家康の妻・築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!
天正七年(1579年)8月29日、徳川家康が、織田信長の命令により、妻・築山殿を殺害しました。
・・・・・・・・・
ご存知のように、徳川家康は、幼い頃、今川家に人質として出され、駿府で育ちます。
家康の父・松平広忠が、しょっちゅう攻め込んで来る隣国の織田氏に対抗するため、当時、海道一の弓取りと呼ばれていた今川義元の力を借りようと、わが子を人質として差し出したのです(8月2日参照>>)。
やがて義元のもとで元服を済ませた後、弘治三年(1557年)家康16歳の時に、今川家の重臣で義元の妹(養妹=1月12日参照>>)を妻に持つ関口義広(親永)の娘・瀬名姫と結婚します。
今川の本意で決められた結婚でしたが、名目上とは言え、義元の妹の娘とは、人質の身にしては、ありあまる良縁ですし、瀬名姫も家康と同い年で、なかなか良い夫婦関係だったようです。
翌・永禄元年(1558年)には、寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の戦いで初陣を飾り(2月5日参照>>)、さらに、その翌年には二人の間に長男・竹千代(後の信康)も誕生しますが、そんな時に起こったのが例の永禄三年(1560年)桶狭間の戦い(5月19日参照>>)です。
合戦では今川の一員として大高城で戦っていた家康(当時は松平元康)でしたが、織田信長の奇襲作戦の成功で今川義元が討たれ、奇しくも人質の身から開放される事になった家康は、そのまま駿府には戻らず岡崎城へと入ります(5月19日参照>>)。
当然、奥さんの瀬名姫と長男の竹千代は駿府に残したまま・・・。
家族が再開するのは、その2年後の事・・・。
上ノ郷城の戦いで生け捕りにした今川方の鵜殿長照(うどのながてる)の息子(2月4日参照>>)・・・彼を駿府へ帰す代わりに、妻子をこっちへ・・・つまり人質交換です。
この時、家康の側近中の側近・石川数正(かずまさ)が、命がけで単身駿府に乗り込み、見事人質交換をやってのけ、妻子を無事取り戻したのです(11月13日参照>>)。
やっと、家族一緒に・・・と思いきや、瀬名姫は「今川家の人=敵」と見なされ岡崎城には入れてもらえなかったのです。
事実、この翌年には長男・竹千代と、織田信長の娘・徳姫との婚約が成されていますから、この頃すでに家康は今川を離れ、織田との同盟関係にあったわけです。
・・・で、瀬名姫は城外の築山の近くにある館に住む事になり、これ以降、彼女は「築山殿」と呼ばれる事になるのです。
やがて5年後に、竹千代と徳姫は正式に結婚(5月27日参照>>)しますが、その間に竹千代は両家の父の名前を一文字ずつもらい、信康と名乗ります。
元亀元年(1570年)には、家康は岡崎城を信康にまかせ、自身は浜松城へと移ります。
そして、今回の「築山殿殺害事件」は、その9年後、天正七年(1579年)に起こります。
事の発端は、その年の7月16日・・・徳川家の重臣の中の重臣・酒井忠次が、主君・家康の名代として、信長に馬を献上するため安土城を訪れた時、娘・徳姫の書状を、直接、信長の手渡した事に始まります。
その書状には、「築山殿がいかに悪い女であるか、信康がいかにアホな男であるか、そして何より、この二人が武田と密通し、織田家を攻め滅ぼそうとしている」という内容の事が書かれてあったというのです。
