという状況を目の当たりにして「自分を裏切った者は許さないぞ」という警告のようなものだったのかも・・・。

しかし、浅井と織田との同盟の中には、浅井のもう一つの同盟相手の「朝倉に対して勝手に攻撃してはいけない」という約束もあったと記憶してますが・・・だとしたら、先に裏切ったのは信長さんのほうなのでは?とも思ってしまいます。

色々判断が難しいです。

とにもかくにも、この合戦で大活躍した秀吉には、浅井氏の領地が与えられ、翌年には長浜(今浜)に城を建て、一国一城の主へと出世します(3月19日参照>>)
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2007年8月26日 (日)

史上最強!崇徳天皇・怨霊伝説

 

長寛二年(1164年)8月26日は、第75代・崇徳(すとく)天皇のご命日です。

・・・・・・・・・・

小倉百人一首』第77番目の歌・・・。

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
 われても末に 逢わんとぞ思ふ

「流れの速い川の水が、岩にはばまれ分かれてしまっても、やがては同じ流れに戻るように、今は離ればなれになる二人だけれど、いつか、また、会える時が来るよ」

これは、崇徳天皇の歌・・・私は、この歌が大好きです。

「好き」という言葉も「恋しい」という言葉も、まして「愛してる」など、ひと言も言ってはいないのに、相手の事がものすご~く好きなのがひしひしと伝わってきます。

ただ単に「好き!好き!」と連発するより、よっぽどインパクトがある告白ですよね。

こんな歌を詠む人は、どんなにロマンチックで、どんなにやさしい人なんだろう?
・・・と、思いきや、崇徳天皇は史上最強の怨霊・・・大魔王と呼ばれ、最も恐れられた人なのです。

・‥…━━━☆

崇徳天皇は、第74代・鳥羽天皇第一皇子として生まれ、5歳で即位し天皇となりました。

しかし、この即位はあくまで、鳥羽さんの祖父で第72代・白河天皇(当時は法皇)の意向によるもの・・・と、いうのも、鳥羽さんは崇徳さんの事を「自分の子供ではない」と思っていたようなのです。

決定的証拠はないものの、崇徳さんは、どうやら鳥羽さんの奥さん・待賢門院(たいけんもんいん)白河さんと浮気してできた子供だとの、もっぱらの噂だったのです。

わが嫁をジジィに寝取られちゃぁ、そりゃ鳥羽さんも怒りますわな。

それでも、白河さんが元気な間は何とか平穏無事ではありましたが、当然の事ながら、法皇が亡くなると、鳥羽さんは崇徳さんを退位させ、わずか2歳の本当のわが子近衛天皇を即位させ、そのわが子が若くして急死すると、もう一人のわが子後白河天皇として即位させ、崇徳さんを無視しっぱなし。

・・・で、そんな鳥羽さんも亡くなって、残ったのは兄弟同士=後白河VS崇徳の権力争い・・・

その争いに側近の貴族・武士を巻き込んで勃発したのが保元の乱(7月11日参照>>)です。

勝った後白河さんの天下となり、負けた崇徳さんは讃岐(香川県)へ流罪となります。

それでも、まだこの時点では崇徳さんはおだやかで、讃岐の山奥で暮らしながらも、乱で亡くなった人々への供養だと、熱心に写経などしていました。

そして、日々の暮らしで溜まった写経を「どうか、寺に納めて欲しい」と朝廷に送ったところ、後白河さんが「呪いが込められているかも・・・」と言って受け取らず、突きかえされてしまいます。

さぁ、これで、崇徳さんがブチ切れたぁ~。

送り返された写経に、自分の舌を噛み切って流れ出た血で「大魔王となって、この日本の国を転覆させてやる~」と、誓文を書きつづって海に沈め、以来、髪も切らず、爪も切らず、その風貌は「生きながら天狗になった」と噂されるほどの変貌を見せます。

そして、とうとう長寛二年(1164年)8月26日鬼のような姿のまま、崇徳さんは46歳で、この世を去ります。

生前は、「いつか都に戻りたい」と願っていた崇徳さんでしたが、死んでもなお許されず、その遺骨は、四国の白峰山に埋葬されました。

埋葬時には、一点にわかに掻き曇り、激しい風雨が襲い、突然の雷鳴も轟き、その棺からは真っ赤な血が流れ出し、その火葬の煙は都に向かってまっすぐにたなびいたと言います。

さぁ、ここから崇徳さんの怨霊伝説が始まったのです。

都には疫病が流行り、祟りと称される異変が次々と起こります。

平治元年(1159年)に起こった平治の乱(12月26日参照>>)でさえ、もともとは崇徳さんの怨念の仕業とまで囁かれます・・・って、そん時はまだ生きとるやんけ!

恐れおののいた後白河さんは、それまで、彼が「讃岐院」と呼ばれていたのを、「崇徳」という神々しい名前を贈って、崇徳さんの名誉回復に当たります。

Sudokugobyoucc生前に親しくしていた阿波内侍の持っていた崇徳さんの遺髪を納めた「崇徳天皇廟」や寺院を京都に建て、その鎮魂を願いましたが、養和元年(1181年)に、恐ろしいほどの熱を出して、苦しみ抜いて死んでいった平清盛の死(2月4日参照>>)も、崇徳さんの怨霊の祟りであると言われました。

鎌倉時代の動乱を描いた『太平記』には、当時の魔界ランキングで、崇徳さんを魔界の王と位置づけています(8月3日参照>>)

つまり、あの南北朝の動乱(8月16日参照>>)さえも、彼の怨念の仕業というわけです。

以来、言われた事は、崇徳さんの怨霊は、天皇が表舞台に立った時に現れ、国家の転覆を企てるのだそうで、その対象はあくまで、天皇家・・・それ以外の国家権力には向けられないというのですが、その怨霊が、史上最強と称されるのは、何と言っても、その恐怖が語り継がれた長さにあると言えます。

Siraminezonnguucc崇徳さんが亡くなってから700年後、明治天皇が即位する際に、彼の怨霊を鎮めるために建立されたのが、京都市上京区にある白峯神宮・・・崇徳さんの陵墓にちなんだ名前となっています。

冒頭でご紹介した崇徳さんの歌・・・あのように美しい歌を詠む人が大魔王とは・・・。

菅原道真(6月28日参照>>にしろ、平将門(2月14日参照>>)にしろ、怨霊伝説というものは、亡くなった本人が作るものではありません。

その人を不幸に追いやった人物が、少しでも「悪い事をしてしまった」と、自分の行いに反省したり、後悔したり、負い目を感じたりする気持ちが、その伝説を生み出しているのだと思います。

そう考えると、もし、他人を不幸に追いやっておいて、まったくその負い目を感じないと人がいたとしたら、それが、怨霊よりもはるかに怖い事なのかも知れません。
 

Sudokutennoumeiniticc
今日のイラストは、
ご覧の通りの『生きながら天狗となった崇徳天皇』です。

保元の乱が1156年なので・・・崇徳さん讃岐にいたのは38歳~46歳・・・ちょっと見た目が若すぎますが、そのほうがカッコ良いので・・・
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2007年8月25日 (土)

東海の関ヶ原・安濃津城の攻防戦!

 

慶長五年(1600年)8月25日、関ヶ原の合戦の前哨戦の一つ・安濃津城の攻防戦で、城主・富田信高がが敗れ、安濃津城を開城しました。

・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)8月1日の伏見城落城(7月19日参照>>)を皮切りに、各地で勃発する西軍VS東軍の戦い・・・。

北陸では、前田利長丹羽長重浅井畷で・・・(8月8日参照>>)
岐阜では、織田秀信徳川先発が・・・(8月22日参照>>)

そして、8月23日には、先の伏見城を攻略した西軍が、徳川に属する伊勢・安濃津(あのつ)(三重県津市)へと迫ります。

出陣した豊臣軍は、毛利秀元(輝元の養子)吉川広家長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)長束正家(なつかまさいえ)安国寺恵慶(あんこくじえけい)らが率いる約3万の大軍

迎え撃つ安濃津城には、伏見城の一件を聞いて、一足早く会津征伐軍から引き返して来た城主・富田信高とその家臣・・・そして、知らせを聞いて援軍として参戦した分部光嘉(わけべみつよし)の軍勢、合わせて5千

数を見ただけでも、到底勝ち目がない戦いではありますが、すでに徳川家康に使いの者を派遣し、この状況を知らせる手はずになっていましたから、籠城して持ちこたえる事ができれば、かの徳川先発隊が援軍に駆けつけてくれるはずです。

しかし、ただ単に籠城しているわけにはいきません。
信高は作戦を練ります。

まずは、少ない兵で敵を引きつけ、深追いしてきたところを、すかさず撃って出るという作戦・・・しかし、敵もさるもの、安濃津城の峰続きにある安来寺に放火し、城を孤立させます。

しかも、残念な事に、家康へ派遣した使いは、伊勢湾上で、豊臣方の水軍・九鬼嘉に見つかり、途中で殺害されてしまっていました。

やがて西軍は、次第に包囲網を狭め、城の周囲を取り囲む形になってきます。

「このままでは、城は完全に孤立する!」とばかりに、自ら果敢に撃って出る信高でしたが、西軍の放った火は市街の各地に飛び火し、四方を守っていた兵が動揺するすきに、次々と守りを破り、さらに包囲網は狭まります。

もとより、兵の数には決定的な差があり、信高自身、斬っても斬っても新手が登場するため、疲れ果てて体は動かず、敵兵に囲まれた状態となり、城へ戻る事すらできなくなってしまいました。

「もはや、これまでか・・・」と討死を覚悟する信高・・・。

そんな時です。
突然、城内から、眉目秀麗・・・見た事もないようなイケメンな若武者が登場し、バッタバッタと敵を倒しながら信高のもとへ駆け寄って来たかと思うと、動けなくなっている信高を掴んで城内へ運び込みながら・・・

「討死なされたと聞きましたので、それなら私も共に死のうと撃って出ましたが、生きてお目にかかれるとは・・・」
「こんなイケメン、うちの家臣におったかいな?」
と、不思議そうに顔を覗き込む信高・・・。

もちろん、共に戦っていた分部光嘉にも、そんな若武者は見覚えがありません。

実は、その若武者は信高の奥さん・・・実名は残っていませんが、宇喜多忠家の娘だったと伝えられています。

奥さんの活躍によって何とか討死せずにすんた信高・・・

城主の無事帰還を聞いて、城兵たちも、数の少なさのわりには踏ん張りますが、その後も西軍の猛攻は続き、最終的に、慶長五年(1600年)8月25日西軍の開城要請を受け入れる形で、安濃津城の開城を決意します。

Moerusiro110 敗れた信高は、剃髪し高野山へと入りました。

しかし、ご存知のように、この後の関ヶ原の合戦・本番で、徳川が勝利した事によって、再び信高は安濃津城主へと復帰する事になりますので、ご安心を・・・。

それにしても、普段のおしとやかな雰囲気とは違った勇猛な姿に、一瞬、見間違えかも知れませんが、さすがに自分の奥さんを助けられる時まで気づかない・・・ってな、わけは無いでしょうから、細かい逸話は後に創作された物のように思いますが、奥さんがこの合戦で大活躍したという事は、どうやら本当のようです。

当時、奥さんは25~6歳だったと言いますから、そりゃもう綺麗だったでしょうね。
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2007年8月24日 (金)

浜の真砂の…石川五右衛門の処刑

 

文禄三年(1594年)8月24日、稀代の大盗賊・石川五右衛門が三条河原で処刑されました。

・・・・・・・・

石川五右衛門(いしかわごえもん)と言えば、あの南禅寺・山門の高欄から、眼科に広がる京の町を眺め
「絶景かな~絶景かな~春の眺めは価(あたい)千金とは小さなたとえ、この五右衛門が目からは万両」
と、大見得を切ってみせた戦国時代の大泥棒。

『続本朝通鑑』によれば、この文禄三年(1594年)8月24日に、豊臣秀吉の家臣・前田玄以(げんい)によって捕えられた五右衛門以下、母・息子を含めた同類20人余りを縛り、三条河原に烹殺・・・とありますが、石川五右衛門に関して、史実と呼べる物は、この一文くらい。

あとの事は、伝説やら、噂話やら、歌舞伎のお話が入り乱れて果たして本当の事なのか疑わしい限りです。

しかも、わずかに残るこの一文でさえ、この処刑された人物が本物の五右衛門であったかどうかはわからない・・・というのが現状です。

その出身も、伊賀上野の忍者の末裔だとか、丹後の大名・一色家の家老の次男であるとか、大坂河内三好氏の家臣の子であるとか、遠江(とうとうみ)浜松の侍だったとか、もう、数え上げたらきりがありません。

だいたい、この時代、天下を取ろうかという戦国大名でさえ、その出身が嘘八百の時代ですから、泥棒なんて稼業の人に、ちゃんとした経歴があるはずもありません。

とにかく、子供の頃から喧嘩が強く、悪童どもを引き連れてワルサを働く中で、腕に覚えのある者が、戦国の世に見る夢は一つ・・・その腕と才覚で、「いずれは天下を取ってみせる」と息巻いて、大志を抱いて京に上ります。

しかし、世はすでに太閤秀吉の天下。
そう簡単に仕官の口があるわけではありません。

結局、彼がたどりついたのは、昼間はターゲットになりそうな大家を物色しながら町を徘徊し、夜には、そこへ押し入るという泥棒稼業です。

彼を、スターに押し上げたエピソードに、大きな凧に乗って、名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)を盗んだ・・・というのが有名ですが、これはどうでしょう?
ちょっと、時代が合わない気がしますね~。

たしかに、名古屋城は、若き日の織田信長が本拠地としていたお城(当時は那古野城)ですが、信長が清洲に移ってからは廃城になっていたはず・・・(2月11日参照>>)

それを、関ヶ原の合戦の後に、西国からの江戸の守りをより強くするために、徳川家康加藤清正に命じて造らせ、その時に、清正が一世一代の見栄を張って、あの豪華な金の鯱を鋳造したと思うのですが・・・。

江戸中期の正徳二年(1712年)に尾張国中島郡金助という男が、大凧に乗って鯱の鱗を盗んだという記録がありますので、どうやらこの話を五右衛門のエピソードにしちゃった・・・てな感じですね。

しかし、庶民に人気があったというのは確かでしょう。

それは、庶民の苦悩とはうらはらに私腹を肥やしていそうな大金持ちばかりをターゲットしたという事。

それによって、不安いっぱいの戦国の世を生きる庶民から見れば、「ざまぁ見ろ!」と痛快でスッキリするわけですからね。

でも、実はこれも、五右衛門にしてみれば、別に、ソコを狙って大金持ちをターゲットにしていたわけではなく、実のところ五右衛門の下には、名のある幹部だけでも15人・・・そして、それぞれに30人からの手下がいるわけですから、チンタラした仕事をやっていては、食っていけない・・・というのがホンネでしょう。

もちろん、貧乏人に盗んだ金を分け与えた・・・なんて記録も一切ありません。

ただ、やっぱり気になるのは、伏見城の秀吉の寝所に忍び込んだ・・・というアノ一件ですね。

その目的は、自分が金品を盗む大泥棒なら、秀吉は日本を盗んだ大泥棒だとして、自分の腕前を見せつけようとしたという説がある一方で、当時ギクシャクした関係にあった関白・秀次(7月15日参照>>)の家臣・木村常陸介(ひたちのすけ)の依頼で、秀吉を暗殺するためだったという説もあります。

いずれにせよ、秀吉の首と、その枕元にある秘宝・千鳥の香炉を盗む目的で、伏見城に侵入したところ、その千鳥の香炉から急に音が鳴りはじめ、その音を聞いて駆けつけた前田玄以に逮捕されたという事になってます。

・・・で、冒頭に書いたように処刑となるわけですが、秀吉に限らず戦国時代というのは、ことのほか刑罰が重いです。

・・・というのも、ただでさえ明日をも知れぬ不安な時代・・・いつ隣国から攻めて来るかわかりません。

そんな時、その国を見る目安として、「領内の治安の良さ」という事が重視されていました。

治安の良いところは、領主がしっかりしているという事で、イコール攻め難いとして、隣国から狙われる可能性が薄くなるわけで、そのために見せしめとして、より過酷な極刑へと徐々にエスカレートするのです。

五右衛門の場合、その刑は、よく「釜茹で」と称される事が多いですが、正しくは「釜煎り」だとの事・・・と、いうのも、(書くのも恐ろしいですが・・・)釜の中身はお湯ではなく油だったそうで、しかも、6歳の息子とともに釜煎りする事によって、より見せしめ効果を狙ったようです。

♪石川や 浜の真砂(まさご)は尽くるとも
 世に盗人の 種は尽きまじ♪

・・・と、本当に辞世を詠んだかどうかは知りませんが、天下人の寝所に侵入・・・あわや暗殺へ・・・という行為が、レジスタンス的な意味合いに受け取られ、世に不満を持つ庶民から、拍手喝采を浴び、義賊・英雄として語り継がれる事となる石川五右衛門・・・

その、泥棒という由緒正しからざる人物が、天下人と相まみえる・・・他に類を見ないその痛快さが、彼を理想へ理想へと導いて、様々な伝説が、その人生を彩る事になったと言えます。

Goemoncc 今日のイラストは、
もちろん石川五右衛門・・・

ただ、個人的には、あのヘアスタイルと錦のどてらはちょっと・・・なので、どうせ伝説に彩られているのなら、風貌もおもいっきりカッコよく!

