朝倉氏滅亡とともに一乗谷は歴史の彼方へ…
天正元年(1573年)8月6日、天下を狙う織田信長が、越前(福井)の戦国大名・朝倉氏を攻め滅ぼした『越前征伐』が勃発しました。
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『越前征伐』が勃発・・・と書かせていただきましたが、あくまで、朝倉を滅亡に追いやった直接の戦いである今回の合戦の出陣・・・という事で、朝倉氏とのいざこざの火種はもっともっと以前から、すでにくすぶっていて、今回の衝突はその『最終戦』といったところでしょうか。
その発端は、元亀元年(1570年)の『手筒山・金ヶ崎城の合戦』(4月26日参照>>)。
戦いになった原因については、その日のページに書いていますので、そちらで見ていただくとして・・・ともかく、そこで朝倉義景の本拠地・一乗谷の目前まで迫りながら、妹・お市の夫であった浅井長政の朝倉方への参戦によって、越前の朝倉と近江の浅井に挟み撃ちされる形になった信長は、戦わずして撤退を余儀なくされてしまいました。
そして、その3ヶ月後に、今度はその浅井をターゲットにした有名な『姉川の合戦』(6月28日参照>>)では、浅井・朝倉の連合軍に激戦の末に打ち勝ったものの、それ以上信長が深追いをする事がなかったため、両氏の滅亡にまでには至りませんでした。
おかげで、浅井・朝倉両氏は、その後も本拠地を温存したまま、信長への抵抗を続ける事になります(11月26日参照>>)。
両者にうよる小競り合い&ゲリラ戦が続く(7月22日参照>>)中の、天正元年(1573年)8月6日・・・ここに来て、いよいよ信長は、大軍を率いて越前へと進攻を開始するのです。
ただならぬ殺気を感じた義景は、急いで2万の兵を率いて疋壇(ひきた)城に向かいますが、すでに織田方の準備はバッチリ!です。
入城の前から攻撃を受けつつも、何とか疋壇城に入った義景を、信長はすかさず、今度は城に向かっての総攻撃を開始。
義景は、その攻撃で重臣の山崎吉家を失い、命からがら、本拠地の一乗谷館に逃げ帰りますが、今度は、そこに火が放たれ、またたく間に館は炎上してしまいます。
何とか館を捨てて脱出した義景・・・。
知り合いをたよって、越前の国内をさ迷い歩く中、重臣・朝倉景鏡(かげあきら)のもとへと向かいます。
しかし、何とその景鏡が寝返り!
近づいて来た主君に攻撃を開始します。
信じていた家臣の裏切り行為によって、義景は、身も心もボロボロになってしまいます。
(そりゃ、そうでしょ・・・。)
失意の中、大野(福井県大野市)にたどり着いた義景・・・8月20日、賢松寺(けんしょうじ)というお寺で自刃します。
ここに、五代・100年に渡って越前に勢力を誇った朝倉氏が滅亡したのです(くわしくは8月20日参照>>) 。
こうして越前にて朝倉氏の最後を見届けた信長は、取って返した北近江にて浅井を・・・という事になるのですが、そのお話は・・・
8月27日【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】>>
8月29日【浅井長政、最後の手紙】>>
で、ご覧いただくとして・・・
今回、歴史の波に呑まれたのは、朝倉氏最後の人=義景だけではありませんでした。
彼の時代に全盛を迎えていた本拠地・一乗谷も、この時、歴史の闇の彼方へと消える事になるのです。
やがて、昭和の終わり・・・その忘れられていたまぼろしの城下町は、発掘調査という形で、400年の長い眠りから目を覚まします。
それから二十年余り、今現在も発掘調査が行われている越前・一乗谷は、次々現れる新発見によって、徐々にそのベールを脱ぎはじめ、生き生きとした戦国の城下町の姿を今に伝えてくれます。
越前の山々を縫うように走る九頭竜(くずりゅう)川・・・。
川に沿ってできあがった細い谷に、家臣の屋敷や寺社・町屋がズラリと並び、実に計画的に、機能的に作られたその城下町の中心には、3方に堀が張り巡らされた1町(109m)四方の朝倉館があった事が、その礎石の発掘によって明らかになりました。
また、後方の山には、城下町を見下ろすように、防御用の山城があり、谷間が細くなる町の終端には、石垣や堀が設けられた頑丈な門があり、その扉を閉めると、町全体が要塞と化す造りになっていた事もわかりました。
現在、朝倉館跡には、城門や武家屋敷・町並みが復元され、『日本のポンペイ』とも『生きた戦国博物館』とも呼ばれ、歴史好きならずとも興味をそそられる遺跡として公開されています。
今日のイラストは、
現在の一乗谷の写真や、いろんな史料を見て自分勝手に想像して『義景時代の一乗谷を再現』してみました~。
もちろん、本当はもっとたくさんの建物がありますが、これくらいのサイズの絵で、あまりに家を密集させると、ワケがわかならくなりそうなので、こんな感じで・・・。
真ん中にあるのが、朝倉館のつもりです。
私は、まだ現地に行った事がないので、いつか行ってみたいんですが、じっくり見る(山の頂上への散歩も含めて)には丸一日かかるそうなので、今は、まだ心の準備中です。
行く限りはじっくり見たいですからね。
追記:2012年4月10日に「一乗谷朝倉氏遺跡」に行って参りました~
ブログはコチラです>>
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