徳姫の『十二か条の弾劾文(だんがいぶん)』なる書状を読んだ信長が、忠次に「ここに書かれている事は本当か?」と聞きただすと、「はい」との返答。
「ならば、信康を殺せ。家康にそう伝えよ」と言ったのです。
信長の命令を受けた家康は、逆らう事ができず、妻・築山殿を殺害し、その後、息子・信康を切腹させるのです。
・・・と、以上が事件のあらましですが、この話の出典はすべて『徳川幕府の公式史料』。
ほとんどが、何十年も経ってから書かれた、いわゆる「徳川家の成り立ち物語」「家康の伝記」みたいな物で、中には、いかに築山殿が悪女でひどい女であるか、殺されても当然といった書き方の物まであると言います。
あやしい・・・とにかく、うさんくさい・・・。
これらの書物のおかげで、小説やドラマで描かれる築山殿は、ホント、嫌な女に描かれてしまっています。
作家さんの中には、「家康を主人公として描く以上、彼に殺された妻を悪女にしないと、殺した家康が悪人になってしまう」的な発言をされている方もおられるようで、やっぱり、誰が見てもこの一件はあやしいのです。
まず、その発端となった徳姫の「十二か条」ですが・・・
- 築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする
- 築山殿は、女の子しか生んでない私の事を「役立たず」と言って殴る
- 築山殿は、岡崎城内の豪華な邸宅で贅沢三昧やってる
- 築山殿は、甲州の唐人医師・減敬(げんきょう)と浮気してる
- 築山殿は、武田勝頼に織田と徳川の両家を滅ぼして欲しいと言った
- 築山殿は、両家が滅んだ後は、私を武田の家臣の妻にして~と頼んだ
- 武田から、小山田という家臣が妻とする証文が送られてきた
- 近頃、岡崎城下で踊りが流行ってるのは信康が悪いからだ
- 信康は、踊りが好きなので踊りの下手な者を弓矢で射殺する
- 信康は、鷹狩で獲物がなかったため不機嫌になり、通りがかった僧侶をなぶり殺した
- 信康は、私の侍女を「おしゃべり女」と言って口を裂いて殺した
なんじゃ、こりゃ~。
こんなもん見て、あの信長さんが「ならば、殺せ」ってなるか?
第一、さっき書いたように、築山殿は岡崎城内に入れてもらえないから築山殿と呼ばれてるんじゃ?
「岡崎城内の豪華邸宅で贅沢三昧」なんてできたのかしら?
たしかに、信長さんは、思ったらすぐに行動する人です。
感情的な部分もある人です。
しかし、とても頭の良い人でした。
こんなアホみたいな手紙と、たった一人の家臣の証言を鵜呑みにして行動を起こす人ではないでしょう。
徳姫も、本当にこんな手紙を書いたかどうか・・・それこそ、もし虚言なら彼女に対しても失礼な話です。
この書状の内容があまりにヒドイため、一説には「家康の息子・信康が生まれながらの逸材で、かなりのデキた人物・・・それに比べて信長の息子たちが凡人なので、将来、織田と徳川の勢力が逆転する事を恐れたため、今のうちに始末しようと命令した」という説まであります。
これは、先ほど出てきた『徳川幕府の公式史料』の一つで、あの大久保彦左衛門が書いた『三河物語』に、このような記述があり、その中では、築山殿も信康も悪くなく、悪いのは信長だとされています。
しかし、一般的な歴史を見てみると、信長さんは明らかに家康の事を「同盟関係」と見ており、「家臣のような扱い」をしたようには思えませんよね。
本当に妻と息子を殺せというような命令を出したのでしょうか?