個人的好みが入りまくりました~
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2007年8月23日 (木)

一代聖教みなつきて~一遍上人の最後の言葉

 

正応二年(1289年)8月23日は、浄土宗の一派で、踊り念仏で知られる鎌倉時代に生まれた時宗(じしゅう)の開祖・一遍上人のご命日・・・なので、今日は一遍上人についてのお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・・

一遍は延応元年(1239年)伊予(愛媛県)道後の豪族・河野道広の次男として生まれますが、彼は、その人生の中で、何度か「転換期」というものに遭遇します。

最初の転換期は、母を亡くした10歳の時・・・

それをきっかけに、父の勧めで仏門に入り、九州大宰府(福岡県)聖達上人のもとで浄土教を学びます。

その後、父も亡くなった事によって、一時、還俗(一旦出家した人が、もとの一般人に戻る事)しますが、思うところがあって、念仏修行の旅に出る事にします。

そして、その旅の途中、信濃善光寺『二河百道(にがびゃくどう)の図』という仏画に出会います。

これが、2度目の転換期。

『二河百道』というのは・・・
「欲を水の川に、怒りを火の川に例え、2本の川が進むその中間に一筋の白い道があり、その白い道は往生を願う心を表現していて、両側の川に誘われる事なく、一心にその道を進んで行けば極楽浄土にたどりつく事ができる」
・・・という教えなのですが、一遍の見た、その『二河百道の図』というのは、その教えをわかりやすく絵にした物で、一人の平凡な男が浄土への往生を願って信心を志してから、往生するまでの紆余曲折のプロセスを描いた物でした。

一目でその絵に魅せられた一遍は、必死でその模写を描き、その絵を持って地元に帰り、絵の前で3年間「称名念仏(南無阿弥陀仏など仏の名を唱え続ける)の修行」を続けたのです。

3年間その絵と充分に語り合って、自分の中で念仏の信仰を確立させた一遍は、今度は「その教えを人々に伝えたい」と考えます。

文永十一年(1274年)2月、彼は、故郷・伊予を捨て、すべての財産を捨て、家族を捨てて全国遊行の旅に出発します。

一遍、35歳の時でした。

行く先々で出会う人々に、彼は「南無阿弥陀仏と唱えなさい、そうすれば救われますよ」と言いながら「念仏札」を渡して歩きます。

この事で、彼は「捨聖(すてひじり)」「遊行上人」などと、呼ばれるようになるのですが、遊行を続ければ続けるほど、彼の胸に重く圧し掛かるある悩みがありました。

それは「念仏札」を渡そうとしても拒否されたり、「私は信じない」と固く心を閉ざす人々に、どのようにこの教えを伝えたらよいのか?という事でした。

四天王寺から高野山、そして熊野へとやって来た一遍・・・その日も、熊野の山道で出会った旅の僧に、「信じる心がないのに受け取ったら、嘘をついた事になる」と言って札の受け取りを拒否られたばかりでした。

夜になって、熊野本宮証誠殿(しょうじょうでん)で、悩みながらもウトウトと眠りにつく一遍・・・すると、夢の中に、山伏姿の白髪の老人が現れ、彼に語りかけます。

六字名号一遍法(ろくじみょうごういっぺんほう
十界依正一遍体
(じつかいえしょういっぺんたい)、
万行離念一遍証(まんぎょうりねんいっぺんしょう)
人中上上妙好華
(にんちゅうじょうじょうみょうこうけ)

・・・と、一応そのまま書いてみましたが、これは、
「お前が念仏を勧める事によって人々は往生できるのではなく、人々はすでに阿弥陀仏によって救済されているのだから、相手が信じようが信じまいが、お前はその札を配ってればいいんだよ」
と、いった内容で、その白髪の老人は熊野権現の化身だったのです。

夢から覚めた一遍は、晴れ晴れとしていました。
「自分のやるべき事は、ただ一つ。
この「念仏札」を配って、念仏を広める事だけ・・・相手が信じるかどうか、その先の運命は阿弥陀仏におまかせすれはよいのだ。」

これが、一遍、三度目の転換期。

他のお名前を知らないので、今まで一遍、一遍と書いてきましたが、実は、彼は、この熊野権現のお告げによって名前を「一遍」と称する事になるのです。
それまでの名前は、一遍ではありませんでした~すみません・・・。

そして、四度目の転換期は、「踊り念仏」です。

彼は、もともと平安時代の僧・空也上人(9月11日参照>>)を尊敬していました。
最初に、遊行を始めたのも、若い頃諸国を巡って「市聖(いちひじり)と呼ばれた空也上人の影響です。

信州伴野地方で、念仏と踊りによって死者の霊を慰める風習があった事も知っていた一遍は、空也上人が始めた「踊り念仏」を復活させます。

踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」は人々に開放感をもたらし、気持ちを高揚させ、一種のトランス状態を引き起こしますから、民衆はまたたく間にひきつけられ、一遍の行く先々で、人々は「踊り念仏」に加わるようになるのです。

Ippen22
有名な『一遍上人絵伝』第七巻の絵↑は、一遍が京都に滞在している時の「踊り念仏」を描いた物・・・「踊り屋」という建物をしつらえ、(かね)を打ち、床を踏みながら踊り念仏を唱えているようすがうかがえます。

この「踊り念仏」は、この後、様々な舞踊へと発展し、一般庶民に音楽や芸能に触れ合う機会を与え、中世以降の芸能に大きな影響を与えました。

やがて、51歳を迎えた正応二年(1289年)。
一遍は、自分の死期が近い事を感じ始めていました。

彼は35歳で故郷を捨てた時から、一所不在の全国行脚ばかりの生活でしたが、「死ぬ時は教信沙弥(きょうしんやみ)のゆかりの地、播磨(兵庫県)印南野(いなみの)教信寺で死にたい」と願っていました。

教信沙弥は、9世紀半ばの人で、それまで貴族や一部の特権階級の物だった仏教を庶民へ広めた人物で、空也上人と同じく、彼のあこがれの人でした。

そうして、その年の7月、かの地へ向かって明石までやってきた時、兵庫和田岬から「ぜひおいで下さい」との声がかかります。

どうしょうか?と思いつつも、すべてが縁のおもむくままに・・・と日頃から思っていた彼は、「これも何かの縁であろう」と和田岬の光明福寺へと向かいます。

そして、光明福寺に滞在中の8月10日。
彼は書籍などの自分の持ち物のすべてを、念仏を唱えながら燃やしてしまいます。

弟子たちは悲しみ、信者たちは、聖人の死の時に訪れるという紫雲や妙音の現象があるのではないか?という思いにかられます。

しかし、彼は「私のような者の最期に、そんなごたいそうなものはありはしないよ」と笑います。

果たして正応二年(1289年)8月23日、一遍上人・・・彼の最後の転換期が訪れます。

「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」
これが、彼の最後の言葉・・・
「すべてを捨てて、生きるも死ぬも南無阿弥陀仏におまかせする」という事です。

彼の言った通り、奇跡のような出来事は起こりませんでした。

ごく平凡に・・・ごく静かに・・・彼は息をひきとりました。
大勢の信者と大勢の弟子に見守られながら・・・
阿弥陀仏のおぼし召しのままに・・・

彼の始めた教えは、その後も脈々と続き、総本山は藤沢市の清浄光寺
今も、信徒・約6万人に受け継がれています。
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2007年8月22日 (水)

信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い

 

慶長五年(1600年)8月22日、『関ヶ原の合戦』の前哨戦である『岐阜城の戦い』で、最初の野戦が繰り広げられました。

・・・・・・・・・・

会津征伐(4月1日参照>>)を口実に伏見城を出た徳川家康は、慶長五年(1600年)7月25日、小山付近に布陣し、ここで軍儀を開きます。

ともに会津征伐のために畿内を出発した武将たちに、敵は会津ではなく、西軍・石田三成である事を告げ、このまま自分に味方するか、畿内に戻って西軍につくかの判断をあおいだ有名な『小山評定(ひょうじょう)です(7月25日参照>>)

軍儀では、豊臣秀吉亡きあとに浮上した豊臣家内での亀裂(3月4日参照>>)によって「三成、腹立つ!」で凝り固まっていた福島正則が真っ先に手を上げ、それに触発された武将たちが「我も」「我も」と同調し、その場にいたほとんどの者が家康の東軍につく事を表明します。

その時、先頭に立った福島正則はもちろん、一緒にノリノリで手を上げた池田輝政山内一豊は、自らの居城と蓄えた兵糧を家康に差出し、先陣を切って東海道を西へと進みます。

一方の畿内では家康が留守にした伏見城が8月1日に落城(7月19日参照>>)する中、北陸では8月8日浅井畷(8月8日参照>>)で・・・と、各地の武将を巻き込んでの関ヶ原の前哨戦が繰り広げられました。

その間にも、西へ西へと東海道を進む東軍(8月11日参照>>)・・・やがて、一豊の掛川城(静岡県)を経て、正則の尾張・清洲城(愛知県)へとやってきた彼らの前に立ちはだかるのは、豊臣側につく織田秀信の居城・岐阜城です。

岐阜城主・織田秀信は、あの織田信長の嫡孫・・・そう、本能寺で信長が亡くなった後、その後継者選びの『清洲会議』(6月27日参照>>)で、信長の三男・信孝を推す柴田勝家に対抗して、秀吉が担ぎ上げた亡き長男・信忠の息子=三法師(当時3歳)です。

彼は、この時21歳の若武者に成長していました。

祖父が残した難攻不落の岐阜城を、何としてでも守り抜かねばなりません。

あの美濃のマムシの異名をとる斉藤道三(4月20日参照>>)が残した難攻不落の稲葉山城を、やっとの思いで手に入れた信長が(8月15日参照>>)城下町の名を岐阜に改め、さらに難攻不落の城に造りかえた岐阜城・・・後に安土城に移ったとは言え、信長が生涯で最も愛した城はこの岐阜城でした。

日本最初の天守閣を、それも、山の頂上とふもとの二箇所に持ち、豪華絢爛たるその造りはまるで宮殿のようであったと言います。

しかし、今回ばかりはそんな難攻不落の岐阜城と言えども、いきなり城に篭もっての籠城作戦とはいきません。

なぜなら、迫り来るのは、福島正則・池田輝政・山内一豊の三人なのですから・・・。

福島正則と山内一豊は、もともと秀吉傘下の武将。

その秀吉は信長の傘下で、信長がこの岐阜城にいた頃は、彼らも皆、岐阜に住んでいたわけで、彼らにとって岐阜の城下は庭みたいな物です。

池田輝政に至っては、信長とは乳兄弟の家系で、かつては岐阜城主を務めていたのですから、城内のすべてをお見通しです。

かくして、彼らが岐阜城に迫った慶長五年(1600年)8月22日・・・秀信は果敢にも撃って出ます。

それも、ド肝を抜くようなド派手な衣装で・・・。

もちろん、これは、もともと秀信が派手好きであったという事もありますが、どうやら彼の一つの作戦だったようです。

それは、迫り来る彼らに、できるだけ大きく、そして強く見せたいがため・・・なかでも、未だにかつての主君・信長を愛してやまない池田輝政に、亡き信長の姿を思い起こさせるような派手ないでたちで登場し、まさにド肝を抜いてやろうという作戦だったのです。

しかし、やはり、地の利を知り尽くした彼らは強かった・・・。
木曽川を渡った彼らは(2015年8月22日参照>>)みるみる秀信の陣へ殺到し、次々と首級をあげていきます。

やっとの思いで、秀信自身は岐阜城に逃げ帰り、次は籠城作戦で・・・と考えますが、野戦での負け戦を耳にした城兵は、もはやヤル気ゼロ。

翌・23日には、福島隊、池田隊、山内隊が一斉に、城下へ突入し、城に向かって総攻撃をしかけ、あっと言う間に櫓を落とし、さらに奥へと殺到します。

敵は総勢3万5千の大軍。
それにに対して、城を守るのはわずか6千。
しかも、もとよりヤル気ゼロの城兵たちは、抗戦を断念・・・岐阜城は落城してしまいます。

秀信は武士の習いとして自刃して果てようとしますが、これを池田輝政が説得・・・お~っと、ここでやっと効きめが出たか?信長のDNA作戦!

さらに、敵将であるのだから処刑は当然と言う徳川の武将に対して、福島正則が彼の助命を懇願・・・「もともと、我らは、恩義ある織田家に対して戦を挑んでいるわけではない。
しかも、もうすでに降伏をしている者をあえて殺す必要はないのではないか?」
と説得します・・・泣かしてくれますね~正則さん・・・またまた効いてるのか?信長のDNA作戦!

結局、秀信は高野山へ送られて仏門に入り、その5年後の慶長十年(1605年)5月8日26歳の若さで亡くなる事となります。

彼には子供がいなかったため(正式ではない文書には、女の子がいたという記録もありますが・・・)あの天下の勇将=信長の嫡流は、ここで断絶という事になってしまうのです。

おおむね西軍の勝利に終る前哨戦の中では、この岐阜城の戦いは手痛い敗戦で、これによって、東海道のほとんどが東軍の物となり、やがては、関ヶ原へと向かっていく事になるのですが・・・その前には、まだいくつかの前哨戦が行われます。

関ヶ原の前哨戦については、左サイドバーの【関ヶ原の年表】>>からご覧下さい。

Odahidenobugifuzyoucc
今日のイラストは、
やはり主役の織田秀信さん。

『ジッチャンの名にかけて岐阜城を死守』したかったでしょうが・・・残念です。

現存する秀信さんのトレードマーク=烏帽子型の兜に、信長さんを思わせるいでたちで描いてみました~。
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2007年8月21日 (火)

運命の赤い糸の伝説…その由来は?

 

運命の赤い糸・・・
運命の人とは、小指と小指が赤い糸で結ばれている・・・

なんて、ロマンチックで純粋な言い伝えなんでしょう!

そんな話を初めて聞いたのは、やはり思春期の最初の頃・・・小学校の高学年か、中学生の頃だったと思います。

最初に聞いた時は、バレンタインデーのように、外国から輸入された言い伝えかと思っていたのですが、これが意外にも(意外なのは私だけかも・・・)日本古来の言い伝えなのです。

もちろん、古い言い伝えなので諸説ありますが、今回は、その起源とされる『古事記』に登場するお話について・・・

・‥…━━━☆

第10代・崇神天皇の頃に、ちまたに悪い病気が流行し、この伝染病にかかったが最後、皆、次々と倒れて死んで行くという事態になります。

この時代の常として、すぐさま神殿を造り、病原の根絶を祈願するわけですが、ある日、天皇の夢枕に、大物主神(おおものぬしのかみ)という神様が現れます。

その神が夢の中で・・・
意富多多泥古(おおたたねこ)という人物に命じて、自分を祭らせたなら、神の祟りはおさまり、伝染病も鎮まるであろう」
と、告げたのです。

夢から覚めた天皇は、すぐに四方八方に使いをたてて、その意富多多泥古なる人物を探します。

やがて、捜し求める人物が、和泉の国の美努(みわ)にいる事がわかり、さっそく彼を呼び寄せて神主とし、三輪の大神(大物主神)を祭らせたところ、疫病はピッタリと止み、世の中が平和に治まった・・・というのです。

当然、天皇以下まわりの者たちには「彼はいったい何者なのだ?」という疑問が沸いてくるわけで、「実は・・・」という事で、彼は自分の素性を話し始めるのです。

・・・・・・・・

あるところに、活玉依毘売(いくたまよりびめ)という、それはそれは美しいお嬢様がおりました。

ある夜、彼女が寝室で寝ていると、いきなり部屋に男が侵入!
「キャー!助けて!ストーカー!」
と、なると思いきや、この男がメチャメチャ男前だったため、彼女は一目で恋に落ちてしまいます。

「今日のミニスカート、似合ってるね」と言われ、加齢臭のする部長なら「セクハラ」で、キムタクなら「ウレシイ」となる・・・女ゴコロですな。(イケメンなら強引でも許される?)

そして次の日も、そのまた次の日も、夜な夜な男が通ってくるうちに、当然の事ながら、彼女は妊娠してしまいます。

驚いたのは、両親です。
「おまえは、結婚もしてないのに、どういうこっちゃねん!」
「まぁまぁ、お父さん、そないに頭ごなしに・・・」
と、お決まりの光景か展開されます。

娘が言うには・・・
「毎夜、毎夜、ワタクシのところへ、それはそれはみめうるわしい殿方が通っていらっしゃいます。
どこのどなたか、お名前は存知あげませんが、一緒におりますうちに、ひとりでにこのようになったのでございます」

(ひとりでになるかい!←両親の突っ込み)

これは、えらいこっちゃ!
どこの誰か素性を確かめない事には、認知もしてもらえやしない!

