北陸の関ヶ原・浅井畷の合戦~前田家の存続を賭けて…
慶長五年(1600年)8月8日、北陸の関ヶ原と言われる『加賀浅井畷の戦い』がありました。
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慶長四年(1599年)、病に倒れた前田利家は、病床に奥さんのまつを呼んで、遺言書を書き留めさせます。
その内容は・・・
「長男・利長は、向う3年間加賀に戻ってはならない。
次男・利政は、逆に金沢城を離れてはいけない。
大坂と加賀の両方に8000ずつ兵を置き、もし豊臣に謀反を起こす者が出たら、利政は即座にその兵を率いて上洛し、利長の兵と合流して戦うように・・・」
というものでした。
ご存知のように、前田利家と豊臣秀吉とは、若かりし頃、ともに織田信長に仕え、家も隣同士で家族ぐるみのお付き合い・・・まさに親友の間柄です。
そんな秀吉が、その前年(慶長三年・1598年)、まだ幼い秀頼を残してこの世を去る時、利家の手を握り「どうか秀頼を守ってやってくれ」と、涙を流しながら頼んだ姿が(8月9日参照>>)、利家には忘れられなかったのです。
やがて、利家が亡くなった後、残された秀頼の傅(もり)役として大坂城にいた利長でしたが、例の武闘派と文治派の豊臣家の内部分裂(3月4日参照>>)と、その亀裂をさらに広げつつ武闘派たちを味方に引き入れ、力を強めていく徳川家康の圧迫に耐え切れなくなったのか?、彼は父の遺言をやぶって、金沢に帰ってしまうのです。
そこを、すかさず言いがかりをつけて来る家康・・・。
「無断で、秀頼の傅役を放棄したのは、豊臣の文治派と組んで、家康暗殺計画を立てていて、彼がその首謀者であるからだ」と言うのです。
利長の行動は、家康に『加賀征伐』の絶好の大義名分を与えてしまいました。
このままでは、謀反を起こしたとして、家康に攻撃され、前田家が滅亡してしまうかもしれません。
夫・利家の死後、尼となって芳春院と号していたまつと息子たちは、相談の上、利家の遺言にそむいてでも前田家を守るという手段に出ます。
それは、家康に対して謀反の気持ちが無い事を証明するため、まつが人質として江戸に入るというものでした。
慶長五年(1600年)5月、まつは江戸へと旅立ち、家康は加賀への出兵を思いとどまる事になるのです(5月17日参照>>)。
やがて7月、家康が居座っていた伏見城に、石田三成が攻撃を仕掛け、『伏見城攻防戦』(7月19日参照>>)が勃発すると同時に、利長も行動を起こします。
その頃の、加賀南部から越前(福井県)にかけての北陸一帯の大名たちは、豊臣派(西軍)の雄・大谷吉継の誘いを受けたせいもあって、ほとんどの者が西軍についていたので、利長は、まるで自分が家康側である事を、家康本人に証明するかのように、北陸各地の豊臣派の城の攻略にとりかかるのです。
8月3日には、山口宗永(むねなが)の加賀大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)を攻略(8月3日参照>>)・・・続いて、その勢いのまま越前へ進攻しますが、「敵の大軍が海からの攻撃準備をしている」との情報をキャッチし、一旦金沢へ戻る事にします。
しかし、加賀小松城主・丹羽長重(にわながしげ)は、彼らの撤退を見逃しませんでした。
撤退を開始した利長の本隊が、小松城近くの浅井畷(あさいなわて)に差し掛かった8月8日の深夜、長重は猛攻撃を仕掛けます。
前日からの雨のため鉄砲が使えない利長隊。
しかも、小松城からは次々と援軍が出陣してきます。
「もはや、これまでか!」
とあきらめかけた時、本隊の苦戦を聞きつけて、殿(しんがり)をつとめていた武将らが駆けつけ、利長全軍が浅井畷に大集合。
何とか、長重軍を撃退し、この日の戦いは利長軍が、かろうじて勝利しました。
やがて、訪れた本番の『関ヶ原の合戦』(9月15日参照>>)・・・利長は、長重との戦いが長引いたため、この本番の関ヶ原には参戦していませんでした。