また、それならそれで、命令が下ったから、いきなり殺害・・・というのも変です。
家康は、この一件に関して、築山殿や信康に「事実を問いただす」という事を、ほとんどしないままに死に至らしめています。
これは、どう考えても、家康自身が、築山殿と信康を排除したかったとしか思えません。
その理由については、以前【徳川家康は四人いた?説】(11月27日参照>>)でも触れたように、「途中で別人にすり替わっている」というのがありますが、これはやはり仮説の域を出ないものでもありますから、今日のところは素通りしますが、何らかの理由があったにせよ、妻子を殺害した事は、家康にとっての生涯の汚点となるわけです。
しかも、明快な理由が書けない以上、『徳川幕府公式記録』では、築山殿が悪女のせい、信康がアホなせい、徳姫の手紙のせい、いやいや信長の無理難題のせい・・・てな、不可解な理由をでっちあげなくてはならなくなったのでしょう。
なんせ、家康さんは神様ですから・・・
・・・で、最も肝心の公式記録に書けないその理由とは・・・
もちろん、公式記録がないわけですから、その理由というのも、推理の域を出ない物なのですが、おそらく徳川家内のお家騒動・・・つまり、信康の成長を怖がっていたのは、信長さんではなく家康さんなのではないか?という事です。
もちろん、「親としては、自分の息子に後を継いでもらう」というのは、うれしい事です。
現に家康さんも、最後には二代将軍・秀忠に将軍職を譲るわけですから・・・。
しかし、それはあくまで、思い通りの世代交代・・・戦国時代の場合、親子関係であっても、時として、思い通りの世代交代にならない場合があります。
斉藤道三・義龍父子しかり・・・武田信虎・信玄父子しかり・・・。
・・・で、その、お家騒動のお話にいきたいのですが、ここから先は築山殿・・・というよりは信康さんの事になりますので、そのお話は、信康さんが切腹した9月15日のページ>>でご覧いただくとして、記事も長くなりましたし、なにぶん今日は築山殿のご命日なので、築山殿の最期の場面を・・・。
・・・・・・・・・・・
運命のその日・・・天正七年(1579年)8月29日。
家康の命令で、岡崎城から遠州(静岡県西部)堀江城に移された息子・信康から築山殿のもとに「母に会いたい」という使いの者がやってきます。
息子から「会いたい」なんて言われて、うれしくない母親はいません。
たとえ、息子が、もう、りっぱな大人になっていても、母親から見れば、いつまでも息子なのですから・・・。
まして、夫が寄り付きもしない隔離されたような町外れで、幽閉にも近い暮らしをしていたなら、なをさらの事・・・。
築山殿は、久しぶりに、少女のように心躍らせて輿に乗ります。
「お出かけをするなんて、もう何年ぶりかしら・・・」
使者としてやって来た野中重政に連れられ、浜名湖を渡り、小藪という村に差し掛かった時、浜松城からやって来たという石川義房と岡本時仲の二人に迎えられます。
「浜松城から?何の用かしら?」と、輿から降りた築山殿・・・その背後から斬りつけたのは、彼女をサポートするはずの野中重政でした。
遺体は、その場の藪に埋められ、その首は浜松城へ送られました。
そう、浜松城からやって来た二人は、彼女の首を受け取りに来た二人だったのです。
後日、築山殿の死を聞いた侍女が一人・・・入水自殺をはかっています。
その侍女は家康の家臣・伊奈忠基(ただもと)の娘だったと言いますが、「家康の命令で殺害された築山殿を追って殉死をする」という行為は、残された家族にどんな影響があるかは想像できるはず・・・それでも、気持ちを抑えられなかった侍女。
そして、もう一人・・・築山殿を斬った野中重政も、結局この後、城を出て故郷に帰り、引きこもってしまいます。
主君の命令で決行したとは言え、その背負った重荷に、心が耐えきれなかったのかも知れません。
野中重政にしても、その侍女にしても、彼らの行動が、「いかに築山殿が悪女でなかったか」を物語っているのではないかと思うのです。
決して家康さんを悪者に仕立てあげようとは思ってはいませんが、久しぶりに息子に会えると喜び勇んで出かけた彼女の心中を思うと、胸にこみ上げてくる思いがありますね。
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コメント