・・・で、思案の末、
「床のまわりにびっしりと赤土を撒き散らし、長~い麻糸を巻いた物を針につけ、その男の着物裾に刺しなさい」
と、娘に指示し、その夜は扉という扉をピッタリと閉めてきっちり鍵をかけ、男がやって来るのを待ち構えます。

・・・と、両親が見張っていた限りでは、その夜は何事もありませんでした。

しかし、娘に聞いてみると、
「夕べもおこしになった」
と言います。

その証拠に、あの長い麻糸は、わずか三巻きしか床の上には残っていません。

不思議に思って、その糸をたどって行くと、糸は入り口の戸の鍵穴を通り、外へ・・・なんと、男は鍵穴から出入りしていたのです

さらにたどっていくと、美和山の神社へと行き着き、そこで終っていました。

その男は、三輪山の神=大物主神であったのです。

やがて、活玉依毘売は子供を出産します。

その子供から数えて4代目の子孫に当たるのが、意富多多泥古・・・つまり彼は神の子の血筋というわけです。

このお話の中にある「床に赤土を撒く」という行為は、赤い色が魔よけの色とされていた事から、清め=魔よけの儀式として撒かれたものと言われます。

あたり一面に赤土が撒かれた場所を通過していくわけですから、当然、糸は赤く染まり赤い糸の伝説となるのですが、その伝説が、時代ととともに少し変化して、相手を確かめるための赤い糸だったのが、運命の人と結ばれた赤い糸という伝説になったわけです。

大物主神は、この後、神である自分に仕える神女(みこ)さん・・・つまり職場の部下にも手を出してしまいますが、「赤い糸の伝説」があまりにもロマンチックなので、その事は聞かなかったことにしときましょう。
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2007年8月20日 (月)

方広寺鐘銘事件・片桐の交渉空しく家康の最後通告へ

 

この1ヶ月前の7月21日に、豊臣秀頼が建立した京都・方広寺の鐘に書かれた銘文にイチャモンをつけた徳川家康。・・・(7月21日参照>>)

それがムチャクチャな言い分だという事は、家康さん自身が一番よくご存知だったでしょうが、イチャモンをつけられた側の豊臣家も、充分承知していました。

豊臣家をぶっ潰そうと企む家康に対して、豊臣側の武将たちは、「こっちこそ天下を握る豊臣家・・・誰がお前の傘下になど下るか!」という気持ちを持ってはいましたが、悲しいかな、このイチャモンをつけられた時点では、まだ戦いの準備が整っていません。

確かに、有り余る秀吉の遺産で、浪人たちを雇い入れ、武器の準備も始めてはいましたが、もう少し時間が欲しい・・・何とか時間稼ぎをしたい・・・。

そこで、徳川家とのパイプ役でもあった茨木城主・片桐且元(かつもと)が、一件の弁明のため駿府へ赴く事になりました。

・‥…━━━☆

片桐且元は、賤ヶ岳の合戦でその名を馳せた『賤ヶ岳七本槍(4月21日参照>>)の一人。

秀吉の死後は、その遺児・秀頼の(もり)を務め、関ヶ原の戦い(9月15日参照>>)では、秀頼傘下のため西軍につきますが、合戦後には、西軍はあくまで石田三成が率いた軍であり、「西軍=豊臣家」ではない事を家康に訴えた人物です。

自らの嫡男を家康への人質に出してでも、その事を証明し、戦後になって、すんなりと大坂城を開城させたのも彼でした。

家康は、その時の彼の一連の行動を大きく評価していたのです。

秀頼の傅役でありながら、家康の信頼も得ている且元なら、秀頼の代役としても充分役目を果たせるはずでした。

しかし、いざ、到着した彼は、家康に謁見するどころか、駿府にすら入れてもらえず、一つ手前の宿場町・丸子で足止めされてしまうのです。

彼を待っていたのは、本多正純金地院崇伝(こんちいんすうでん)からの厳しい質問の嵐でした。

それは、方広寺の鐘銘の件・・・というよりも、むしろ大坂城に続々と集まりつつある浪人についての詰問でした。

しかも、弁明の余地など与えてはもらえません。

慶長十九年(1614年)8月20日、且元の努力も空しく、家康側は、最後通告とも言うべき条件を一方的に突きつけるのです。

それは・・・
① 秀頼が江戸へ参勤する
② 母・淀殿が人質として江戸に入る
③ 秀頼が大坂城を出て、家康の指示する領国へ国替えする

この3つの条件のうち、どれかに応じるように通告したのです。

こんなもん、本来、主君の筋にあたる豊臣家にとっては、屈辱でしかありません。
とてもじゃないが、どれも呑める条件ではありません。

・・・と、言うより、家康側からすれば、すんなり言う事を聞いてもらっては、むしろ困るのですから、どれも「絶対、承知しないであろう」という条件を出している事は明白・・・あっさりと解決してしまっては、せっかくの豊臣ぶっ潰しのチャンスが無くなってしまいますから。

しかし、この条件を聞いて、大坂城にいる豊臣の武将たちが怒り狂ったのは言うまでもありません。

中には、「こんなもん突きつけられて、よく、平気なツラして帰って来たな!」と、且元に斬りかかる者、今回の交渉が長引いた事(1ヶ月経ってますから・・・)で、「且元は徳川と通じているのではないか?」と疑う者まで出て、とうとう『且元暗殺計画』にまで至ります。

命の危険を感じた且元は、そのまま大坂城を出て、居城の茨木城へ引きこもり、二度と戻る事はありませんでした。

せっかく、かろうじて残っていた両家のパイプを失った豊臣と徳川・・・この後は、一気に大阪冬の陣へ突入していく(11月29日参照>>)事になります。

ところで、居城に引きこもった且元さん・・・「もはや、豊臣には居場所はない」と思ったのでしょうか、大阪の陣の時には、本人こそ出陣しなかったものの、徳川方の一員として、兵を出しています。

しかし、一方では、この出兵も家康との交渉のためではないか?と言われています。

それは、この大阪の陣の間も、且元は秀頼の助命を、必死で家康に訴え続けていた様子がうかがえるからです。

「一連の豊臣方の行動は、秀頼の本心ではなく、大坂城にいる豊臣家臣たちの暴走とも言える考えによる物で、秀頼が、例の条件を呑むつもりであっても大坂城内が秀頼の意見を聞く状況ではない」という事を、切々と訴える手紙も書いています。

彼は、こんな状況になってさえ、まだ、主筋・豊臣家を守ろうとしていたようです。

しかし、その願いも空しく、ご存知のように、大坂夏の陣(5月8日参照>>)にて、大坂城の落城とともに秀頼は命を落とします。

且元は、落城の20日後の5月28日・・・何も語らず、何も残さず、静かに自害します。

それは、あの秀吉から託された秀頼を救えなかった自責の念からでしょうか?
それとも、交渉決裂の時に受けた汚名を晴らすためなのでしょうか?
それとも、心ならずも敵である家康側についてしまった事への弁明なのでしょうか?

賤ヶ岳で名を馳せた誇り高き猛将の心の内は、歴史の闇と消え、もはや誰にも読み取る事はできません。

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今日のイラストは、
そんな片桐且元さんをイメージして、『秋風にそよぐススキ』を描いてみました。

鮮やかに散った武将を桜にたとえて、春は何度か、桜の花を描かせていただきましたが、今回の且元の自刃は、こんな秋のイメージではないかと・・・。
 

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2007年8月19日 (日)

千手観音の手は千本あるの?

 

本日、何やら、ネット上で、『千手観音』が話題になっているようで・・・私は見てなかったんですが、24時間テレビででもやったのかな?

・・・で、そう言えば、中学くらいの時に、「千手観音の手って本当に千本あるのかな?」って気になって、数えたりなんかしたなぁ~・・・なんて事を思い出し、急遽『千手観音』について書いてみたくなりました~。

・‥…━━━☆

『千手観音』は正式には『千手千眼観音菩薩(せんじゅせんげんかんのんぼさつ)と言い、その千本あるらしき手の指先には一つ一つ目がついています。

もともと観音様の本願は「慈悲の心」で私たちをい救ってくださる事にあるわけですが(1月18日参照>>)、その千という数字は実際の数字ではなく、「無数・無限・・・とにかくいっぱい」ってな感じの数字を意味していて、その無数の目で、「物を見極める大切さ」「実行する大切さ」を表現しています。

もちろん、慈悲の心も無数という事で「大悲観音」とも呼ばれます。

ただ、実際の仏像では、千本もの手を彫刻するのはたいへん難しいので、左右に21本ずつ・・・合計42本というのが多く、一番大きな腕が合掌している場合が多いです。

この太い42本の腕の途中から、細い腕がのびて、もっとたくさんの手の数になっていて、それで「千手」にかえる場合もあります。

33gena有名な、京都の三十三間堂の千手観音様は、みな42本の手を持っておられます。

ただ、例外的なものとして、奈良・唐招提寺の金堂の千手観音様は、本当に左右500本ずつ、千本の手をお持ちです。

本当に千本とは、スゴイ・・・。
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2007年8月18日 (土)

秀吉の怨念?大阪城の不思議な話

 

慶長三年(1598年)8月18日は、あの豊臣秀吉さんのご命日・・・。

その死に際してのモロモロの事は、一応昨年の今日のブログに書かせていただきました(書き足りない部分は多々あるのですが・・・)ので、そちらの【なにわのことも夢のまた夢】>>のほうで読んでいただくとして、今日は、その後の大阪城にまつわる不思議な話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・

皆さんご存知のように、豊臣秀吉が築いたあの難攻不落の大坂城は、大坂夏の陣(5月8日参照>>)豊臣滅亡とともに、炎に包まれ落城し、焼失してしまいました。

その後、徳川の天下となった時、諸大名を総動員して、秀忠家光の二代の徳川将軍ににわたる大工事を経て、寛永三年(1626年)に再建されます

それは、築城名人の藤堂高虎が指揮をとり、五層六階の天守閣を持つ、豊臣時代をはるかにしのぐ壮大なものでした。

しかし、その権威を誇示するかのような、この徳川の大坂城は、なぜか、たびたび落雷の被害に遭うのです。

特に、万治三年(1660年)6月の落雷は凄まじく、火薬庫への直撃によって城郭の4分の1が吹っ飛び、動くはずの無いような巨大な石を動かし、その被害は城下にまでおよび、大勢の死者を出しました

もちろん、天下の台所・大阪にある重要な城ですから、その都度に修復されるわけですが、当然の事ながら、「豊臣の怨念」的な噂話が囁かれるようになります。

そして、とうとう寛文五年(1665年)、城のシンボルとも言える天守閣の最上にそそり立つ金の鯱(しゃちほこ)に落雷・・・あの夏の陣での落城を思い出させるように、天守閣は炎に包まれ、無残にも焼け落ちてしまいます。

しかも、この日は秀吉の命日・・・燃え盛る天守を見つめながら、大阪町民は「太閤さんの恨み」を強く感じたに違いありません。

結局この後、徳川の時代に天守閣が再建される事はありませんでした。

その次に天守閣が再建されるのは、昭和に入ってからの事・・・その頃、この大阪城一帯は、軍部の管轄であり、陸軍・第四師団司令部が置かれていましたので、大阪城跡に市民が出入りする事は禁止されていました。

大阪市民は、大阪のシンボルである天守閣の復興を願っていましたが、1930年代と言えば、世界恐慌の真っ只中軍部の重要な場所を市民の観光の地に提供するなど、考えられない時代でした。

そこで、大阪市民のとった行動は・・・「新司令部庁舎の建築費と、周辺整備を含めた天守閣の建設費のすべてを、大阪市民の寄付でまかなう」という物でした。

さすがの軍部も大阪人の心意気に負けたのか、昭和六年(1931年)、266年ぶりに大阪の空に天守閣がそびえ建つ事になったのです。
それが、現在の大阪城・天守閣です(11月7日参照>>)

Oosakazyousaikennatunozincc その外観は大阪市民の希望により、黒田家に伝わる『大阪夏の陣屏風』に描かれている豊臣時代の大坂城の絵を参考にして再現されました。

私も、大阪城のすぐ近くで生まれ育ったので、その気持ちがよくわかるのですが・・・いまさら徳川家康さんを怨む気持ちはさらさらありませんが、やはり再建するなら太閤さんの大坂城を・・・と思ってしまいます。

首都が江戸にありながらも、天下の台所として経済の発展を遂げた大阪の町の基礎を作ったのは、やはり太閤さん・・・そこは譲れないんですよねぇ。

そんなこんなで、再建された天守閣。

再建当時はまだわかっていなかったのですが、昭和三十四年(1959年)に発見された『地中の石垣』と、その翌年に発見された豊臣時代の『大坂城・本丸図』によって、実は、現在表面に出ている石垣や城跡はすべて徳川時代のもので、豊臣時代の遺跡は、その下の地中に埋もれている事がわかりました。
(発見の経緯などは、本家HP:大阪歴史散歩「秘密の大阪城」に石垣の写真つきでupしていますので、くわしくはコチラからどうぞ>>

ですから、現在の大阪城は、奇しくも「徳川の石垣の上に豊臣のデザインの天守閣が建つ」という、本人たちの意図しない夢のコラボとなっているわけです。

よく、大阪城を訪れた観光客のかたが、鉄筋コンクリート造りの現在の大阪城を見て「大阪城は城ではなく、城の形をした博物館だ」とか「復元するなら、ちゃんとした復元をすればいいのに・・・これならビルと同じだ」と、おっしゃる場合があるのですが、地元民の一人として、声を大にして言いたいのです。

上記の通り、昭和六年当時では、屏風に書かれた外観しかわからず、それ以外の部分の復元はしようにもできなかったのです。

それでも、太閤さんの錦城(きんじょう)を再建したかった大阪市民の熱い思いを察してくださいませ。

ところで、今日の記事のタイトルにもなっている不思議なお話・・・。
秀吉さんのご命日に雷が落ちた・・・では終らないのです。

先ほども書きましたように、徳川が二代目大坂城を建てた寛永三年から、天守閣が焼失した寛文五年まで、わずか40年足らずの間に、詳細な記録が残る上記の2回を含め、かなりの数の落雷が大阪城を襲っています。

・・・にも、かかわらず昭和六年に再建された現在の天守閣は、この76年間、一度も落雷の被害を受けていないのです。

それどころか、このあたり・・・太平洋戦争中は、東洋一の軍事施設でしたから、戦争末期にはB29の集中攻撃を受けた場所なのですが、ご覧のように、その戦災からもまぬがれています。
(すぐそばに爆弾の跡はありますが・・・)

終戦直後は、「焼け野原の向うに、大阪城だけがスクッと建ってた」のだとか・・・

大阪市民が建てた豊臣デザインの天守閣・・・あの世の秀吉さんは、どうやら、今の天守閣を気に入ってくれはったようですね

Oosakazyousaikencc
現在の大阪城・・・徳川の石垣に、ビル群を背にした誇らしげな勇姿は、まるで十勇士を従えた真田幸村のようです。
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2007年8月17日 (金)

コックリさんの意外な真実

 

暑い暑い・・・どこもかしこも最高気温の記録塗り替えで、超ダルダル。
こんな日は、ひんやりするコワイ話を・・・と、言いたいところですが、実は「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的なお話です。

それは、「コックリさん」についてのお話・・・

コックリさんと言えば、小中学生の頃には、一度は通るはしかのようなシロモノ・・・。
皆さんも、きっとその頃に一度はやった事があるんじゃないでしょうか?