しかし、この北陸での前哨戦を評価された前田家は、関ヶ原の合戦後、事実上天下を握る事になった家康のもと大幅の加増を受け、ご存知『加賀百万石』の全盛時代へとつながって行く事となるのです。
そして、もう一つ・・・関ヶ原の合戦の時、前田家はお家存続のため、万が一の時のバックアップ作戦をとっていました。
それは、父・利家に「金沢城を離れるな」と言われていた弟・利政の事・・・
彼は、妻を大坂に残したままである事を理由に、豊臣側につく事を表明しながらも、関ヶ原の合戦の当日は居城である七尾城に居て、やはり参戦していませんでした。
戦後、彼は、西軍についた事で、能登の所領を没収され、京都で隠居生活を送る事になるのですが、その没収された能登の地は、兄・利長の領地となるわけで、実質的にはプラマイ0・・・そして、その兄が、京都で暮らす弟を、影ながら援助していたのは言うまでもありません。
そう、利長・利政兄弟とまつは、合戦の勝敗がどっちにどう転んでも、お家が潰れる事のないように、画策していたのです。
情に篤かった利家の思いをうらぎる形になってしまった二人の息子と妻・まつ・・・。
しかし、おかげで、豊臣家の家臣たちが次々と潰れていく中、立派に家を守ったのは、戦国乱世を生き抜く者の知恵でもあり、さだめでもあったに違いありません。
今日のイラストは、
前田家の家紋・梅鉢の梅を加賀友禅風に・・・描いてみました~。
前田家は(あくまでご本人の言い分ですが)、あの菅原道真の末裔・・・梅の紋はそこからきているのだそうです。
京友禅の淡い色あいに比べて、藍色やエンジなどの色合いの多い、写実的で落ち着きのある加賀友禅・・・梅の花は季節違いですが・・・
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コメント
今年の大河ドラマの前田利家ですが、大出俊さんがリリーフ出演します。(・_・)エッ....? 途中交代?
主人公関係以外で若い時と老年期で演じる人が変わるのは(両方とも大人の俳優なので特に)異例ですね。
こういう事もあるんですね。
投稿: えびすこ | 2011年8月16日 (火) 08時29分
p.s.
余談ですが、「2009年以降の大河ドラマの主役の決め方が二者択一である(2つの芸能事務所の一方から決める)」と言う指摘があります。一部から疑問視されております。
偶然なのか、意図的なのか?
投稿: えびすこ | 2011年8月16日 (火) 10時49分
えびすこさん、こんにちは~
なんか、信長・秀吉・家康・三成・秀忠以外の男性陣の影がうすい大河ドラマで、「役者さんが交代」と聞いても、私にはあまりピンときません。
>2つの芸能事務所の…
意図的というよりは、芸能界のしがらみがあって仕方が無いところでしょうね。
ビジネスですから…
投稿: 茶々 | 2011年8月16日 (火) 11時59分
>男性陣の影が薄い…
そうですね。「武断派」と呼ばれる人たちがその状態です。そこが男性の支持が低い一因ですね。家康や秀吉が陣中とかで作戦を練る時の彼らは、その場におらずに「現場で奮闘」と言う設定ですね。
昨日の「世紀のワイドショー」で織田信雄を取り上げていましたが、それぞれの大名家は「関ヶ原」の前後で、お家の生き残りに必死でしたね。「勝ち組」になれた伊達家は現状維持。「負け組」でも島津家はうまく減封の危機を回避しましたね。
投稿: えびすこ | 2011年8月16日 (火) 13時47分
えびすこさん、こんばんは~
今回の「江」も、秀吉が「もう一度、朝鮮に出兵するぞ」とひと言言っただけで、合戦シーンどころか、ナレーションにも慶長の役が登場せず、そのまま亡くなってしまいました。
たぶん、次回のナレーションで触れるのでしょうが、とても残念です。
投稿: 茶々 | 2011年8月17日 (水) 00時41分