家康と信康は年が近すぎて親子というよりライバル関係だったのかもしれませんね・・諸田玲子さんの「月を吐く」は家康主導説で描かれていて面白かったのでおすすめします。
投稿: | 2009年12月14日 (月) 13時24分
コメントありがとうございます。
>家康と信康は年が近すぎて親子というよりライバル関係・・・
そんな感じだと思います。
家康と信康、そしてお互いの家臣たちもライバル関係にあったような気がします。
投稿: 茶々 | 2009年12月14日 (月) 16時00分
初めまして、
私も築山殿の、汚名をはらしたい。このままでは、うかばれない。
投稿: ひろ | 2010年12月14日 (火) 22時26分
ひろさん、こんばんは~
コメントありがとうございますo(_ _)o
私も、これからのドラマでは、ステキな女性に描かれる事を期待しています。
投稿: 茶々 | 2010年12月15日 (水) 02時02分
来年の大河ドラマでこの件に触れるかな?ちなみに妻子の悲劇は秀忠が生まれた年の出来事ですね。2年ほど前に時代劇SPでこの件に触れていた記憶があります。
酒井忠次は書状を見ないまま信長に渡していますよね?見てないなら酒井は仰天するはずですね。「家臣の謀反」なら黒幕が誰かになりますね。真相は不明ですね。
投稿: えびすこ | 2010年12月15日 (水) 09時27分
えびすこさん、こんにちは~
初めのうちは浅井が中心なので、ここらあたりはあまり触れないんじゃないでしょうか…
時間の関係もあるでしょうし、造り手としては難しいところだと思います。
投稿: 茶々 | 2010年12月15日 (水) 10時50分
途中で家康が「昔のつらい話」として、話す場面があるかもしれないですね。
来年は「テレビ映りを明るくする」方針だそうです。50作目にふさわしい演出ですね。
投稿: えびすこ | 2010年12月15日 (水) 15時41分
えびすこさん、こんばんは~
>来年は「テレビ映りを明るくする」方針…
確かに、予告編を見る限り「龍馬伝」とはちょっとイメージの違う映像でしたね。
投稿: 茶々 | 2010年12月16日 (木) 01時14分
今日書店でNHKが出している「江 姫たちの戦国」のガイドブックを見たんですが、徳川信康と織田信忠の2人が出ます。奮発(?)しましたねヽ(´▽`)/演じる俳優はあまり有名な人ではないですが、あまり大河ドラマに出ない信康と信忠が登場するので、記事の件に触れる可能性がありますね。
そうなると(当り前ですが)この2人と徳川秀忠は面識がないので、向井君の登場は4月ごろかな?他の人物の配役も順次決まっています。なお浅井久政役は寺田農さんです。
投稿: えびすこ | 2010年12月18日 (土) 13時47分
えびすこさん、こんばんは~
ここ最近は出演者が少なかった大河…
今回は記念の年でもあるので、リキが入るんでしょうか
楽しみですね
投稿: 茶々 | 2010年12月18日 (土) 23時53分
「江 姫たちの戦国」の今日の放送で、この件について江が信長に聞く場面があります。NHK大河ドラマでこの件に触れるのは、相当久しぶりでしょうか?
投稿: えびすこ | 2011年1月23日 (日) 09時17分
えびすこさん、こんにちは~
>「江 姫たちの戦国」の今日の放送で、この件について江が信長に聞く場面が…
そうなんですか?
先週は、家康と信康、父子仲良く安土城の完成祝いにやって来てましたがww
信康さん役の方は、もう出番がないのでしょうか…気になります。
投稿: 茶々 | 2011年1月23日 (日) 13時37分
初めまして。
私の築山殿の見方を根本から変えるご意見ありがとうございます。
ブログにも記載がございます通り、徳川史観での文献しかないなかで、点と点を結んで本当の史実を探っていく茶々様の姿勢、とても共感出来ます。
築山殿の最後は記述を読んでいて、とても切なくなりました。
投稿: 南海ホークス | 2014年8月31日 (日) 15時09分
南海ホークスさん、こんにちは~
築山殿のご命日にupした記事なので、かなり築山殿寄りに、あくまで美しく贔屓めに書かせてはいただきましたが、私自身、少なくとも「彼女は悪女では無い」と思っております。
未だ、家康も途上の時期ですから、彼女個人というよりも、徳川家のためにせねばならない事が、家康にもあったのだと感じています。