もちろん、一度と言わず、やった事のある人は、何度でもやった事があると思いますが・・・。

・‥…━━━☆

コックリさんとは・・・
テーブルの上に、「はい・いいえ・わからない」「1~0の数字」「あ~んの50音」を書いた紙を置いて、その紙のうえに10円玉を置き、そこに参加者全員の人差し指を置く。

そして、「コックリさん、コックリさん、おいでください」と呼び出した後、何か質問をすると、勝手に10円硬貨が紙の上を動き、文字や数字の上を行き交い、答えてくれる・・・だいたいこんな感じですね。

ほとんどの方がご存知のように、コックリさんにはコワイ話がついて回ります。

硬貨が勝手に動くのは、降霊によるもので、終った後「コックリさん、コックリさん、ありがとうございました、お帰り下さい」と言っても、霊が帰らず、その場にいた誰かに、あるいは全員にとり憑いてしまうとか、使った硬貨を持っていると不幸になるとか、使った紙は燃やさなければ持っている人が自殺するとか・・・。

これは、コックリさんが「狐狗狸さん」と表記される事によって、狐と狸が合体したような、妖怪あるいは下級な動物霊と思われている事による物でしょう。

狐や狸のイメージがついて、日本古来の稲荷信仰や、もともと狐の持つ神秘的な、あるいは霊的な雰囲気から、コックリさんを日本古来の霊的儀式のように思っているかたもおられるでしょうが、コックリさんの歴史は意外にも、そんなに古くはないのです。

もちろん、日本はもともと「記紀神話」という神話を持つ神の国ですし、古来より「神がかり」「憑依」などと言った「降霊術」のような儀式があった事は確かですが、コックリさんは、それらとはまったく別の物なのです。

こういうコワイ話、不思議な話は、本当は不思議なままにしておいたほうがロマンがあって良いのかも知れませんが、本当に怖くなって「何もかも手につかない」なんて人がいたらお気の毒なので、あえて書かせていただきます。

なぜなら、コックリさんの歴史を紐解くと、コックリさんが狐でも狸でもない事が明らかで、まさに、冒頭に書いた「幽霊の正体見たり・・・」ってな感じの話になってしまうからなのです。

それは、明治十七年(1884年)、増田英作という人が留学先のアメリカから、「テーブルターニング」なるゲームの道具を持って帰って来る事に始まります。

もちろん、これには諸説あって、豆・下田にやって来たアメリカ人の船員が伝えたという話もありますが、いずれにしても、明治のこの時期にアメリカから・・・というのは、ほぼ確実なのです。

なぜなら、伝わってすぐに、アメリカからやって来たニューゲームとして大流行した事が新聞記事として残っているからです。

当時は小さな竹を3本組み合わせて土台のような物を作り、その上に飯櫃(めしびつ)の蓋や、お盆などをのせ、さらにそのお盆の上に手をのせて、質問するとお盆が動く・・・という物。

あまりの流行に、人々が加熱しすぎて、ゲームのルールを教える「伝授所(碁会所みたいなものでしょうか?)や、専用の竹を売る店に対し、警察が取り調べを行う・・・といった騒ぎにまでなっています。

欧米では、この「テーブルターニング」だけでなく、「ウィジャ盤」「プランセット」などと呼ばれる同様の遊びが古くからあって、いずれも本物の降霊術とは一線を画した、遊びとして流行していた物です。

それが、日本に伝わって「コックリさん」と呼ばれるようになったのですが、その語源については、「うなずく」という意味の「こっくり」

あるいは、土台の竹が「こっくりと動く」という意味の「こっくり」

・・・などとも言われますが、最も有力なのは、「道理を告げる」という意味で「告理」と呼ばれたというあたりではないでしょうか。

それは、日本に伝わった時、最初に流行したのが「花柳界」・・・つまり芸者さんとのお座敷遊びとして流行したからです。

先の警察沙汰になったという一件も、実は京都のお話・・・京都の舞妓さんや芸者さんが名付け親だとしたら、海の向うからやって来たニュー感覚のゲーム「告理」に、「さん」をつけて「告理さん」と呼びそうな気がします。

とにかく、最初の時点では「アノ字」ではなかったコックリさんが、一般に広がるにつれて、いつしか「狐狗狸さん」という当て字があてられ、あたかも、日本古来の妖怪か動物霊のように、不気味な物、怖い物へと変化していったのです。

では、なぜ?実際に紙の上に置いた硬貨が動くのでしょう?
それは、心理学でいうところの、「潜在意識」

有名なフロイトも人には必ず潜在意識が存在するとしていますし、同じく有名なユングも、人間の心の中は「氷山」のような物で、意識している部分が海の上に出ている部分、海の下には、その何倍もの無意識の部分が隠れているとしています。

その無意識が、「潜在意識」と呼ばれる物です。

その潜在意識は、願いをかなえようとする時に、大きく発揮されると言います。

たとえば、大好きな片思いの相手・・・「ふられたらカッコ悪い」と思って、誰にもわからないようにしていたはずなのに、友達にバレちゃった・・・なんて経験はありませんか?

それは、あなたが無意識のうちに、彼(彼女)に自分の良いところを見せようとしていたり、無意識のうちに自分の気持ちを相手に伝えたいと思った事で、いつもしない行動を、やはり無意識のうちにとっているからなのです。

「マーフィーの法則」で有名なマーフィも、「欲しい物があれば、それを手にした時の自分をイメージしなさい。そうずれば、いずれ、それはあなたの物になるでしょう」と言っています。

「人は、無意識のうちに、願望を実現しようという行動を起こす」という事です。
そう、「イメージトレーニング」です。

スポーツの世界で特に重要視されているイメージトレーニング・・・スポーツは、いちいち考えているヒマなどありません。

球技ならボールの動き、格闘技なら相手の動きに対して、瞬時に、無意識のうちに行動を起こさなければ、遅れをとってしまいます。
だからスポーツの世界では、イメージトレーニングが重要なのです。

もちろん、コックリさんをやった後の一連の出来事にも潜在意識が働いています。

昔からある「呪い」というもの・・・この呪いの成功例のほとんどが、呪われたほうの人が「自分が呪われている」という事を知っている・・・とういうのがあります。

知っているから、無意識のうちに恐怖を感じ、悪い方向へ行ってしまうのと同じように、コックリさんなる物が霊だと思い込んでいるためにそうなってしまうのです。

以上が心理学での推理。
それと、もう一つ、硬貨が動く事に関しては「人間の身体の構造上の問題」というのも見逃せません。

人間、「長時間、微動だにせず、同じ体制でじっとしている」という事がいかに難しいかは、説明しなくてもわかりますよね。

最近は、エコノミー症候群なんて言葉も耳にするようになって、長時間同じ体制でいる事が身体にとっても、よくない事は充分ご承知でしょう。

まして、10円硬貨という物に、人差し指の先っぽだけつけて、それも、けっこうな圧力をかけているわけですから、動かないでいるほうが難しいのではないですか?

ですから、「こっちに動いてほしい」あるいは「こっちに動くんじゃないか」という潜在意識と、同じ体制でいる苦痛とが相まって少しずつ動くのだと思います。

もちろん、今日のお話は、霊の存在を否定する物ではありません。

プロフィールに書いてある通り、私は、不思議な事、未知の世界の事が大好きです。
大好きだからこそ、本当の事とそうでない事をはっきりさせておきたいのです。

ある程度の恐怖によって、人間の脳はアドレナリンを放出し、心地よい気分にさせてくれるのは確かです。
そういう意味で「怖い話=スリル」は必要です。

また、人が不安にかられた時に、心をおだやかに、安らかな気持ちにさせてくれる宗教も必要です。

そして、たとえ、目に見えない物、現実には存在しない物であっても、「楽しい」「ウレシイ」「心地いい」など、それらで受けた感情に対して、与えた人と受けた人の間に、それ相当の報酬が生まれる事は当然の事です。

ただ、やたらと人の恐怖心をあおり、半ば脅かして、高価な物を買わせたり、法外な鑑定料を取ったり・・・という類のものが、私は、あまり好きではないだけです。

もちろん、今日のお話を信じる、信じないも、あなたしだいでございます。

Kokuricc
今日のイラストは、
『さぁ、アドレナリンを放出してください』って感じのコワ~イ絵にしてみました。

えっ?まだ怖さが足りませんか?
これ以上は、描いてる私が怖いです~。
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2007年8月16日 (木)

北闕天を望みたい~後醍醐天皇の最期

 

延元四年・暦応二年(1339年)8月16日は、後醍醐天皇のご命日・・・という事で、今日は後醍醐天皇のお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・

Godaigotennoucc第91代・後宇多天皇の第2皇子であった尊治(たかはる)親王が、先代の第95代・花園天皇の譲位を受けて後醍醐天皇となったのは、文保二年(1318年)・・・31歳という「おくればせながら・・・」という年齢に達していた時でした。

しかし、彼の即位は、皆に100%望まれたものではありません。

後醍醐天皇が即位する前年に行われた『文保の和談』という会議の中で「天皇の即位は兄・後二条天皇(第94代)の遺児・邦良(くによし・くになが)親王が成人するまでの長くても10年間だけで、退位後に天皇の子孫が皇位を継ぐ事はない」という条件が決定された「条件つきの即位」だったのです。

しかし、彼には大いなる理想がありました。
それは「延喜・天暦の治に帰れ!」というもの。

延喜・天暦というのは、延喜年間(901~23年)と天暦年間(947~57年)の事で、醍醐天皇村上天皇が政治を行っていたいた時代の事です。

彼は、その時代を理想の時代とし、そのあこがれから、「自ら後醍醐天皇と称した」という話もあるくらいです。

その時代は平将門(2月14日参照>>)藤原純友(6月20日参照>>)が大暴れした時代で、必ずしも理想とは言えない時代なのですが、武家の力が強大になり過ぎた今となっては、摂関政治が途切れて『延喜式』(2011年12月26日参照>>)『日本三代実録』などの成立に見られるように、少なくとも天皇自らが政治を行った時代であったのです。

そう、彼の理想は、摂関政治でもなく、院政でもなく、武家政治でもない、天皇自らが采配を振る政治だったのです。

その理想を実現するためには、まずは、鎌倉幕府の存在が目の上のタンコブなわけですが、なんせ彼には時間がありません。

10年という条件をつけられちゃってますから・・・。

まずは、当時、院政を行っていた彼の父・後宇多法皇に院政のストップを要請・・・その後、北畠親房(ちかふさ)吉田定房(さだふさ)といった有能な人材を登用し、記録所を復活させ、天皇自らの政治の実現に向けて進み始めます。

その間にも、『無礼講』と称する会合や、『朱子学講座』など、同志が集まりそうなイベントを開いちゃぁ、密かに鎌倉幕府の打倒計画を練っていましたが、そんなもん、いつかはバレます。

案の定、正中元年(1324年)に密告者によって計画が露見し、彼の側近・日野資朝(すけとも)佐渡へ流罪となってしまいます。(9月19日参照>>)

しかし、まだ諦めません。
息子の護良(もりよし・むねなが)親王と、宗良(むねよし・むねなが)親王を通じて寺社を味方にするように画策し、側近の日野俊基に命じて、各地に散らばる領地を持たない無頼の武士たちを集め、再びチャンスを待ちますが、これまた側近の密告によって発覚してしまいます。

この時は、紙一重で、笠置山に逃走し、夢のお告げで知り合った無頼の親玉・楠木正成とともに挙兵します元弘の変:9月28日参照>>)が、あえなく失敗し、隠岐へ流されてしまいます。

当然、次の天皇が擁立される事になりますが、しかし、例の邦良親王がすでに病気で亡くなっていたために、持明院統(第88代・後嵯峨天皇から枝分かれした後醍醐天皇とは別系統の天皇家)量仁(かずひと)親王光厳(こうごん)天皇として即位します。

これで、後醍醐天皇の夢は、一旦、潰えたがに見えましたが、どうしてどうして、護良親王と楠木正成が挙兵すると、絶好のチャンスとばかりに隠岐を脱出。

同時に、幕府側だった足利高氏の寝返り(4月16日参照>>)、反幕府の思いを秘めていた東国の新田義貞の挙兵という、強い味方を得た後醍醐天皇は、元弘三年(1333年)ついに北条氏を滅亡へ追い込み、鎌倉幕府を倒す事に成功しました(5月22日参照>>)

京の都に戻った後醍醐天皇は、光厳天皇の廃位を宣言し、自らが理想とした『建武の新政』を、半ば強引に推し進めます(6月6日参照>>)

彼の理想は天皇中心ですから、その『建武の新政』というのは、当然の事ながら、今までの法慣習も無視して、すべての事に天皇(自分)が判断を下すという物でしたが、その結果は、偽綸旨(にせりんじ・にせの天皇の命令書)が横行し、治安は悪くなりまくり。

しかも、公家を重視し武家を無視した事から、人材の登用もメチャクチャで、仕事も出来ない人間が位ばかり高く、エラそうにして何もやらない・・・といった散々な結果となります。

さらに、鎌倉幕府討伐に力を発揮した、尊氏(高氏から改名)や義貞をはじめとする武士たちには、まともな褒美がないばかりか、大内裏(天皇の住居)の建築という負担までかけようとします。

建武の新政からわずか2年後、ついに足利尊氏がブチ切れ、反乱の鎮圧に向かった鎌倉で後醍醐天皇に反旗をひるがえします。

楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言しますが、天皇はこれを無視し、来るべき湊川の戦い(5月25日参照>>)へと突入し、正成は討死・・・その合戦では逃走した義貞も越前で敗死(7月2日参照>>)してしまいます。

押し寄せる尊氏軍に対して、一旦逃走した後醍醐天皇でしたが、『三種の神器』を、尊氏が新しく擁立した光明天皇に返して何とか和解。

しかし、すぐに、京を脱出し、「あの三種の神器はニセモノだよ~ん」と主張して、吉野の山中で、朝廷を開きます。

京にある朝廷(北朝)と吉野にある朝廷(南朝)・・・そう、南北朝時代の始まりです。

建武三年・延元元年(1336年)のこの日から、一つの国に二つの朝廷という奇妙な形は、57年間続く(10月5日参照>>)事になりますが、北朝に対してどうしても劣勢だった南朝・・・。

そんな中の延元四年・暦応二年(1339年)、病に倒れた後醍醐天皇は、息子の義良(のりよし)親王(後村上天皇)に皇位を譲った翌日の8月16日吉野金輪王寺で亡くなりました。

享年52歳。
左手に法華経第五巻を持ち、右手には剣を持って・・・
「玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも魂魄(こんばく・たましい)は常に北闕天(ほっけつてん・北にある宮城の門の方角)を望みたい」
これが、天皇最後の言葉だったとか・・・

精力絶倫で何人もの后を娶り、抜群の行動力と強い意志を持ち、不屈の精神で理想を追い求めた後醍醐天皇の目は、やはり、その最期の時も、北の都を睨んでいたに違いありません。
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2007年8月15日 (水)

なら燈花会&ライトアッププロムナードに行ってきました~

 

昨日、「なら燈花会」「ライトアッププロムナード・なら2007」へ行ってきました~。

Naratoukakaitouroucc 「なら燈花会」というのは、奈良公園を中心に、毎年行われている夏の風物詩で、約1万本のろうそくが奈良公園の六つのエリアを幻想的に浮かび上がらせるという物です。

ゆっくりとそぞろ歩きながら、夏の夜風に吹かれていると、やがて見えてくるライトアップされた建物の数々・・・。

この寺院の伽藍をライトアップするイベントが「ライトアッププロムナード・なら」というイベントで、こちらも毎年開催されています。

・‥…━━━☆

この二つが昨日は同時開催・・・という事で、小さな灯籠の道筋や公園のライトアップと、寺院の建物のライトアップが同時に楽しめるのです。

★浮見堂と鷺池エリア
Dscn5838cc
写真の中の手前の方にボ~ッと写っているのはボートです(おやじギャグ炸裂!)

鷺池には、貸しボート屋さんがあるのですが、燈花会の昨日は、そのボートにもちょうちんが灯され、乗っている人たちも幻想的でしょうが、岸から見ているコチラ側も、とても幻想的な気分になります。

★浮雲園地エリア
Dscn5860cc
新公会堂前の浮雲園地と呼ばれる広場は、メイン会場とも言える場所・・・1万本のろうそくのうち、4000本がここにあります。

ここまでの数になると圧巻です。

Naratoukakaitourou1cc さきほどから「ろうそく」「ろうそく」と書いていますが、この「ろうそく」は、直系10cmに満たないくらいの小さな筒状中に灯されていて、灯籠のようになってます。

浮雲園地のエリアでは、当日のボランティアを含め約150人のスタッフが、夕方の6時45分から一斉に火をつけるのだそうです。
その労力たるや・・・スゴイでしょうね。

★猿沢池と五十二段エリア
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池のまわりにしつらえられた燈花会のろうそくと、その水面に浮かびあがる興福寺五重の塔・・・池と興福寺をつなぐあの昔ながらの五十二段にも灯りが灯されます。

まだまだ、ライトアップされた五重の塔とろうそくのコラボが楽しめる興福寺エリア
明治時代の洋館・奈良国立博物館のライトアップと楽しむ博物館エリア
迷路のような春日大社の杜(もり)・浅茅ヶ原(あさじがはら)に竹灯りが灯る浅茅ヶ原エリアがありますが、時間の関係上、全部は回れませんでしたので、来年も、また行ってみたいです~。

残念ながら「なら燈花会」は、昨日14日が最終日。

しかし、建物のライトアップのほうのライトアッププロムナード・なら2007」は、10月31日まで行われていますので、まだまだ大丈夫です。

今後、行かれるかたのためにライトアップされている場所をご紹介しておきますと・・・
Naratoukakaikoufukuzicc●猿沢池
●興福寺・五重塔→
●春日大社・一の鳥居
●奈良国立博物館・本館
●浮見堂
●円窓亭
(まるまどてい)
●仏教美術資料研究セ
●奈良県新公会堂ンター
●東大寺・大仏殿,中門,南大門↓
Naratoukakainandaimoncc

以上が奈良公園内で、それ以外にも・・・
●薬師寺(西の京)
●朱雀門
(平城宮跡)
がライトアップされます。

時間は19時~22時、9月以降は18時~22時となります。

ちなみに今日15日は、
高円山に大きな「大」の文字が浮かび上がる『奈良大文字送り火』
年に一度、大仏殿の窓が開かれ、中門から大仏殿の中におられる大仏様のお顔が拝見できる『大仏殿万燈供養会』があります。

連チャンはしんどいかな~(^o^;)
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2007年8月14日 (火)

ペルセウス座流星群によせて~平安時代の流れ星

 

ここ、何日間が話題の『ペルセウス座流星群』

8月13日の昼間が、その極大という事で、本当は昨日に書かないといけない話題なんですが、昨日はお盆のお話を書いてしまいましたし、「極大の前後数日間はバッチリ観察できる」という事なので、今日、流星のお話をさせていただきます。

・‥…━━━☆

この『ペルセウス座流星群』は、今年だけではなく、毎年、今頃見られるものなのですが、今年は、極大日の13日前後何日間か晴れが続くと見られる事、同じく13日が新月で、月明かりに邪魔されない事から、ひょっとしたらいつもよりたくさん見られるんじゃないか?という事で話題になっているんです。

この『ペルセウス座流星群』は彗星と密接な関係があります。

彗星は、地球やその他一般の太陽系の惑星とは、ちょっと違う軌道で回っています(1月14日参照>>)

彗星は細かい粒子の固まりなので、チリをまき散らしながら太陽のまわりを公転します。

彗星の通り道にまき散らされた細かいチリは、何も無い宇宙空間では、その場に漂っていますが、そこに地球が交差する形で近づくと、チリたちは地球の引力に引かれて一斉に地球に向かってくるわけです。

冬場に見られる『ふたご座流星群』というのも有名ですが、要するに、その時期に、彗星がまき散らしたチリの中を、地球が通る・・・と言う事なのです

そして、地球の引力に引きつけられたチリは、地球の大気圏に突入する時、大気との摩擦で、チリは炎となって燃えるため、地上からは、流れ星として観測できるのです。

この流れ星は、地上から見ると、ある一点から放射状に広がって星が流れていくように見え、今回の流星群の場合は、その一点の方向に「ペルセウス座」という星座があるので、『ペルセウス座流星群』という名前で呼ばれるのです。

おっと!天体好きなので、ちょっと興奮して、流星について語ってしまいましたが、このブログは、一応『歴史系ブログ』(のつもり)・・・なので、「昔の人も、今と同じように流星を見ていた」っていうお話をしましょう。

それは、あの清少納言『枕草子』にあります。

カキ氷(8月5日参照>>)に引き続きまたまた登場の『枕草子』ですが、その中で「星はすばる・・・」のあの有名な文章に続いて「よばい星をだになからましかば」とあります。

この「よばい星」というのが流星の事です。

「よばい星」「よばい」は、例のあの「夜這い」・・・彼がこっそり彼女の家に忍び込んで○○・・・の夜這いです。

以前、【結婚の歴史】(1月27日参照>>)でも書かせていただきましたように、平安時代の頃の夜這いは、最もポピュラーな愛のかたち・・・決して不純なものではありません。

人が寝静まった真夜中に、こっそりと星から星へ飛んでいく流星を、「星の夜這い」と考えたんですね~。
何か・・・いい表現ですね~星の夜這い・・・

また、あまりに人を恋しい恋しいと思い続けると、夜寝ている間に魂が抜け出して、星になって、彼女のもとに飛んで行く・・・それが流星・・・とも考えられていたようです。

しかし、こんな風にロマンチックな感じばかりだとイイんですが、やはり、別の見方もあったようで、同じ平安時代でも「流星と人魂が同じである」という考え方もあったみたいです。

「流星の飛んでいった方向に死人や不幸が起こる」
(そんなもん、見てる人間の立ち位置しだいやないかい!)

