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2007年8月24日 (金)

浜の真砂の…石川五右衛門の処刑

 

文禄三年(1594年)8月24日、稀代の大盗賊・石川五右衛門が三条河原で処刑されました。

・・・・・・・・

石川五右衛門(いしかわごえもん)と言えば、あの南禅寺・山門の高欄から、眼科に広がる京の町を眺め
「絶景かな~絶景かな~春の眺めは価(あたい)千金とは小さなたとえ、この五右衛門が目からは万両」
と、大見得を切ってみせた戦国時代の大泥棒。

『続本朝通鑑』によれば、この文禄三年(1594年)8月24日に、豊臣秀吉の家臣・前田玄以(げんい)によって捕えられた五右衛門以下、母・息子を含めた同類20人余りを縛り、三条河原に烹殺・・・とありますが、石川五右衛門に関して、史実と呼べる物は、この一文くらい。

あとの事は、伝説やら、噂話やら、歌舞伎のお話が入り乱れて果たして本当の事なのか疑わしい限りです。

しかも、わずかに残るこの一文でさえ、この処刑された人物が本物の五右衛門であったかどうかはわからない・・・というのが現状です。

その出身も、伊賀上野の忍者の末裔だとか、丹後の大名・一色家の家老の次男であるとか、大坂河内三好氏の家臣の子であるとか、遠江(とうとうみ)浜松の侍だったとか、もう、数え上げたらきりがありません。

だいたい、この時代、天下を取ろうかという戦国大名でさえ、その出身が嘘八百の時代ですから、泥棒なんて稼業の人に、ちゃんとした経歴があるはずもありません。

とにかく、子供の頃から喧嘩が強く、悪童どもを引き連れてワルサを働く中で、腕に覚えのある者が、戦国の世に見る夢は一つ・・・その腕と才覚で、「いずれは天下を取ってみせる」と息巻いて、大志を抱いて京に上ります。

しかし、世はすでに太閤秀吉の天下。
そう簡単に仕官の口があるわけではありません。

結局、彼がたどりついたのは、昼間はターゲットになりそうな大家を物色しながら町を徘徊し、夜には、そこへ押し入るという泥棒稼業です。

彼を、スターに押し上げたエピソードに、大きな凧に乗って、名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)を盗んだ・・・というのが有名ですが、これはどうでしょう?
ちょっと、時代が合わない気がしますね~。

たしかに、名古屋城は、若き日の織田信長が本拠地としていたお城(当時は那古野城)ですが、信長が清洲に移ってからは廃城になっていたはず・・・(2月11日参照>>)

それを、関ヶ原の合戦の後に、西国からの江戸の守りをより強くするために、徳川家康加藤清正に命じて造らせ、その時に、清正が一世一代の見栄を張って、あの豪華な金の鯱を鋳造したと思うのですが・・・。

江戸中期の正徳二年(1712年)に尾張国中島郡金助という男が、大凧に乗って鯱の鱗を盗んだという記録がありますので、どうやらこの話を五右衛門のエピソードにしちゃった・・・てな感じですね。

しかし、庶民に人気があったというのは確かでしょう。

それは、庶民の苦悩とはうらはらに私腹を肥やしていそうな大金持ちばかりをターゲットしたという事。

それによって、不安いっぱいの戦国の世を生きる庶民から見れば、「ざまぁ見ろ!」と痛快でスッキリするわけですからね。

でも、実はこれも、五右衛門にしてみれば、別に、ソコを狙って大金持ちをターゲットにしていたわけではなく、実のところ五右衛門の下には、名のある幹部だけでも15人・・・そして、それぞれに30人からの手下がいるわけですから、チンタラした仕事をやっていては、食っていけない・・・というのがホンネでしょう。