投稿: 茶々 | 2014年8月31日 (日) 15時35分
築山殿を斬った家臣の家には、口の聞けない娘が2人生まれので、「築山殿の呪いでは?」と言われているそうです。
投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月 5日 (火) 19時42分
クオ・ヴァディスさん、こんばんは~
そんなお話もあるのですね。
投稿: 茶々 | 2015年5月 6日 (水) 01時45分
色々考えが二転三転した時期もありましたが、個人的には信康事件は築山殿の責任が一番大きかったという気はしています(申し訳ないですが悪女説は一応支持している感じです)
元々、今川家を離脱して築山殿の立場がグラグラしていたのは間違いないと思います
ここで追放等を行わなかった家康の中途半端な優しさや判断の遅れも大きな原因の1つと思います。
家康は人間の善意と柔軟性に期待しすぎ、これに信長の無関心が重なって…という感じでしょうけど、後の信康の性格等を見ると、築山殿は自分が一番でないと気が済まない性格が最も災いしたという見方を私はしています。
タンジュンな解釈なのは分かっています。ですがこの信康事件については、どうもそこまで深い裏事情みたいなものはなかったという気がしています。
こういう書き方はしたくないですが、当初、石川数正が人質の救出に成功したことが、果たして徳川家の為になっていたのか、かなり疑わしい感じを私はしています。
むしろ失敗していた方が一種の美談として片付けられた気が…相容れるには土台無理なものがあったのではないでしょうか。。。
投稿: ほよよんほよよん | 2015年11月 8日 (日) 10時31分
深い裏事情みたいなものはなかった、とする理由については、やはり1も2もなく、具体的に信康側について戦おうとする諸将が全く現れていないという点です。
戦国期の殆どのお家騒動では、敗れた側にも多少の味方が付くことが多いです。
悪女説が全て捏造で、信康に非がないなどとしたら、恐らく家中がある程度は2つに割れ、家康は信長に扱いの相談というよりは援軍の相談をしたはずです。
1つ1つのアクションが史実かどうかだったかは何とも言えませんが、トータルでは家中の誰が見ても築山殿の言い分より、家康がそのワガママに耐えているという姿にしか見えなかったのではないでしょうか。
そうでなければ、信康事件後すぐに勝頼との戦いを再開するなどそもそも出来ないはずです
投稿: ほよよんほよよん | 2015年11月 8日 (日) 10時43分
あっ・・・すいません
レスの難しいコメントでしたら削除して下さっていいですよ!
投稿: ほよよんほよよん | 2015年11月 9日 (月) 14時34分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
少し旅に出ておりまして、お返事が遅くなって申し訳ありませんm(_ _)m
あくまで、推理の域を出無い考えではありますが、私としては、本文にも書かせていただきました通り、築山殿は悪女では無かったと思っておりますし、信康さんの自刃のページ>>にも書かせていただいておりますが、浜松と岡崎の対立はあったと思っております。
むしろ、先に家臣団の対立があり、その亀裂を察知した家康が、岡崎の家臣たちが信康を担ぎあげる前に始末したのではないか?と思います。
もちろん、はなから「今川の影を払しょくしたかった」という理由も見え隠れしますが…
「築山殿が悪女で、信康に非があった」という理由は、彼と彼女が亡くなった後に浮上したような気がしてなりません。
投稿: 茶々 | 2015年11月11日 (水) 02時49分
悪女と言うのは言い方が悪かったと申しますか、築山殿も今川家の娘としてはもちろん正義を貫いたといえると思います。
単純に相性の問題で相容れなかったと言いたいだけで、徳川が正義とか、今川の幻影を追うことが悪だと決めつけたいわけではありません。信康についても非があったというよりはどちらかというと母の影響を素直に受けたという意味で使っただけです。
ただ、元々他家に比べて、本多重次などはその最たる例ですが、色々と主君の行動規範にモノ申すタイプが多い初期の三河武士の行動パターンを考えると、迅速な対応だったというだけで分裂が起きてないというのはどうなのかなぁと思うところです