「流星が飛び出した家は、魂が抜け出て飛んでいったのだから、必ず誰か死ぬ」
(家から飛び出すという時点で、何かがおこりそうだ←キミの家はペルセウス座か!)

「火の玉(流星)を見てから3日目に人が死ぬ」
(明日あさってくらい大変やな~昨日けっこうな数の人が見てるやろから・・・)

・・・なんて、それぞれの言い伝えにツッコミを入れてしまいましたが・・・
また、
「流星の青いのは人魂なので縁起が悪いが、赤いのは金魂(かなだま)なので、お金が入ってくる」
などと、いう言い伝えもありました。
これは、ちょっと希望的・・・

実際には、流星が大気圏に突入するスピードが速いと青く見え、遅いと赤く見えるのだそうです。

しかし、平安時代には、こんな風に不吉な物と扱われていた流星ですが、江戸時代頃からは、なぜか、流星は幸福をもたらす良い物とされるようになってきます。

例の、「流れ星が流れている間に、願い事を3つ唱えると願いが叶う」というのは、江戸時代頃に生まれた俗説だそうです。

この頃は「色白、髪長、髪黒」って唱えるのが流行っていたそうですよ。

もちろん、それは、この3つが美人の条件だからですが、それなら「美人」の一言にすれば、あと二つ、願いが追加できるのに・・・って、欲ばりな私は思ってしまいますが・・・

ピークは真夜中、まだ間に合います!
ただ今「金持ち、長生き、元気」と、早口で噛まずに言う練習中!

願い事に、この3つを選んだという事は、もう、「美人」はどうでもいい年齢になってしまったという事なのかしら?(^-^;

Ryouseiguncc 今日のイラストは、
こんな風に見えたらいいなぁ・・・という願いを込めて『ペルセウス座流星群』を描いてみました~。

見るコツは、邪魔する光の少ない所で、双眼鏡など使わずに空全体を見渡す感じで・・
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2007年8月13日 (月)

お盆の由来~大文字焼きは巨大灯籠の最終形?

 

今日は、8月13日・・・『迎え盆』

迎え火をして、ご先祖様の霊を迎えて、お供え物を捧げ、盆灯籠をともして、16日にお送りするまで、ご先祖様を祀る、一連の行事『盂蘭盆会(うらぼんえ)始まりの日です。

この『盂蘭盆』の由来が書いてある『盂蘭盆経』によると・・・お釈迦様の十大弟子の一人・目蓮尊者(もくれんそんじゃ)が、その神通力を使って、亡き母が今どうしているかを垣間見た事に始まります。

・‥…━━━☆

その時、目蓮が見た母は、餓鬼道に落ち『倒懸(とうけん)の苦しみ』を受けていました。

『倒懸の苦しみ』とは、「逆さづりにされたような苦しみ」という意味で、これをサンスクリット語(梵語)『ウランバーナ』という所から、それを漢字表記した『盂蘭盆』となり、一般的には、略して「お盆」という名で呼ばれるようになりました。

・・・で、目蓮は先ほど見た苦しんでいる母を、何とか救えないものか?お釈迦様に相談してみますと、お釈迦様は「夏の修行の終る旧暦の7月15日に、僧たちに施し(ほどこし)をすれば、現世の父母は長生きをし、過去七世の父母は餓鬼の苦しみから逃れられるであろう」と、おしゃったのです。

この「仏教の教え」と、日本古来の「先祖崇拝」の信仰が相まって、祖先を祀る事によってご先祖様との精神的結びつきを強め、「現世に生きる者たちを守っていただこう」という観念から現在の「お盆行事」のような形になったのです。

お寺によっては、『聖霊祭』『魂祭』という名称で呼ばれ『盂蘭盆会』『施餓鬼会』などの行事が行われたり、『閻魔の斎日』(7月16日参照>>)として「地獄図」を掲げて参拝したり、各家ではお墓参りをします。

そして、お盆の各行事は、各家々でおこなっていた個人的な行事から、団体の行事になるにつれて、様々な形に成長していきます。

ご先祖様の霊を迎える『迎え火』は、ある場所では『火祭り』となり、ある場所では、たくさんの灯籠を灯す『万燈(灯)会』となり、たくさんの『提灯(ちょうちん)を灯す所もありますね。

16日は『送り盆』と呼ばれ、今度は、あの世へ帰っていくご先祖様を見送る『送り火』が灯されます。

精霊は、川を下ってあの世に帰ると考えられているところから、送り火の一種として、『灯籠流し』や、お供え物を流す『精霊流し』なども行われます。

もちろん、迎え火と同様の『万燈会』も行われ、この万燈会の灯籠が戦国時代頃から徐々に大型化されるようになり、時には2mや3mといった大きな灯籠が作られるようになります。

その最大規模のものが、『京都五山の送り火』・・・通称『大文字焼き』と呼ばれるアレです。

その証拠と言ってはなんですが、「妙」の文字が点火される山の名前は「万灯籠山」「船形」が点火される山は「灯籠山」という名前です。

慶長八年(1603年)の公家の日記には、すでに、五山の送り火の事が書かれていますので、やはり戦国期の灯籠巨大化と密接な関係があるものと思われます。

ちなみに、あの「大」の文字は「寛永三筆のひとり・近衛信尹の筆である」という説が、すでに江戸時代頃から囁かれていますが、コレという証拠になるものがないので、今のところは不明です。

・‥…━━━☆

「五山の送り火」の観賞スポットをとしては・・・・

やはり、一般に「よく見える」とされている場所には、たくさんの人が詰めかける事になるので、かえって見えない場合もあります。

私の個人的な、見た目の雰囲気で言わせていただくと、やはり「大文字」は一番人気でかなりの人の数ですが、北側にある「妙」「法」は比較的人が少なく、よく見えますし、二つ並んでいるので、とっちかにターゲットを絞れば、かなりいい位置がキープできます。

一番北側の「船形」も、ネライ目で、けっこう間近で見られたりします。

五山全部見るには、京都タワーホテルの最上階という事になりますが、どこも予約制なので、今からではちょっとムリでしょう。

船岡山は鳥居形以外は全部見えますが、一望という事ではありません。
船岡山の西側に立てば左大文字が見え、東側に行けば大文字が見える・・・という感じで、途中には木々があるので一度に見えるわけではありません。
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↑船岡山三角点広場からの左大文字の見た目
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↑建勲神社境内からの大文字の見た目

最初に点火される大文字から順番に「自転車で回れば何とか・・・(若者がよく考える方法)」なのですが、これは遠目のチラ見で、しかも常時全力疾走してギリ間に合うか合わないか?なので、見たという実感がないばかりか、人も車も多い中を、縫うように自転車で走るという危険きわまりない迷惑行為なのでやめましょう。

くわしくは、本家ホームページ「京阪奈ぶらり歴史散歩」で>>(地図が別窓で開きます)

・‥…━━━☆

ところで、ご先祖様が帰る時、「このまま帰るのは寂しいよ~誰かついて来て~」となって、あの世へ道連れにされるかも知れない・・・という考えがあるのをご存知でしょうか?

その発想から生まれたのが『盆踊り』だと言われています。

精霊が寂しがらないように、できるだけ賑やかに、ワ~ッと騒いで踊って、ヤンヤヤンヤのドサクサに紛れて帰っていただく・・・というのです。

ですから、昔の盆踊りは、各家々から出てきて、町内の道を列をなして踊りながら、近くの川まで行き(先ほどの川から帰るという事から)、そこで賑やかな雰囲気のまま「さよなら」をするのです。

それが、いつの頃からか、町内を列をなして踊る徳島「阿波踊り」富山「風の盆」ような行列踊りタイプと、真ん中に櫓(やぐら)を組んで、輪になって踊る輪踊りタイプに枝分かれしたのだと思います。

確かに、「風の盆」胡弓などを使って幽玄な感じがしますが、大抵の盆踊りは太鼓三味線(河内音頭はエレキギターも登場)を使ったかなり賑やかな音楽になっています。

やはり、帰っていく霊が寂しがらないためなんでしょうかね。
やがて、それらは庶民の娯楽の場となっていくのです。

もう一つ、空也上人らがひろめた『踊り念仏』が盆踊りの起源とする説もあります。

今でも、京都の町では、お盆の時期に各町内で、『踊り念仏・六斎念仏』という民俗芸能がいきいきと行われています。

こちらも、やはり太鼓などを使って賑やかに念仏を唱えながら踊ります。
六斎念仏は、お盆を皮切りに、8月いっぱい京都の各地で行われます.。

でも、たとえ、そんな大きな灯籠や大きな火を燃やさなくても、玄関前でそっと灯す心のこもった送り火で、ご先祖様は満足して帰ってくれるものだと私は信じています。

子供のとき、幼いながらも感じた、送り火の炎が消える瞬間の寂しさが、今も忘れられませんね。

「また、来年来てね・・・そして、一年間私を見守ってね」
そんな、ささやかな気持ちが一番大切なのかも知れません。

Gozanokuribicc 今日のイラストは、
『京都五山の送り火を一望』ってな感じですが、もちろん、こんな風には見えません。
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2007年8月12日 (日)

幕末・横浜・フランス兵殺人事件

 

今日のお話は、慶応二年(1866年)・・・て事しかわからないので、とりあえず、夏真っ盛りの今日、書かせていただく事にします。
(もし、日付をご存知のかたがおられましたら、教えてくださいませ)

・・・・・・・・・・

慶応二年(1866年)と言えば、1月に、あの犬猿の仲だった薩摩と長州が同盟を結び(1月21日参照>>)、日本が一気に動き出す年・・・翌年には、あの大政奉還(10月14日参照>>)と王政復古の大号令(12月9日参照>>)が待つ、とにかく、ややこしい時代です。

そんな年の夏、横浜で一つの事件が起こります。

当時、横浜に停泊していたフランス艦隊の乗組(当然フランス人です)数名と、横浜市内のとび職数名とが、白昼、路上で、何が気に入らなかったのか、ケンカをおっぱじめてしまいます。

そこへ、巡業に来ていた力士・鹿毛山(かげやま)が介入・・・

もちろん鹿毛山も、最初は止めに入るつもりでしたが、それはそこ、まだ、江戸の色が消えない時代・・・庶民にはわけのわからない条約で、開国となり、わがもの顔で、街中を闊歩する外国人に、抵抗を覚える人も多い時代です。

しかも、まだ4年前の薩摩とイギリスの一戦(7月2日参照>>)の記憶も生々しく、力士だって、どうしても、日本人の味方をしてしまいます。

その体格と、力にモノを言わせて、揉みあいになってるのを引き離すついでに、バッタバッタとフランス兵を投げ飛ばし、その勢いを見るとび職たちの士気も、跳ね上がり、もう、ムチャクチャの状態・・・。

Yokohamatobiguticc しかし、なんだかんだ言っても、揉みあってるだけなら良かったのですが、一人の亀吉なるとび職が、その勢いのまま、近くにいたフランス兵に飛びかかり、その首に、手に持っていた「とび口」をグサリ!

フランス兵はその場で即死してしまいます。

こうなったら、国際問題・・・まさに4年前の生麦事件(8月21日参照>>)です。

フランス公使・レオン・ロッシュは、「力士の死刑と殺人者本人の斬刑、そして見舞金・70万両」を要求します。

幕府は困惑し、世間は大騒ぎ・・・。

先ほども書いたように、まだまだ外国人への抵抗が大きいこの時代・・・市民はこぞって、この要求を呑む事を反対します。

そんな時、立ち上がったのが、ミナト・ヨコハマで活動していたラシャメンさんたち。
ラシャメンとは、外国人を相手にする娼婦の事(当時は、売春は禁止ではないので・・・)

その頃、横浜には150名ほどのラシャメンがいたと言われていますが、彼女たちは、日頃から定期的に外国人の居住地に通って商売をしていたのです。

なんせ、外国人は、条約によって居住地の外へは出られませんから、そのような女性が必要な血気盛んな男性諸君は、彼女たちが居住地へ出張する事によって、日頃の欲求を解消していたワケです。

・・・で、彼女たちラシャメンは、抗議の意味を込めて、一斉に出張を拒否!したのです。

彼女たちのスト決行に、居住地の男たちは慌てる慌てる・・・居住地全体が騒然とした雰囲気に包まれます。
(そんなに大事なんや~)

そして、幕府が何も言っていないにもかかわらず、居住地の外国人たち自らが、自らロッシュを説得。

先ほどの要求を、「殺人者本人のみの死刑」の1項目に改めさせます。
(さすがに、亀吉さんは殺人を犯した本人ですから、許されはしません。)

やがて、亀吉が処刑となるその日・・・

横浜のラシャメンたちは、そろいの手古舞い姿に身を包み、処刑場の暗闇坂まで、音頭を歌いながら見送ったと言います。

なにやら、上の方のおエライ方々や勤皇の志士と呼ばれる人たちだけで、国が動いてたような感があるこの時代・・・名もなき庶民の一端を見たような気がするお話でした。
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2007年8月11日 (土)

長宗我部元親の安芸城攻略作戦

 

永禄十二年(1569年)8月11日、土佐の統一を狙う長宗我部元親が、土佐東部を治める安芸国虎を攻撃し、安芸城が開城されました

・・・・・・・・・

織田信長がやっとこさ稲葉山城を手に入れ(8月15日参照>>)、その横では今川北条武田が入り乱れ、西は西で毛利大友が領地を奪い合う・・・未だ誰が突出するという事のない、まさに、群雄割拠の永禄年間(1558~69年)の後半頃。

四国・土佐(高知県)では、あの猛将・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、まさに破竹の勢いで勢力を拡大しつつありました。

土佐の中央部をほぼ手中に収めた元親は(4月7日参照>>)、東部の安芸に狙いを定めます。

永禄十二年(1569年)4月頃、元親は、土佐安芸城(安芸市)を本拠地とする安芸国虎(あきくにとら)に、それとなく降伏を催促する手紙を送ります。

しかし、国虎の安芸氏は、200年以上に渡ってこの地に根を下ろしてしる由緒正しきお家柄・・・たった1通の手紙で「ハイ、そうですか」と、すんなりと国を譲るワケがありません。

手紙の返事をもらえない元親は、「それならば・・・」と、堂々と『安芸討伐』を宣言するのです。

そして7月中旬、元親は7千の兵を率いて、安芸城の間近に迫ります。

もちろん、土佐の闘将・国虎も、指を加えて城を囲まれるのを見ているわけにはいきません。
当然、撃って出ます。

最初の衝突は矢流山で起こりましたが、この戦いは、大勝とはいかないまでも、長宗我部軍が安芸軍をけちらし、少し本拠地の安芸城寄りの東へ向けて駒を進めた形となりました。

