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2007年8月27日 (月)

小谷城・落城~浅井氏の滅亡

 

天正元年(1573年)8月27日、織田信長の軍勢が北近江を支配する浅井長政の本拠地・小谷城への攻撃を開始しました。

・・・・・・・

元亀元年(1570年)の姉川の合戦(6月28日参照>>)で、織田信長徳川家康連合軍に、手痛い敗北をしながらも、本拠地を未だ維持し続けていた越前朝倉氏北近江浅井氏(11月26日参照>>)

信長の度々の挑発を無視しつつも、一方でゲリラ戦を展開する浅井長政(あさいながまさ)に対し(7月22日参照>>)、天正元年(1573年)の8月6日、信長は、いよいよ大軍を率いて越前・朝倉氏に狙いを定めます。

慌てて防御の準備をしようと疋壇(ひきた)に入城する朝倉義景を、織田軍は、すでに待ち受けて攻撃する素早さを見せます。

もちろん、信長は、越前へ攻撃を仕掛ける一方で、朝倉氏と同盟関係にある浅井氏へ策略を張り巡らしておく事も、同時進行で行っていました。

北近江の武将たちに、密かに織田方にくみするよう即していたのです。

その策略が功を奏して、8月8日、近江山本山城の城主・阿閉貞征(あつじさだゆき)織田方へ寝返ります。

これを絶好のチャンスと見てとった信長は、すばやく浅井氏の本拠地・小谷城へ主力部隊を向かわせます。

これを知った朝倉義景は、自分自身が応戦しつつも、2万の軍勢を小谷の援軍として派遣します。

その援軍は、小谷城の北側で、織田軍と衝突!激戦が開始されたのもつかの間、織田軍の猛攻撃に耐えられず、やむなく義景が派遣した援軍は敗走します。

勢いに乗った織田軍は、そのまま朝倉勢を追走し、越前へ侵入(8月14日参照>>)
もともと越前で奮闘中の軍と同調し、朝倉義景のいる疋壇城に総攻撃を仕掛けます。

敗色が濃くなって、本拠地・一乗谷へ敗走した義景を追って、さらに一乗谷も攻略し、追い詰められた義景は、8月20日に自刃・・・朝倉氏は滅亡してしまいます(8月20日参照>>)

完全に孤立状態となってしまった小谷の浅井長政・・・。

越前で朝倉義景の最期を見届けた織田軍・主力部隊は、再び近江の小谷城へと舞い戻り、天正元年(1573年)8月27日総攻撃を開始します。

典型的な山城だった小谷城は、黒金門を入ると、大広間本丸小丸局屋敷中丸京極丸山王丸上に向かって階段状に並んでいるという構造で、攻撃が開始された時は、浅井長政が本丸、父・久政が小丸にて抗戦しました。

この日、織田軍の先鋒を務めたのは羽柴(豊臣)秀吉

城内へなだれ込んだ羽柴隊は、まず京極丸を占拠して、城内の連絡を絶ち上下を分断させてから久政の守る小丸を攻撃します。

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小谷城の特徴の一つである大堀切

奮闘した久政でしたが、敵の猛攻撃に耐え切れず、その日のうちに自刃してしまいます。

さらに、羽柴隊は、城主・長政のいる本丸へ突入!・・・翌、28日に長政も自害して、ここに浅井氏は滅亡します。
*長政の自刃については29日or9月1日説もあります…2009年8月29日の【浅井長政、最後の手紙】でどうぞ>>

ところで、そう、この小谷城には、信長の妹・お市がいました。

18歳で浅井長政に嫁いだお市は、織田氏と浅井氏の同盟のための政略結婚ではありましたが、夫婦仲はたいへんむつまじく長男・万福丸と、茶々・初・小督(おごう)という3人の女の子をもうけていました。

長政が自刃するにあたって、お市は夫と共に死ぬ覚悟していましたが、長政の「子供のためにも生きろ!」という説得に、子供たち共々、織田方の手引きで、落城寸前に脱出します。

しかし、お市と3人の娘は助かりますが、長男・万福丸は男子であるが故に、お市の願いも空しく、串刺しの刑に処せられてしまいます。

それから4ヶ月後の天正二年(1574年)の正月。

朝倉義景と井久政・長政父子の頭蓋骨は、漆と金粉で塗り固めて盃にして酒宴の席に出されたとか・・・。

「いや、盃にしたというのは俗説で、盃にはしていないが、頭蓋骨に漆と金粉を塗って酒の肴にしたのは本当だ」とか、色々取りざたされるこの話は、信長さんの特異な一面を伝えるエピソードとして、ドラマでもよく描かれている話です。

今では、「おそらく事実ではない」とされる話ですが、もし、あったとしても、大事な妹を嫁にやってまで結んだ同盟があまりにもろく崩れ、信じていた者が裏切るという状況を目の当たりにして「自分を裏切った者は許さないぞ」という警告のようなものだったのかも・・・。

しかし、浅井と織田との同盟の中には、浅井のもう一つの同盟相手の「朝倉に対して勝手に攻撃してはいけない」という約束もあったと記憶してますが・・・だとしたら、先に裏切ったのは信長さんのほうなのでは?とも思ってしまいます。