もちろん、私もタンジュンな話として浜松派と岡崎派の分裂があった=当時の若い家康が自分の統治手腕のキャパシティを超える領地を手にしたことの反動も信康事件の原因の1つだとは思います
ただ、築山殿が何もしていないのであれば、追放で留めれば良い所を、ワザワザ騙し討ちにしているのが気になるのですが…
投稿: | 2015年11月11日 (水) 03時49分
ほよよんほよよんさん、こんにちは~
様々な見解があって、謎な部分がすぐに解決できないところが歴史のおもしろさでもありますね。
投稿: 茶々 | 2015年11月11日 (水) 16時43分
徳川家康の正室であった築山殿と言えば、武田勝頼と内通していたとされる話が、度々出てきた印象が強いのですが、もしかしたら、築山殿の伯父でる今川義元が、勝頼の父親である武田信玄と同盟関係にあったことを、織田信長が知っていたからではないかと思ってます。もちろん、あくまでも、私の個人的な推測なので、本当のところはわかりません。ただし、家康が、築山殿及び嫡男の徳川信康を処罰したのは、紛れもない事実ですから、家康が苦渋の思いを抱え込んでいた可能性は高いでしょうね。
投稿: トト | 2016年2月12日 (金) 18時31分
トトさん、こんばんは~
そうですね。
それこそ、個人的な推測ですが、武田を継ぐ事になった勝頼が、家臣団から「諏訪の人」と思われて馴染めなかったように、やはり、築山殿とその息子の信康には今川の影がついて回っていたのでは無いか?と考えてしまいます。
投稿: 茶々 | 2016年2月13日 (土) 02時29分
来年の大河原作は「井伊直虎と築山殿は従姉妹同士だった説」を採用しているので、築山殿の名誉回復がなされるかもしれません。
相対的に「真田丸」で「ギャグキャラ」として上がった家康の人気と株が下がるかもしれませんが…。
投稿: ささみ | 2016年5月 7日 (土) 14時19分
ささみさん、こんばんは~
それは楽しみですね。
直虎さんの史料はかなり少ないので、築山殿や徳川の逸話も差し込んで、ドラマを盛り上げていく手法なのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2016年5月 8日 (日) 20時01分
築山殿で思い出すのは色々歴史雑誌や論文を見ていますと家康の生母で築山殿の姑のお大の方が家康と別れ別れになったし、その後息子が人質になったので今川が物凄く嫌いなので本丸に入れず築山御殿に閉じ込めたとか築山殿処刑も裏でお大の方の何らかの助言があったと歴史通とか忘れましたが読んだことがあります。
築山殿の姦通、築山殿と信康の二重スパイ等はないと思いますが、築山殿、信康に近い方は武田と関係があったのではと思います。それを信長が知り、家康に織田か武田かを選ばせたのではと思います。
ただ本能寺の変、武田遠征の後のごたごたを見ますと信康、築山殿のネットワークを生かしたら信忠、松姫をはじめ織田、徳川、武田の絆が出来たのではと思います。そういう意味で私の先祖の信行謀殺事件同様に悲しい事件と思います。
投稿: non | 2020年6月 6日 (土) 10時54分
nonさん、こんばんは~
そういうご意見もありますね。
ただ、私は本文にも書かせていただいたように、これは家康の浜松城と信康の岡崎城のお家騒動の色が濃く、信長はあまり関係がないように思っています。
投稿: 茶々 | 2020年6月 6日 (土) 23時53分
茶々さん、お疲れのようですね。
浜松の家康と岡崎の信康が反対になっていました。
ところで家康は築山殿を好きだったのでしょうか?山岡荘八の徳川家康だけでなく歴史雑誌等を読んでいますと人質なのでしぶしぶ結婚した感じがします。
それにしても日本の武将は危機管理は甘すぎます。隣の明は宦官を使って秘密裏に不満分子を粛清したので信長も家康も甘いなと思いました。
最後に勝頼は山岡荘八の小説みたいに調略が上手いと思えません。上手かったら妹の松姫を婚約者というか事実上の夫の信忠の元に嫁がせ、織田と武田の力で徳川を譲歩させ北条に備えたと思います。
投稿: non | 2020年6月10日 (水) 09時42分
nonさん、こんばんは~
そこは訂正させていただいときましたww
正室との結婚に好きも嫌いも無いと思いますよ。
好きな女性を何十人もそばに置ける時代ですから…
投稿: 茶々 | 2020年6月11日 (木) 01時09分