しかし、ここから先は、元親の破竹の勢いが復活します。

安芸城の手前にある新荘城安内(あなない)といった支城を、次々と攻略して行き、徐々に国虎を窮地に追い込んでいきます。

やがて、7月も終わりに差し掛かる頃、長宗我部軍は安芸城を包囲します。

しかし、元親は、まだ力まかせに城に攻め入る・・・という事はしませんでした。

それは、以前から仕掛けておいた計略の成果が、ここに来て徐々に出始めていたからです。

元親は、今回の出陣をする以前から敵方の情勢を探り、国虎に不満を抱く臣下の者たちに恩賞をちらつかせて、こちら側に内通するように誘いをかけていたのです。

内通者の数も増え、城の守りの薄い箇所を聞き出した元親は、「チャンス到来!」とばかりに、8月に入って、一気に安芸城に総攻撃をかけます。

もちろん、総攻撃と言っても、聞き出した守りの薄い所を集中的に攻撃します。

ズルいっちゃーズルいやり方ですが、なんせ戦国ですから・・・キレイな方法にこだわっていたらこっちが危ないですからね。

さすがに、こうなってしまっては、国虎も、「もはやこれまで・・・」

永禄十二年(1569年)8月11日土佐安芸城は開城されました。

安芸氏当主・国虎は、城下にある安芸氏の菩提寺・浄貞寺で切腹・・・200余年にわたって安芸を支配してきた安芸氏はここに滅亡する事となりました。

こののち、高岡幡多といった土佐の各地を攻略した元親は、天正三年(1575年)7月、甲浦(かんのうら)(東洋市)を落とし、念願の土佐統一を成し遂げるのです。

Tyousokabemototikaakicc
今日のイラストは、
意外(失礼・・・)に大人気の長宗我部元親さんで・・・

高知にある銅像は、かなりカッコ良いですが、イラストは動きのある『長宗我部元親・安芸を制す!』って感じで勇猛な姿を書いてみました。
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2007年8月10日 (金)

東海道は五十七次!~道の日にちなんで

 

8月10日は『道の日』

大正九年(1920年)に日本初の近代的な道路整備計画が決定した事を記念して、当時の建設省が、昭和六十一年(1986年)に制定したのだそうです。

そして、今日は「や(8)(10)の語呂合わせから『宿の日』でもあるのだそうです。
こちらは、国観連日観連など宿泊観光関連の4団体が平成四年(1992年)に制定しました。

・・・で、今日は『道の日』『宿の日』にちなんで、『東海道五十七次』のお話をさせていただきます。

・‥…━━━☆

「えっ?東海道は53次じゃないの?」
と、お思いでしょう。

安藤広重の版画や十辺舎一九『東海道中膝栗毛』などで、東海道はお江戸・日本橋から京都・三条大橋までの53次・・・と紹介されている事から、『東海道五十三次』と一般的に思われていますが、それは、あの天下分け目の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)までの事なのです。

徳川家康は、事実上、豊臣家五大老の筆頭となった関が原の合戦の翌年・慶長六年(1601年)に、かつて豊臣秀吉が整備した『京街道』と呼ばれた道を東海道の一部とし、4つの町を正式な宿場町に定めています。

宝永年間(1704年~11年)には、「江戸から大坂の距離137里4町1間をもって東海道と呼ぶ」という事が明記され、幕府の公式文書にも、「東海道は品川宿から守口宿まで」との記述があり、道中奉行の支配下にある事も定められていますので、江戸時代を通じて、『東海道五十七次』というのが正式なのです。

Mitinohikagiya2kaicc では、まず秀吉が整備した『京街道』というのを見ていきましょう。

天正十八年(1590年)小田原城の後北条氏を倒し(7月5日参照>>)、いよいよ天下統一をはたした秀吉は、文禄三年(1594年)に伏見城の建設を計画します。

それまでの京都~大坂間の交通網と言えば、淀川を上下する水運が定番で、陸路となると、八幡から山崎に入って東高野街道・西国街道を行く淀川西岸の道(光秀の洞ヶ峠参照>>)か、八幡から樟葉枚方を経て飯盛山の麓(家康の伊賀越え参照>>)から・・・と、いずれもかなりの迂回路でした。

秀吉は天正十四年(1586年)、すでにあの難攻不落の大坂城を建てています。

しかも、途中の「淀」には、天正十七年(1589年)に、織田信長の時代に細川藤孝が城主を務めていた納所の城に大改装を加えて、側室・茶々のための淀城も建設しています。

それらの城を行き来するには、当然の事ながら、伏見~大坂間の道路の整備というのが不可欠になってきます。

・・・で、秀吉が伏見城の建設と同時に築いた淀川東岸の堤防道路=文禄堤を、毛利輝元小早川隆景吉川広家らが、さらに修築を加えて文禄五年(1596年)に完成させたのが、京街道・・・という事になります。

正しくは、伏見の寺田屋の西方に架かる「京橋」を起点とし、大坂城の西北に架かる「京橋」までの道程を『京街道』と呼びます。

完成したこの道が、京都⇔大坂間の本街道として、荷物や人々の往来を盛んにしただけでなく、周辺の村々の発展にも貢献した事は言うまでもありません。。

ちなみに、この文禄堤は、京街道という道路としても、淀川の氾濫を防ぐ堤防としても、大変役立つ物でしたが、天下を取ったとは言えど、まだまだ安心できないこの時代・・・軍事的にも重要な役目を果たしていたのです。

それは、「いざという時、枚方以北の堤防を切り、淀川を決壊させ、土地が低い現在の東大阪市のあたり一帯を水没させ、東からの大坂への進入を防ぐ」という事ができるようになっていたというのです。

それを証明するかのように、堤の建設に携わったのが、先ほどの毛利勢を始めとする西国の諸大名に限られていて、東国の大名は一人として関わっていないのです。

実際に、そのように使用された記録はありませんが、いかに、東からの敵を想定していたかがわかりますね。

しかし、秀吉の心配空しく、関ヶ原の合戦は東軍の勝利となり、冒頭に書いたように、天下一の力をつけた家康のもと、京街道は東海道の一部としてさらなる発展を遂げる事になるのです。

Mitinohikouraibasicc お江戸・日本橋からの53次に、伏見宿淀宿枚方宿守口宿の4宿を加えて『東海道五十七次』・・・ただし、この場合は京都市内を通らず大津の次に伏見そして淀・枚方・守口と来て、大坂の最終地点は高麗橋(大阪市中央区)という事になります。

現在の高麗橋のたもとには、『里程元標跡』と刻まれた石碑が立っていますが、これは「ここを基準として各地への距離を示した」という・・・つまり道路標識の「○○まで、あと○km」というアレの基準の場所という事を示しています。

Mitinohibunnrokututumicc 現在、街道の面影を残す場所としては、この高麗橋・・・そして、守口には、今も約700m分だけが残る文禄堤沿いに往年の商家を偲ばせる町並みが残っています。

枚方宿には、先日ブログに書いた船宿・鍵屋(6月30日参照>>)とその周辺に京街道の面影が見られます。
Mitinohihirakatazyukucc 枚方宿は、京と大坂のちょうど中間あたりに位置している事、淀川を走る三十石船の船着場でもあった事で、特に重要視され、徳川の時代は幕府直轄の天領とされました。

 

Mitinohiyodozyouatoccは・・・現在、京阪電車の淀駅から見える石垣を持つ淀城は、残念ながら秀吉が茶々のために建てた淀城ではなく、二代将軍・徳川秀忠が、伏見城の遺構でもって築いた徳川の淀城。
ただし、ここも、あの鳥羽・伏見の戦い(1月2日参照>>)の重要地点となった歴史を持つ城跡です。

Mitinohifusimicc伏見は、秀吉の伏見城のもと城下町として栄えた場所ですが、やはりここも伏見城が徳川の手によって壊されてのち、しばらくは荒れ放題になってしまっていましたが、元禄十二年(1699年)、伏見奉行の建部(たけべ)内匠頭が、三十石船の船着場=京の玄関口として再開発してからは、遊郭や船宿の建ち並ぶ観光都市としてよみがえり、ご存知、坂本龍馬西郷隆盛がかっ歩した幕末の舞台(4月23日参照>>)ともなるわけです。

現在は龍馬や薩摩藩士の常宿として知られる寺田屋や、酒蔵の建ち並ぶ町として、趣のある町並みを残しています。

 
どうでしたか?『東海道五十七次』・・・
たぶん、教科書にも『五十三次』となっていて、これから先もずっと、一般的には53次が正解なのでしょうが、今日のブログを読んで、心の片隅にでも『五十七次』の事をとどめておいていただけたらうれしいです~。

・‥…━━━☆

高麗橋・守口宿・枚方宿・伏見の地図や写真をHPにupしています。

よろしければ、下のリンクからどうぞ
大阪歴史散歩:中之島周辺(高麗橋)>> 
大阪歴史散歩:文禄堤と守口宿>>
大阪歴史散歩:京街道枚方宿へ>>  
京都歴史散歩:伏見周辺を歩く>>
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2007年8月 9日 (木)

野球の歴史は1本のバットから~野球の日にちなんで…

 

今日、8月9日は、「や(8)きゅう(9)の語呂合わせと、高校野球の開催中の期間である事にちなんで、『野球の日』という記念日なのだそうです。

・・・という事で、本日は、日本における野球の歴史など、書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・

日本の野球は、明治六年(1873年)、東京・芝の開拓使仮学校のアメリカ人教師・ベーツさんが、どこから調達したのか、1本のバットと3個のボールを持ってきて「さぁ、キャッチボールをしょう!」と、声をかけたのが始まりだとか。

そして、徐々に人から人へと伝わっていく中、明治十一年(1878年)、初めての野球チームができました。

アメリカ帰りの鉄道技師・平岡熙(ひかる)さんが、鉄道関係者を集めて作った「新橋倶楽部」というチームでした。

しかし、道具はすべて輸入品・・・まだまだ庶民のスポーツとは言えませんねぇ。

明治二十三年(1890年)には、第一高等学校(東京大学・教養学部)野球部が設立され、いよいよ学生野球の時代の幕開けです。

後に、早慶の両校に敗れるまで、一高は花形として野球界を引っ張っていきます。

その一高野球部の中馬庚(かなえ)さんが、初めてベースボールを「野球」と訳したのは明治二十六年(1892年)・・・。

それ以降、明治三十年頃までに、「投手」「取手」「遊撃手」といったポジション名「一塁」「二塁」イニング「1回」「2回」と呼ぶ、などという基本的な用語が次々と造られていきます。

やがて、明治三十年代後半に突入すると、新聞などに野球の記事が掲載されるようになって、細かな用語を使う事が多くなり、「打撃数」「得点」「盗塁」「三度振り」などが登場します。

ちなみに、この「三度振り」というのは、もちろん「三振」の事ですが、昭和の始めに始まった野球中継でも、まだ「三度振り」という言葉が使用されていた事が記録されていますので、けっこう長い間、「三振」ではなく「三度振り」だったんですね。

ちなみに早慶戦の第一回戦は、明治三十八年(1905年)に行われ、2勝1敗で早稲田が勝ったそうですが、この時の応援団の加熱ぶりが凄まじく、暴動が起こりかねない状況になったため、第二回戦は中止となり、それ以降20年間、試合は行われなかったそうです。

どうやら、道頓堀ダイブの熱狂ぶりは近年に始まった事ではないようですね。

やがて大正七年(1920年)、東京・芝浦に「日本運動協会チーム」という職業野球チームができますが、その後の関東大震災で運営が難しくなり、解散の憂き目に遭います。

そして、いよいよ昭和九年(1934年)、読売新聞社正力松太郎さんが、ベーブ・ルースルー・ゲリッグを含む、「アメリカ大リーグ選抜チーム」を、日本に招待するのですが、当時は、「学生はプロのチームと試合をしてはいけない」という決まりがあったため、すでに、ラジオの野球中継(8月13日参照>>)で大人気だった東京六大学の野球チームに、そのまま相手をさせるわけにはいかず、急遽、一時的に「全日本チーム」というのを結成させたのです。

神宮球場を借りるために、表向きはアマチュアという事にしたこのチームは「大日本東京野球倶楽部」・・・後に、「東京ジャイアンツ」と呼ばれるチームです。

当時の主力は、何と言っても沢村栄治投手(さすがの私もこの人の名前は知ってます・・・巨人の星で見た)

当然の事ながら、彼らは、日本には試合をするチームがないため、結成された翌年の2月には、アメリカ遠征・・・という事になり、3ヶ月間で109試合をこなし、74勝34敗1分けという好成績で帰国します。

「このままプロ野球の灯を消すわけにはいかない!今が絶好のチャンス」とばかりに、松太郎さんは、各方面へプロ野球チーム結成の要請をするのです。

そして、その年の12月には「大阪タイガース」が、翌年の1月には「名古屋軍(後のドラゴンズ)「大阪阪急軍」が、という具合に次々誕生します。

この4チームに、「東京セネターズ」「大東京」「名古屋金鯱」の3チームを加えて、「全日本職業野球連盟」が設立されたのが、同じ年・昭和十一年(1936年)2月5日・・・この後、連盟の名称は何度か変わる事にはなりますが、こうして日本のプロ野球リーグが誕生したのです。

文明開化の波の中、一人のアメリカ人教師が、1本のバットと3個のボールで始めた野球というスポーツは、やがて日本全国を魅了し、一勝に笑い、一勝に泣き、数々の名勝負、名選手を生み出す事になるのです。

今日も、群集を呑みこんだあのスタジアムで、一度限りの夢を追う若者たちと、イタズラ好きの勝利の女神が、ステキなドラマを演出してくれる事でしょう。

Yakyuunohicc
今日のイラストは、
『真夏のスタジアム』の雰囲気で・・・

はたしてこの夏は、何王子が出現するやら・・・楽しみです。
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2007年8月 8日 (水)

北陸の関ヶ原・浅井畷の合戦~前田家の存続を賭けて…

 

慶長五年(1600年)8月8日、北陸の関ヶ原と言われる『加賀浅井畷の戦い』がありました。

・・・・・・・・・・・

慶長四年(1599年)、病に倒れた前田利家は、病床に奥さんのまつを呼んで、遺言書を書き留めさせます。

その内容は・・・
「長男・利長は、向う3年間加賀に戻ってはならない。
次男・利政は、逆に金沢城を離れてはいけない。
大坂と加賀の両方に8000ずつ兵を置き、もし豊臣に謀反を起こす者が出たら、利政は即座にその兵を率いて上洛し、利長の兵と合流して戦うように・・・」

というものでした。

ご存知のように、前田利家と豊臣秀吉とは、若かりし頃、ともに織田信長に仕え、家も隣同士で家族ぐるみのお付き合い・・・まさに親友の間柄です。

そんな秀吉が、その前年(慶長三年・1598年)、まだ幼い秀頼を残してこの世を去る時、利家の手を握り「どうか秀頼を守ってやってくれ」と、涙を流しながら頼んだ姿が(8月9日参照>>)、利家には忘れられなかったのです。

やがて、利家が亡くなった後、残された秀頼の(もり)として大坂城にいた利長でしたが、例の武闘派と文治派の豊臣家の内部分裂(3月4日参照>>)と、その亀裂をさらに広げつつ武闘派たちを味方に引き入れ、力を強めていく徳川家康の圧迫に耐え切れなくなったのか?、彼は父の遺言をやぶって、金沢に帰ってしまうのです。

そこを、すかさず言いがかりをつけて来る家康・・・。
「無断で、秀頼の傅役を放棄したのは、豊臣の文治派と組んで、家康暗殺計画を立てていて、彼がその首謀者であるからだ」と言うのです。

利長の行動は、家康に『加賀征伐』の絶好の大義名分を与えてしまいました。

このままでは、謀反を起こしたとして、家康に攻撃され、前田家が滅亡してしまうかもしれません。

夫・利家の死後、尼となって芳春院と号していたまつと息子たちは、相談の上、利家の遺言にそむいてでも前田家を守るという手段に出ます。

それは、家康に対して謀反の気持ちが無い事を証明するため、まつが人質として江戸に入るというものでした。

慶長五年(1600年)5月、まつは江戸へと旅立ち、家康は加賀への出兵を思いとどまる事になるのです(5月17日参照>>)

やがて7月、家康が居座っていた伏見城に、石田三成が攻撃を仕掛け『伏見城攻防戦』(7月19日参照>>)が勃発すると同時に、利長も行動を起こします。

その頃の、加賀南部から越前(福井県)にかけての北陸一帯の大名たちは、豊臣派(西軍)の雄・大谷吉継の誘いを受けたせいもあって、ほとんどの者が西軍についていたので、利長は、まるで自分が家康側である事を、家康本人に証明するかのように、北陸各地の豊臣派の城の攻略にとりかかるのです。

8月3日には、山口宗永(むねなが)加賀大聖寺(だいしょうじじょう=石川県加賀市)を攻略(8月3日参照>>)・・・続いて、その勢いのまま越前へ進攻しますが、「敵の大軍が海からの攻撃準備をしている」との情報をキャッチし、一旦金沢へ戻る事にします。