もちろん、貧乏人に盗んだ金を分け与えた・・・なんて記録も一切ありません。

ただ、やっぱり気になるのは、伏見城の秀吉の寝所に忍び込んだ・・・というアノ一件ですね。

その目的は、自分が金品を盗む大泥棒なら、秀吉は日本を盗んだ大泥棒だとして、自分の腕前を見せつけようとしたという説がある一方で、当時ギクシャクした関係にあった関白・秀次(7月15日参照>>)の家臣・木村常陸介(ひたちのすけ)の依頼で、秀吉を暗殺するためだったという説もあります。

いずれにせよ、秀吉の首と、その枕元にある秘宝・千鳥の香炉を盗む目的で、伏見城に侵入したところ、その千鳥の香炉から急に音が鳴りはじめ、その音を聞いて駆けつけた前田玄以に逮捕されたという事になってます。

・・・で、冒頭に書いたように処刑となるわけですが、秀吉に限らず戦国時代というのは、ことのほか刑罰が重いです。

・・・というのも、ただでさえ明日をも知れぬ不安な時代・・・いつ隣国から攻めて来るかわかりません。

そんな時、その国を見る目安として、「領内の治安の良さ」という事が重視されていました。

治安の良いところは、領主がしっかりしているという事で、イコール攻め難いとして、隣国から狙われる可能性が薄くなるわけで、そのために見せしめとして、より過酷な極刑へと徐々にエスカレートするのです。

五右衛門の場合、その刑は、よく「釜茹で」と称される事が多いですが、正しくは「釜煎り」だとの事・・・と、いうのも、(書くのも恐ろしいですが・・・)釜の中身はお湯ではなく油だったそうで、しかも、6歳の息子とともに釜煎りする事によって、より見せしめ効果を狙ったようです。

♪石川や 浜の真砂(まさご)は尽くるとも
 世に盗人の 種は尽きまじ♪

・・・と、本当に辞世を詠んだかどうかは知りませんが、天下人の寝所に侵入・・・あわや暗殺へ・・・という行為が、レジスタンス的な意味合いに受け取られ、世に不満を持つ庶民から、拍手喝采を浴び、義賊・英雄として語り継がれる事となる石川五右衛門・・・

その、泥棒という由緒正しからざる人物が、天下人と相まみえる・・・他に類を見ないその痛快さが、彼を理想へ理想へと導いて、様々な伝説が、その人生を彩る事になったと言えます。

Goemoncc 今日のイラストは、
もちろん石川五右衛門・・・

ただ、個人的には、あのヘアスタイルと錦のどてらはちょっと・・・なので、どうせ伝説に彩られているのなら、風貌もおもいっきりカッコよく!

個人的好みが入りまくりました~
 .

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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

こんばんは!

歴史ってほんとにいろいろな説があるんですね~。ルパンⅢ世や次元と共に活動してるなんて説もあったりして(^_^;)

投稿: 見習い大工 | 2007年8月24日 (金) 21時22分

あはっ!
それ書こうかどうしょうか迷ったんですよね~。
こんにゃく以外、何でも斬れる斬鉄剣(←字あってるかな?)でお馴染みの・・・ってね。

たしか、ルパンの五ェ門は、この石川五右衛門の何代目かの子孫だったはずですから、子供は処刑されずに生き残ったっていう設定なんでしょうね。

ちなみに、石川五右衛門と書けば、この歴史上の五右衛門で、ルパン3世のほうは、石川五ェ門と書くそうです。

投稿: 茶々 | 2007年8月24日 (金) 22時38分

大河ドラマ「黄金の日々」で
撮影に使われた釜を見ましたよ。
作られた金物店の前にあって、
蓋がしてあります。

投稿: やぶひび | 2021年8月24日 (火) 14時05分

やぶひびさん、こんばんは~

>大河ドラマ「黄金の日々」で撮影に使われた釜…

へぇ~展示してあるんですか。。。

今、BSでの再放送、毎週楽しみに見てますが、悲しいかな、かなり忘れてしまってます。

でも、この根津五右衛門の釜茹でシーンは、なぜか鮮明に覚えてます。
それぐらいカッコ良かったですね。

投稿: 茶々 | 2021年8月25日 (水) 04時49分

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