色々判断が難しいです。

とにもかくにも、この合戦で大活躍した秀吉には、浅井氏の領地が与えられ、翌年には長浜(今浜)に城を建て、一国一城の主へと出世します(3月19日参照>>)
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

記事楽しく読ませていただきました。
先年、岐阜、大垣、美濃赤坂、垂井、関が原、彦根、安土、近江八幡、長浜、賎ガ岳
小谷、姉川を訪ねたときのことを懐かしく
思い出しました。小谷城跡では山王丸から本丸へ降りてくる途中野生のカモシカに遭遇
お互いびっくりして、しばしお見合いだったことをおもいだしました。
私も先月ブログデビューしました。史跡を訪ねることが大好きなので、いずれカテゴリーに加えてみたいと思っています。

投稿: みどり | 2007年9月 3日 (月) 02時53分

みどり様・・・コメントありがとうございます。

>先年、岐阜、大垣、美濃赤坂・・・

すごく魅力的なコースを廻られましたね~。

私も、小谷城跡へは行った事があるのですが、かなり前の事で、ほとんど記憶にありません。

城跡近くの須賀谷温泉というところに泊まって「餅つき大会」をしたのは覚えているんですが・・・(笑)

城跡というのは、栄枯盛衰のはかなさと、悠久の時の流れを感じさせてくれる大好きな場所です。

また、行ってみたいですね。
今度は、しっかりと脳裏に焼き付けて・・・

投稿: 茶々 | 2007年9月 3日 (月) 13時18分

茶々さんこんにちは!

 >城跡は栄枯盛衰の・・
 ご意見賛同です。

 関が原は1日で歩いて廻れるような盆地
 10万もの人が戦ったとは思えないようなところです、松尾山から鎧をつけ、鑓を手にしてどうやって駆け下りたのか、陣跡にたって
問いかけてみました。
一般民はいったいどこに逃げていたのでしょう?興味は尽きませんね。

私は今はエコやペット(犬が3頭います。)の話題を中心にかいていますが、歴史も
大好きです。また楽しみにしてますので
色々教えてくださいね。

投稿: みどり | 2007年9月 3日 (月) 17時47分

みどり様・・・こんにちは~。

>一般民はいったいどこに・・・

それも、いつか豆知識のような形で書こうかな?って思ってたんですが、戦国の始めの頃は、合戦という物はけっこう深刻でしたが、関ヶ原の時代はすでに兵と農が分離されていましたし、街中の合戦ではないので、農民や町民は弁当持参で合戦見物に出かけたみたいですよ。

安全な山の上から「赤勝て、白勝て」って運動会みたいな感じで、一種の娯楽になってたみたいです。

投稿: 茶々 | 2007年9月 3日 (月) 18時27分

来年の大河では万福丸の母親が誰と言う設定でしょうか?お市の生んだ子供ではないとも言われます。私も原作小説は番組終了まで読まない様にしています。
浅井長政の小姓(意外にこの事を知らない人が多い。今で言えば「SP」)当時の藤堂高虎(当時18歳)がこの戦いに参戦したかどうかも、ちょっとした焦点ですね。この前に不祥事で浅井家を追放されたとも言われるので。

春先から来年を見通して、歴史雑誌などでちょくちょく藤堂が出ています。昨年は全くの「蚊帳の外」でしたが。

投稿: えびすこ | 2010年5月11日 (火) 09時08分

えびすこさん、こんにちは~

>春先から来年を見通して、歴史雑誌などでちょくちょく藤堂が出ています。

そうなんですか?
って事は、脚本家の構想ではけっこう重要な役どころなのかも知れませんね。
楽しみです。

投稿: 茶々 | 2010年5月11日 (火) 14時06分

この場面は来年の大河ドラマの序盤の山場ですね。9月から収録が始まるようです。
ここまで男性と女性の配役を別々に発表しているようですね。まだ配役が決まっていない「登場見込み」の武将などがいるので、収録前には決まるでしょう。願うことは画質を元に戻してくれる(つまり撮影するカメラを戻す)ことです。

順当に行けば中盤6月が関が原の戦いで、終盤9月が大阪の陣のはずです。先日危惧していましたが、来年は「出たとこ勝負」の進行にはならないでしょうね。主人公の人生で配分すると、「江戸幕府発足後」に時間を割いてもらえれば、幕府初頭の情勢がわかりやすいです。

投稿: えびすこ | 2010年8月27日 (金) 10時45分

えびすこさん、こんにちは~

さすがに天地人のように、大坂の陣後が1回って事はないですよね。

それだとショックで立ち直れません。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

投稿: 茶々 | 2010年8月27日 (金) 15時20分

>大阪の陣後(の放送)が1回

さすがにそれはないと思います。
それをやると江さんの子供たちの存在(特に息子)が不要になるので、子供たちの配役が決まれればその心配もなくなりますね。
順当に行けば終盤は若い俳優(主人公夫婦も演じる俳優が若いです)が、主要人物の半分くらいを占めるはず。
個人的希望として、「親子の絆」を認識する展開を期待しています。最近は「親子の絆」と言うコンセプトが、どうも欠けている感じがするので。

投稿: えびすこ | 2010年8月27日 (金) 16時24分

アハ…そうですね~

でも、いきなり10年後…てな展開になったりなんかして…

投稿: 茶々 | 2010年8月27日 (金) 16時45分

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