しかし、加賀小松城主・丹羽長重(にわながしげ)は、彼らの撤退を見逃しませんでした。

撤退を開始した利長の本隊が、小松城近くの浅井畷(あさいなわて)に差し掛かった8月8日の深夜、長重は猛攻撃を仕掛けます。

前日からの雨のため鉄砲が使えない利長隊。
しかも、小松城からは次々と援軍が出陣してきます。

「もはや、これまでか!」
とあきらめかけた時、本隊の苦戦を聞きつけて、殿(しんがり)をつとめていた武将らが駆けつけ、利長全軍が浅井畷に大集合。

何とか、長重軍を撃退し、この日の戦いは利長軍が、かろうじて勝利しました。

やがて、訪れた本番の『関ヶ原の合戦』(9月15日参照>>)・・・利長は、長重との戦いが長引いたため、この本番の関ヶ原には参戦していませんでした。

しかし、この北陸での前哨戦を評価された前田家は、関ヶ原の合戦後、事実上天下を握る事になった家康のもと大幅の加増を受け、ご存知『加賀百万石』の全盛時代へとつながって行く事となるのです。

そして、もう一つ・・・関ヶ原の合戦の時、前田家はお家存続のため、万が一の時のバックアップ作戦をとっていました。

それは、父・利家に「金沢城を離れるな」と言われていた弟・利政の事・・・

彼は、妻を大坂に残したままである事を理由に、豊臣側につく事を表明しながらも、関ヶ原の合戦の当日は居城である七尾城に居て、やはり参戦していませんでした。

戦後、彼は、西軍についた事で、能登の所領を没収され、京都で隠居生活を送る事になるのですが、その没収された能登の地は、兄・利長の領地となるわけで、実質的にはプラマイ0・・・そして、その兄が、京都で暮らす弟を、影ながら援助していたのは言うまでもありません。

そう、利長・利政兄弟とまつは、合戦の勝敗がどっちにどう転んでも、お家が潰れる事のないように、画策していたのです。

情に篤かった利家の思いをうらぎる形になってしまった二人の息子と妻・まつ・・・。

しかし、おかげで、豊臣家の家臣たちが次々と潰れていく中、立派に家を守ったのは、戦国乱世を生き抜く者の知恵でもあり、さだめでもあったに違いありません。

Kagayuuzenumebaticc
今日のイラストは、
前田家の家紋・梅鉢の梅を加賀友禅風に・・・描いてみました~。

前田家は(あくまでご本人の言い分ですが)、あの菅原道真の末裔・・・梅の紋はそこからきているのだそうです。

京友禅の淡い色あいに比べて、藍色やエンジなどの色合いの多い、写実的で落ち着きのある加賀友禅・・・梅の花は季節違いですが・・・
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2007年8月 7日 (火)

万葉集1番の雄略天皇のお話

 

雄略天皇二十三年(479年)8月7日は、第21代雄略天皇が崩御された日・・・という事で、今日は雄略天皇のお話を・・・

・・・・・・・・・・・・

タイトルにありますように、あの『万葉集』一番最初に収められているのが、今日のお話の雄略天皇の歌。

万葉集はだいたい年代順に並んでいると言いますが、450年代に詠まれたという雄略天皇の歌から、次の舒明天皇の630年代に詠まれた歌まで、200年近くも開きがあるのはなんでだろう?という疑問が湧きつつも、とりあえずその歌をご紹介しておきますと・・・

♪籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ
 み堀串持ち この岡に
 菜摘ます児
(こ) 家聞かな 名告(の)らさね
 そらみつ 大和の国は おしなべて吾こそ居れ
 しきなべて吾こそ居べ 吾こそは告らめ 家も名をも♪

「そこの、草を摘んでるキミ・・・名前を教えてよ!
この国は、ボクが治めてる。ボクはこの国の王なんだ!
ほら、ボクが自己紹介したんだから、今度はキミがどこの誰か名乗る番だぞ!」

Yuuryaku600acc ・・・って、ナンパかい!
あの由緒ただしき古典の中の古典『万葉集』の第一番目の歌がナンパする歌とは・・・

しかも、この声のかけ方・・・
口が裂けても「NO!」とは言えない雰囲気です。

この時代、女性が家族以外の人に自分の名前を教える事はご法度で、もし、男が名乗って来て、女が名前を告げたら、それは「家族になる=結婚OK!」っていう意思表示になりますが・・・やっぱ、逃れられないでしょうね~

この大胆な王は、天皇に即位した時も、この上なく大胆です。

兄である先代の安康天皇眉輪王(まよわのおおきみ)刺殺されたと聞くや、即座に行動を開始!

そして、兄の八釣白彦皇子(やつのしろひこのみこ)坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)その事件に関与していると見るや、八釣白彦皇子を斬り殺し、坂合黒彦皇子と眉輪王を焼き殺します。

しかし、安康天皇が、生前、彼らの従兄弟である市辺押磐皇子(いちばのおしはのみこ)を後継者にしたい」と言っていた事を知っていた彼・・・「このままでは、次期天皇の座は回って来ない」と、市辺押磐皇子を大胆にも狩りに誘い出し、持っていた矢で射殺・・・だまし討ちします。

そうやって、すべての邪魔者を消し去って、見事、第21代天皇の座を勝ち取った雄略天皇・・・彼が生まれた時は、宮殿中に光が満ち溢れたという逸話は、そんな事しなくても皇位につけたって事じゃぁないのかい?

そんな、大胆を通り越した彼の暴挙はまだあります。

彼が、目をつけた百済の姫・池津媛(いけつひめ)を、宮中に迎え入れようという時、臣下の石川楯(いしかわのたて)と彼女が、すでにデキちゃってると知った途端、二人を焼き殺すという行動に・・・。

また、狩りに出た時、従者が自分の質問に答えなかった事に腹を立て、その者を斬り殺したと言います。

そんなこんなで、『大悪天皇』なるニックネームを持つ彼・・・。
そんな人にさっきの歌なんぞ歌われたひにゃ、身も凍る思いです~。

しかし、彼はもう一つ『有徳天皇』なるニックネームも持っているのです。

各地に分散した養蚕業を、桑の生育に適した地を調べ、その一箇所に集める事によって、絹の生産効率を高め、経済の発展に尽くしたのです。

その時、天皇の「蚕(こ)を集めよ」という命令を聞いた臣下の者が、最初、間違って子供をたくさん集めてきた様子を見て、天皇は「ちゃうちゃう!」と笑ったと言いますが、先ほどの暴挙からは別人のような光景です。

埼玉県・稲荷山古墳から出土した鉄剣には、『獲加多支鹵(わかたける)大王』の銘があり、当時、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)と呼ばれていた雄略天皇の事であとされ、畿内だけではなく、日本の国土を統一した最強の王との評価も得ています。

また、中国の『宋書(そうじょ)・倭国伝』に登場する、昇明二年に、宋の皇帝・順帝から、倭・新羅・任那(みまな)加羅(から)秦韓(しんかん)慕韓(ぼかん)の六国の軍事を引き受ける『安東大将軍倭王』に任命される倭国「武」という王が雄略天皇であるとも言われています。

こんな二面性を持つ彼は、ひょっとしたら何人かの人物の複合体なのかも知れませんが、何らかの形で実在していた事は確かでしょう。

彼は、死の2年前、丹波の国に祀られていた豊受大神(とようけのおおかみ)を、伊勢の地に遷し、天照大神(あまてらすおおみかみ)の食物の神として祀る・・・という事を行っていますが、これが、伊勢神宮の外宮の起源です。

雄略天皇二十三年(479年)7月、病に倒れた彼は皇太子に後をまかせます。

そして、翌月の8月7日見守る臣下者たちに別れの言葉を言い、その手を握りながら崩御されたと言います。

ただ、やはり大いなる王が心配した通り、その皇太子の即位は、すんなりとはいかなかったのですが・・・そのお話は、2010年8月8日【天皇の後継者を偶然発見!顕宗天皇と仁賢天皇】でどうぞ>>
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2007年8月 6日 (月)

朝倉氏滅亡とともに一乗谷は歴史の彼方へ…

 

天正元年(1573年)8月6日、天下を狙う織田信長が、越前(福井)の戦国大名・朝倉氏を攻め滅ぼした『越前征伐』が勃発しました。

・・・・・・・・・・・

『越前征伐』が勃発・・・と書かせていただきましたが、あくまで、朝倉を滅亡に追いやった直接の戦いである今回の合戦の出陣・・・という事で、朝倉氏とのいざこざの火種はもっともっと以前から、すでにくすぶっていて、今回の衝突はその『最終戦』といったところでしょうか。

その発端は、元亀元年(1570年)の『手筒山・金ヶ崎城の合戦』(4月26日参照>>)
戦いになった原因については、その日のページに書いていますので、そちらで見ていただくとして・・・ともかく、そこで朝倉義景本拠地・一乗谷の目前まで迫りながら、妹・お市の夫であった浅井長政朝倉方への参戦によって、越前の朝倉と近江の浅井に挟み撃ちされる形になった信長は、戦わずして撤退を余儀なくされてしまいました。

そして、その3ヶ月後に、今度はその浅井をターゲットにした有名な『姉川の合戦』(6月28日参照>>)では、浅井・朝倉の連合軍に激戦の末に打ち勝ったものの、それ以上信長が深追いをする事がなかったため、両氏の滅亡にまでには至りませんでした。

おかげで、浅井・朝倉両氏は、その後も本拠地を温存したまま、信長への抵抗を続ける事になります(11月26日参照>>)

両者にうよる小競り合い&ゲリラ戦が続く(7月22日参照>>)中の、天正元年(1573年)8月6日・・・ここに来て、いよいよ信長は、大軍を率いて越前へと進攻を開始するのです。

ただならぬ殺気を感じた義景は、急いで2万の兵を率いて疋壇(ひきた)に向かいますが、すでに織田方の準備はバッチリ!です。

入城の前から攻撃を受けつつも、何とか疋壇城に入った義景を、信長はすかさず、今度は城に向かっての総攻撃を開始。

義景は、その攻撃で重臣の山崎吉家を失い、命からがら、本拠地の一乗谷館に逃げ帰りますが、今度は、そこに火が放たれ、またたく間に館は炎上してしまいます。

何とか館を捨てて脱出した義景・・・。
知り合いをたよって、越前の国内をさ迷い歩く中、重臣・朝倉景鏡(かげあきら)のもとへと向かいます。

しかし、何とその景鏡が寝返り!
近づいて来た主君に攻撃を開始します。

信じていた家臣の裏切り行為によって、義景は、身も心もボロボロになってしまいます。
(そりゃ、そうでしょ・・・。)

失意の中、大野(福井県大野市)にたどり着いた義景・・・8月20日賢松寺(けんしょうじ)というお寺で自刃します。

ここに、五代・100年に渡って越前に勢力を誇った朝倉氏が滅亡したのです(くわしくは8月20日参照>>)

こうして越前にて朝倉氏の最後を見届けた信長は、取って返した北近江にて浅井を・・・という事になるのですが、そのお話は・・・
8月27日【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】>>
8月29日【浅井長政、最後の手紙】>>
で、ご覧いただくとして・・・

今回、歴史の波に呑まれたのは、朝倉氏最後の人=義景だけではありませんでした。

彼の時代に全盛を迎えていた本拠地・一乗谷も、この時、歴史の闇の彼方へと消える事になるのです。

やがて、昭和の終わり・・・その忘れられていたまぼろしの城下町は、発掘調査という形で、400年の長い眠りから目を覚まします。

それから二十年余り、今現在も発掘調査が行われている越前・一乗谷は、次々現れる新発見によって、徐々にそのベールを脱ぎはじめ、生き生きとした戦国の城下町の姿を今に伝えてくれます。

越前の山々を縫うように走る九頭竜(くずりゅう)・・・。

川に沿ってできあがった細い谷に、家臣の屋敷や寺社・町屋がズラリと並び、実に計画的に、機能的に作られたその城下町の中心には、3方に堀が張り巡らされた1町(109m)四方の朝倉館があった事が、その礎石の発掘によって明らかになりました。

また、後方の山には、城下町を見下ろすように、防御用の山城があり、谷間が細くなる町の終端には、石垣や堀が設けられた頑丈な門があり、その扉を閉めると、町全体が要塞と化す造りになっていた事もわかりました。

現在、朝倉館跡には、城門や武家屋敷・町並みが復元され、『日本のポンペイ』とも『生きた戦国博物館』とも呼ばれ、歴史好きならずとも興味をそそられる遺跡として公開されています。

Asakuraitizyoutanicc 今日のイラストは、
現在の一乗谷の写真や、いろんな史料を見て自分勝手に想像して『義景時代の一乗谷を再現』してみました~。

もちろん、本当はもっとたくさんの建物がありますが、これくらいのサイズの絵で、あまりに家を密集させると、ワケがわかならくなりそうなので、こんな感じで・・・。

真ん中にあるのが、朝倉館のつもりです。

私は、まだ現地に行った事がないので、いつか行ってみたいんですが、じっくり見る(山の頂上への散歩も含めて)には丸一日かかるそうなので、今は、まだ心の準備中です。

行く限りはじっくり見たいですからね。

追記:2012年4月10日「一乗谷朝倉氏遺跡」に行って参りました~
 ブログはコチラです>>
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2007年8月 5日 (日)

平安時代のカキ氷~ひんやりスイーツの歴史

 

暑い!暑い!・・・夏真っ盛り~
昨日は夏にぴったりのビールの歴史のお話をしたので、今日は、夏のデザート『ひんやりスイーツ』の歴史のお話をさせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・

冷蔵庫がない昔の時代なのだから、夏にひんやりスイーツというのは・・・と、思いがちですが、日本のひんやりスイーツの歴史は、想像以上に古いです。

『日本書紀』には、仁徳天皇の時代・・・4世紀頃には、すでに奈良の闘鶏(つげ・都祁)『氷室(ひむろ)と呼ばれる氷の貯蔵庫があった事が書かれています。

冬場の凍った池から氷を切り出し、山の麓の日の当たらないような場所に穴を掘り、ワラビの穂が伸びきって毛羽立った物を敷き詰めて、その上に氷をのせて保存したと言います。

この頃は、「氷=こおり」ではなく、「氷=ひ」と呼ばれていました。

ヨーロッパなどで、アレキサンダー大王の時代から、雪を貯蔵していたのと違って、日本の場合は氷・・・天然氷の使用では、当時の日本は、世界一の先進国だったのです。

奈良時代には、すでに氷を売る商売・・・つまり「氷屋」さんが、ちゃんとした商売として成り立っていたと言います。

しかし、もちろんの事ですが、この氷屋は、一部の特権階級の人たちだけのお楽しみで、一般人には縁の無い物でした。

平安時代には、いよいよ『夏場のひんやりスイーツ』としての氷が登場し、氷の貯蔵も本格的になってきます。

宮中には氷をつかさどる役所が設けられ、山城・大和・河内・近江・丹波など、近畿の各地に約540箇所の氷を採取するための池を定めて、21箇所の「氷室」に保存し、4月~9月の間の必要な時に、ちょっとずつ荷車に乗せて運び出すのです。

荷車には、天下御免の向う傷・・・じゃなくて、天下御免の「緋色の旗」がはためき、ノンストップで都まで一直線。

「緋色(←この文字の色が緋色です)というのは、特権階級専用の色・・・今で言えば、パトカーや救急車のサイレンみたいな物か?・・・
これが、走って来たら、人々は道を譲るしかありませんねぇ。

『源氏物語』には、「氷を物の蓋におきて割るとて、もて騒ぐ人」という描写があり、貴族たちの夏の楽しみになっていた事がわかります。

『枕草子』には、「あてなるもの(上品で美しい物)として、「削氷(かずりひ)の甘葛(あまづら)に入りて、新しき鋺(かなまり)に入りたる」と、完全な形のカキ氷が登場しています。

もちろん、現在のような削る機械はありませんから、「削氷」と言っても、削ったというよりは、割ったと言ったほうが良い「かち割り」のような物だったのでしょうが、甘葛というのは、アマチャヅルを煮詰めて作った甘い汁・・・つまりシロップで、鋺というのは、持っただけでもひんやりする銅製のお碗・・・まさに、今のカキ氷と変らない『ひんやりスイーツ』です。

しかし、貴族全盛の時代が終るとともに、この『氷室制度もなくなってしまい、鎌倉時代になってからは、富士山の雪を取り寄せたりしていましたが、それも、建長三年(1251年)、まさに武士の時代の到来とともに、経費節減のために廃止されます。

平安貴族の楽天的なのに対して、鎌倉武士はやっぱりシビアな現実派だったんでしょうね。

Seisyounagonkakigooricc
今日のイラストは、
現在以外では、一番盛んだったと思われる『平安時代のカキ氷』を・・・。

せっかく、あの清少納言に食べていただくなら、やっぱり「今ハヤリのマンゴー味」という事で、マンゴーっぽいシロップのカキ氷にしてみました~。
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2007年8月 4日 (土)

日本初のビヤホール誕生

 

明治三十二年(1899年)8月4日、日本人の手による日本初の『ビヤホール』が誕生しました。

・・・・・・・・・

ビールの歴史は古い・・・。

紀元前1830年頃、メソポタミアに誕生したバビロニア王国

その六代目の王・ハンムラビによって作られたという世界最古の成文法である、あの『ハンムラビ法典』には、ビールを販売する酒場に関する法律が書かれていて、すでに、この頃には、かなり広く普及していた事がわかります。

ただ、やはり、今、想像する酒場のイメージとは少し違って、女性が個人でビールを造り、それを自宅で飲ませる・・・つまり、そのまま自宅が酒場という形式でした。

書かれている法律を見てみると・・・

「ビール代は、銀ではなく、相当の穀物で受け取る事」
「穀物の分量に対してビールの量を減らしてはいけない」

などなど・・・これに、違反すると、水に投げ込まれるそうです。

「酒場に手配中の犯人が来た時には、かくまってはいけない」
この場合は死刑だそうです。

色々モメたんでしょうね・・・お酒の席ですからねぇ。

しかし、そんな酒場も、新バビロニアの時代には、、ビールが大量生産されるようになって、個人経営の女性の酒場は自然消滅し、ビールは大人数で一手に造る・・・という現在とあまり変わらない形になります。

・・・で、そんな古い時代からあるビールですが、日本に伝わるには、やはり幕末を待たなければなりません。

そして、開国をきっかけに、まずは輸入という形でお目見えします。

やがて、明治二年(1869年)ノルウェー系アメリカ人のウィリアム・コープランドさんが、「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」という工場を設立し、居留している外国人や外国船の船員向けに販売を開始したのです。

このビールは、横浜の天沼の湧き水で造られていた事から「アマヌマ・ビアザケ(麒麟麦酒の前身)と呼ばれ、けっこう評判も良かったのですが、コープランドさんはビール工場の成功と引き換えに、愛する奥さんを亡くしてしまい、失意の果てに、ビール工場を他人に譲り、自分はその近くに酒場を開業します。

しかし、その店は外国人相手だったにも関わらず、居留中の外国人は、なぜか寄り付かず、船員相手に細々とやっていましたが、結局すぐに店を閉めてしまいます。

そして、いよいよ明治三十二年(1899年)8月4日・・・日本人の手による日本人向けのビアホール「恵比寿ビール・ビヤホール」が、東京・銀座に誕生するのです。

レンガ造り2階建ての華麗なるこのビヤホールの一番の目的は、日本麦酒株式会社が、すでに明治二十三年(1890年)2月25日に発売を開始していた、自社製品の「エビスビール」を宣伝する事・・・何せ、未だ多くの人がビールを飲んだ事のない時代ですからね。

そして、その目的は、すぐに達せられます。
開店と同時に、押すな押すなの大盛況!

わずか5年後の明治三十七年(1904年)に、東京・芝に「サッポロビヤホール」が開店する事でも、先のビヤホールの評判が高かった事がわかります。

このあたりから、いよいよ本格的にビールは庶民の友となります。

そして、大正時代に入って、「キリンビヤホール」も誕生し、もはや不動の地位を確保したビール業界でしたが、御多分にもれず、戦時下では「大日本麦酒」「麒麟麦酒」の2社に統合されるという憂き目にも遭いながら、戦後には見事復活!

現在でも、なんだかんだ言いながら、「とりあえずビール・・・」なんて注文してる方が多いんじゃないですか?

ところで、ビールの大瓶って何で「633ml」なんてハンパな量なんでしょう?

実は戦前までは、たとえ会社が一緒でも、工場が違えば瓶の大きさが違う・・・中身の量もまちまちで、統一されていなかったのです。

しかし、それまではビールの売上に関わらず、工場の仕込みの釜の大きさによって課税されていた酒税が、戦後、税制が変わって、製品を出荷した時点での量に酒税がかかるようになり、そうなると、各社まちまちでは、どうにもややこしい・・・。

・・・で、瓶の大きさからそろえるには時間と経費がかかるため、とりあえず中身の量を、当時、一番少なかったとある工場の「633ml」に揃える事になって、その量が今もそのまま大瓶の量となっているんですって。

Beercc
今日のイラストは、
『本邦初のビール』という感じで、明治の頃のグラスを再現してみました~。

どうですか?おいしそうに見えますか?
私は、飲めないもので・・・(#^o^#)
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2007年8月 3日 (金)

今も昔も役人天国?大宝律令の役人の年収は?

 

大宝元年(701年)8月3日、刑部(おさかべ)親王藤原不比等(ふひと)による『大宝律令』の編さんが完成しました。

・・・・・・・・・・・

「律令」「律」刑法
「令」は、行政に関する法律の事。

それまでの大和政権では、天皇を中心とする豪族たちによる、(うじ・血縁関係の集合体)が、(かばね・政権内の地位)を朝廷からもらい政治を行うという『氏姓制度』でした。

しかし、遣唐使などから、中国の律令国家の制度がもたらされ、日本も、法律に基づく中央集権・律令国家への道を歩み始めます。

日本最初と言えば、646年の「大化の改新の詔(みことのり)や、668年の天智天皇「近江令」という事になりますが、これらはどうもアヤシイ・・・。

その後も、「大宝律令」が発令されるまでの間には、もう一つ、天武天皇「飛鳥浄御原(きよみはら)令」というのも発令されてますが、どれもこれも、その文章の中に、明らかに大宝律令が制定されてから後に使われ出す官職名などが登場する事から、その「令」自体を疑問視する声も上がっています。

やはり、日本が本格的に勝つ確実に、律令国家として歩み出したのは、この『大宝律令』から・・・と考えたほうか良さそうです。

『大宝律令』の中では、この先の行政の基盤となる『官制』が最も重要でしょうか。
中国に倣った・・・と言っても、神国・日本ですから、政治を行う「太政官」とは別に「神祇官」という祭祀を行う機関が設けられ「二官八省」となります。

Taihourituryoukanseicc 政治を行う「八省」は、・・・
・中務省=公式文書作成
・式部省=役人の人事・教
       育
・治部省=僧尼・貴族・外
       交事務
・民部省=戸籍・税の管理
・兵部省=軍事
・刑部省=裁判・刑罰・身
       分の決定
・大蔵省=財政
・宮内省=宮中の雑務
となります。

そして、何と言っても中国と違うところは、役人の採用方法。
中国は「科挙」のようなメッチャ難しい試験によって採用や登用が決定されていましたが、日本は100%コネでの採用

官位は、正一位~正八位・初位(そい)までの30階で構成されていましたが、一位~三位までを「貴」と呼び、四位五位は「通貴」、六位以下は「非通貴」で、この五位以上と六位以下の間にはメッチャ大きな溝があり、絶対的な区別がされていました。

一般人(・・・と言っても貴族のはしくれですが)は、どんだけ学校の成績がよくても、仕事が出来ても、せいぜい八位どまり、逆に、親が一位~三位の地位にいるとその子供は、21歳で役人になった途端、五位から始まる・・・といった感じです。

以前、このブログでご紹介した吉備真備(きびのまきび)(4月25日参照>>)は、遣唐使として中国に渡り、猛勉強の末、貴重な書物を日本に持ち帰った功績によって、六位下の官位をもらい、その後、右大臣まで出世しますが、そんな例は、彼以外にはほとんど見当たりません。
よほどの天才だったんでしょうね。

この五位以上と六位以下の差は、当然、年収にも関わってきます。

律令国家に欠かせない土地制度に『公地公民の制』『班田伝授法』というのがあります。

『公地公民の制』というのは、「すべての土地は国の物で、決まりにのっとって口分田(くぶんでん)を与える」というもので、その決まりというのが『班田伝授法』・・・で、これが、「6年ごとに戸籍を改め、6歳以上の男女に口分田を分け与えて本人が死んだら返す」というものです。

「6歳以上の男女に・・・」とありますが、全員同じではなく、きっちり差別されています。

Taihourituryouzyouriseicc 貴族と公民を含む戸籍に登録されている(当時600万人くらいいた)良民(りょうみん)と呼び、この良民の男子『条理制(右図参照→)で分けられた土地の2段分が与えられます。
そして、女子にはその3分の2

それ以外の戸籍のない人たちは、賤民(せんみん)と呼ばれていて、良民の3分の1の口分田が与えられたのです・・・って、右図の通り、10段=約108mなら、そのうちの2段の3分の1って・・・7mくらいしかないがな!

しかも、賤民の中で、家人(けにん)と呼ばれる人々は、曲がりなりにも家族として暮らす事ができましたが、奴婢(ぬひ)と呼ばれる人々は、自由に売買され、家族と暮らす事も許されていなかったそうです。(だんだん腹たってきた・・・)

さらに、腹たつ話をしていきましょう。

そうです。
先の「役人」という人たちは、これらの農民から税を取って年収・・・つまり給料を得ていたわけですから・・・。

まず、役人の収入源は、「位田(いでん)」「位封(いふう)」「位禄(いろく)」「季禄(きろく)の4種類です。

「位田」は、五位以上の役人に与えられる田の事で、最低の五位でも8町・・・さっきの一般良民の40倍です。

「位封」は三位以上の役人に与えられる人民・・・これは、人という意味ではなく、その人数が収める税金という事で、三位の場合は100戸でした。

「位禄」は、四位・五位の役人に与えられる大蔵省の倉庫から与えられるお金で、実質的には「位封」と同じです。

・・・で、何と!うれしい事に、この位田・位封・位禄の3つは、役所に出勤しなくても、一生貰えるお給料なのです~(・・・て、ええかげんせぇ!)

さらに、マジメに働いた人(当たり前)には、毎年2月上旬と8月上旬に「季禄」という特別手当が支払われます。

これは、六位以下であろうが、役人なら全員に支払われた給料ですが、半年のうち120日以上出勤していないと貰えません・・・って、一年で240日なら週休2日?

農民は盆と正月もなく働いて、役人は日が暮れる前に退社の時代に、週休2日は休みすぎやろ!

・・・で、「季禄」(あしぎぬ)・綿・布・鍬(くわ)の4種類の物品で、大蔵省から支払われました。

これも、一位の役人は最下位の役人の30倍あったといいますから、役人の中でも格差はあったのですが、さらにさらに、大臣と大納言に任命された人には、「職田(しきでん)」「職封(しきふ)という中身は位田と位封と同じものが別に与えられ、大臣や大納言には三位以上の人しかなれないので、またまたトップが得するシステムとなっております。

そして、(まだ、あんのかい!)五位以上の人には資人(しじん)という公費から人件費がまかなわれる召使い(公設秘書か!)も支給されるのでありがたい。

さらに、改元や即位などの祝い事があるとボーナスも支払われます。

・・・と、書いてても、なかなか具体的にどれくらいなのか?掴みにくいので、正一位の太政大臣(総理大臣クラス)で見てみると・・・
位田+職田=120町
位封+職封=3300戸
資人=400人
季禄=(絁×30匹+綿×30屯+布×100反+鍬×140口)
合計・・・現在のお金に換算すると、年収3億7千万くらいだったそうです。

二位だと1億2千万、三位が7千万で、四位4千万・・・先ほど、五位以上と六位以下の差がスゴイというお話をしましたが、五位が2千800万と、今まで通りの順調な下がりっぷりなのに、六位でいきなり700万(何じゃこの差は?)
七位が500万で八位が350万

官位のところで紹介した一番下の初位は250万くらい。

・・・で、この初位は、大初位(だいそい)少初意(しょうそい)に別れているうえに、さらに上下に分かれていて、今の250万という金額は大初位の年収なので、少初位下という末端になると、さらに低い・・・という事になり、役人と言えども、そこまで差をつけられると、ちょっとかわいそうな気もします。

あの正倉院には「季禄」を担保に借金している下級役人の証文や、同じく下級役人がアルバイトで書いた写経も残っています。
けっこう火の車だったようです。

それにくらべて、上級役人・・・先ほど「三位から上の役人の息子は最初から五位なのだ」「一般人は八位より上に上がらない」という事を書きました。

ですから、この法律ができてからは、一部の家柄の出身者ばっかりが三位以上の地位を独占する事になるのです。

奈良時代を通じて三位より上になったのは、先ほどの吉備真備などの例外を除いては、藤原氏をはじめ、大伴氏橘氏など・・・20足らずの一族だけです。

さすが、藤原不比等が作っただけの事はありますね~。
自分らが儲かるように計算されてますなぁ~。

かつての人気ドラマ『ドラゴン桜』で、主人公の学校の先生が「金持ちになりたいなら東大へ行け!世の中のシステムは頭の良いヤツが、自分たちが儲かるように作っている」と言ってたのを思い出しました~。

ちなみに、地方の国司をやっていた山上憶良(やまのうえのおくら)の年収は千500万くらいで、あの『古事記』を編さんした太安万侶は四位で年収3千500万だったとか・・・そら3千500万もろたら、編さんくらいする!っちゅーねん、けっこう金持ち~。
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2007年8月 2日 (木)

第一次上田合戦・神川の戦い~真田の勝利と石川数正の寝返り

 

天正十三年(1585年)閏8月2日、徳川家康が真田昌幸の上田城に総攻撃をかけました。

・・・・・・・・・

天正十年(1582年)の本能寺の変(6月2日参照>>)織田信長が自刃してから、信濃・上田城真田昌幸徳川家康の傘下に属していました。

しかし、家康の采配で、後北条氏との上野(群馬県)の分割を行った際に、結果的に「昌幸が自力で手に入れた上野の領地を奪われてしまう」形となり、その頃から徐々に昌幸と家康の間に亀裂が生じるようになります。

そして、天正十三年(1585年)7月に、力をつけて来た隣国・越後(新潟県)上杉景勝との関係を丸く収めるべく、昌幸は次男の弁丸(べんまる=後の信繁・幸村)を人質として越後へ送ります。

この行動を、越後への加担・裏切り行為と見た家康は、昌幸の討伐を命令!

鳥居元忠大久保忠世(ただよ)柴田康忠(やすただ)平岩親吉(ちかよし)らと、さらに信州に地の利を持つ武田氏の旧臣を加えた大軍勢を派遣し、天正十三年(1585年)閏8月2日上田城の総攻撃にかかります。

Sanadamasayuki500 しかし、守る昌幸は、小部隊による奇襲攻撃を連発して錯乱する作戦

まずは、敵の大部隊を城壁ギリギリまでひきつけておいて、一斉に鉄砲をあびせかける・・・慌てて退却すれば、はなから迷路のようになっている城下の道には、さらに、ここかしこに柵が設けられ、思うように身動きがとれません。

翻弄された家康・・・すぐには、上田城を落とす事は無理だと判断した家康・派遣部隊は、一旦撤退して態勢を立て直す事にします。

しかし、昌幸は強気!
彼らの撤退を見逃しませんでした。

神川(かんがわ)流域を撤退していく家康軍を追い、猛攻撃を仕掛けます。

同時に、支城・戸石(といし)にいた昌幸の長男・信幸も出陣し、攻撃に参加。

忠世の弟で、この時の戦いに参戦していた大久保彦左衛門は、後にその著書『三河物語』の中で、この日の家康軍の負けっぷりが散々のものであった事を書き残しています。

徳川の公式記録ちも言える書物で、そこまで悲惨な状態を書くという事は、いかに、この時の合戦が大敗であったかを物語っていますね。

家康軍では、この日一日で1300人が討死したと言われています。

しかし、その後も諦めない家康は、真田氏をぶっ潰そうと、何度も兵を出し、11月頃までは、小競り合いのような衝突を繰り返しますが、ここで、家康側に大事件が起こります。

それは、「本能寺の変に匹敵する戦国最大の謎」と称される石川数正の出奔です(11月13日参照>>)

ここから少し、数正さんについてのお話を・・・。

あの桶狭間の戦い(2007年5月19日参照>>)の時、人質の身ではあったものの今川の一員として先鋒を努めた家康(当時は松平元康)が、今川義元の死のどさくさで、人質生活から逃れ、駿河の今川氏へは戻らず、そのまま岡崎城に入り、独立する(2008年5月19日参照>>)わけですが、それこそ、急な出来事だったため、奥さんと息子を今川に残したままになっていたのです。

奥さんは、今川義元の妹の娘・瀬名姫(後の築山殿)・・・つまり姪っ子で、当然の事ながら政略結婚ですが、記録によれば、結婚当時は非常に仲の良い夫婦だった言いますし、まして、長男・竹千代(後の信康)もいるわけですから、何とか、この二人は取り戻さなくてはなりません。

その時、三河・西郡城の合戦で生け捕りにした今川氏の人質との交換条件をたずさえて、命がけで駿河に乗り込み、みごと、奥さんと子供を家康のもとへ取り返してきたのが石川数正なのです。

この事によって、数正は、家康の長男・信康の後見人のような立場になるわけですが・・・ご存知のように、その奥さん(築山殿)と息子(信康)は、後に謀反の疑いで、信長の命令で家康の手によって死に追いやられる事になります。

この築山殿と信康の事件に関しては、家康側の立場の人々の記録しか残っておらず、事実がかなり湾曲された形跡があり、話せば長くなりますので、築山殿のご命日のブログ(8月29日参照>>)で見ていただく事として・・・。

とにかく、その事件の事が書かれている書物では、数正は、まるでこの時期、いなかったかのように、その存在を消されています。

信康の後見人的立場の人だったのなら、良しにつけ悪しきにつけ、事件への何らかの関与があって当然だとは思うのですが・・・(だから、長くなるって!)

・・・で、その築山殿と信康の事件の6年後の家康が真田の討伐に手こずっているこの時期。

突如として数正は、一族郎党を引き連れて岡崎城を出奔。
大坂城の豊臣秀吉のもとへ馳せ参じるのです。

さすがの家康も、数正の寝返りにはショックだったようで、その後すぐに上田城周辺の軍を引き上げさせ、それ以降の真田氏の討伐はあきらめたようです。

みごと上田城を守りきった真田昌幸。

彼は、この15年後の慶長五年(1600年)にも息子・幸村(信繁)とともに、この上田城で、家康の息子・秀忠を撃退する事になるのですが、そのお話は9月7日のページでどうぞ>>)
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