北闕天を望みたい~後醍醐天皇の最期
延元四年・暦応二年(1339年)8月16日は、後醍醐天皇のご命日・・・という事で、今日は後醍醐天皇のお話をさせていただきます。
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第91代・後宇多天皇の第2皇子であった尊治(たかはる)親王が、先代の第95代・花園天皇の譲位を受けて後醍醐天皇となったのは、文保二年(1318年)・・・31歳という「おくればせながら・・・」という年齢に達していた時でした。
しかし、彼の即位は、皆に100%望まれたものではありません。
後醍醐天皇が即位する前年に行われた『文保の和談』という会議の中で、「天皇の即位は兄・後二条天皇(第94代)の遺児・邦良(くによし・くになが)親王が成人するまでの長くても10年間だけで、退位後に天皇の子孫が皇位を継ぐ事はない」という条件が決定された「条件つきの即位」だったのです。
しかし、彼には大いなる理想がありました。
それは「延喜・天暦の治に帰れ!」というもの。
延喜・天暦というのは、延喜年間(901~23年)と天暦年間(947~57年)の事で、醍醐天皇と村上天皇が政治を行っていたいた時代の事です。
彼は、その時代を理想の時代とし、そのあこがれから、「自ら後醍醐天皇と称した」という話もあるくらいです。
その時代は平将門(2月14日参照>>)や藤原純友(6月20日参照>>)が大暴れした時代で、必ずしも理想とは言えない時代なのですが、武家の力が強大になり過ぎた今となっては、摂関政治が途切れて『延喜式』(2011年12月26日参照>>)や『日本三代実録』などの成立に見られるように、少なくとも天皇自らが政治を行った時代であったのです。
そう、彼の理想は、摂関政治でもなく、院政でもなく、武家政治でもない、天皇自らが采配を振る政治だったのです。
その理想を実現するためには、まずは、鎌倉幕府の存在が目の上のタンコブなわけですが、なんせ彼には時間がありません。
10年という条件をつけられちゃってますから・・・。
まずは、当時、院政を行っていた彼の父・後宇多法皇に院政のストップを要請・・・その後、北畠親房(ちかふさ)・吉田定房(さだふさ)といった有能な人材を登用し、記録所を復活させ、天皇自らの政治の実現に向けて進み始めます。
その間にも、『無礼講』と称する会合や、『朱子学講座』など、同志が集まりそうなイベントを開いちゃぁ、密かに鎌倉幕府の打倒計画を練っていましたが、そんなもん、いつかはバレます。
案の定、正中元年(1324年)に密告者によって計画が露見し、彼の側近・日野資朝(すけとも)が佐渡へ流罪となってしまいます。(9月19日参照>>)
しかし、まだ諦めません。
息子の護良(もりよし・むねなが)親王と、宗良(むねよし・むねなが)親王を通じて寺社を味方にするように画策し、側近の日野俊基に命じて、各地に散らばる領地を持たない無頼の武士たちを集め、再びチャンスを待ちますが、これまた側近の密告によって発覚してしまいます。
この時は、紙一重で、笠置山に逃走し、夢のお告げで知り合った無頼の親玉・楠木正成とともに挙兵します(元弘の変:9月28日参照>>)が、あえなく失敗し、隠岐へ流されてしまいます。
当然、次の天皇が擁立される事になりますが、しかし、例の邦良親王がすでに病気で亡くなっていたために、持明院統(第88代・後嵯峨天皇から枝分かれした後醍醐天皇とは別系統の天皇家)の量仁(かずひと)親王が光厳(こうごん)天皇として即位します。
これで、後醍醐天皇の夢は、一旦、潰えたがに見えましたが、どうしてどうして、護良親王と楠木正成が挙兵すると、絶好のチャンスとばかりに隠岐を脱出。
同時に、幕府側だった足利高氏の寝返り(4月16日参照>>)、反幕府の思いを秘めていた東国の新田義貞の挙兵という、強い味方を得た後醍醐天皇は、元弘三年(1333年)ついに北条氏を滅亡へ追い込み、鎌倉幕府を倒す事に成功しました(5月22日参照>>)。
京の都に戻った後醍醐天皇は、光厳天皇の廃位を宣言し、自らが理想とした『建武の新政』を、半ば強引に推し進めます(6月6日参照>>)。
彼の理想は天皇中心ですから、その『建武の新政』というのは、当然の事ながら、今までの法慣習も無視して、すべての事に天皇(自分)が判断を下すという物でしたが、その結果は、偽綸旨(にせりんじ・にせの天皇の命令書)が横行し、治安は悪くなりまくり。
しかも、公家を重視し武家を無視した事から、人材の登用もメチャクチャで、仕事も出来ない人間が位ばかり高く、エラそうにして何もやらない・・・といった散々な結果となります。
さらに、鎌倉幕府討伐に力を発揮した、尊氏(高氏から改名)や義貞をはじめとする武士たちには、まともな褒美がないばかりか、大内裏(天皇の住居)の建築という負担までかけようとします。
建武の新政からわずか2年後、ついに足利尊氏がブチ切れ、反乱の鎮圧に向かった鎌倉で後醍醐天皇に反旗をひるがえします。
楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言しますが、天皇はこれを無視し、来るべき湊川の戦い(5月25日参照>>)へと突入し、正成は討死・・・その合戦では逃走した義貞も越前で敗死(7月2日参照>>)してしまいます。
押し寄せる尊氏軍に対して、一旦逃走した後醍醐天皇でしたが、『三種の神器』を、尊氏が新しく擁立した光明天皇に返して何とか和解。
しかし、すぐに、京を脱出し、「あの三種の神器はニセモノだよ~ん」と主張して、吉野の山中で、朝廷を開きます。
京にある朝廷(北朝)と吉野にある朝廷(南朝)・・・そう、南北朝時代の始まりです。
建武三年・延元元年(1336年)のこの日から、一つの国に二つの朝廷という奇妙な形は、57年間続く(10月5日参照>>)事になりますが、北朝に対してどうしても劣勢だった南朝・・・。
そんな中の延元四年・暦応二年(1339年)、病に倒れた後醍醐天皇は、息子の義良(のりよし)親王(後村上天皇)に皇位を譲った翌日の8月16日、吉野金輪王寺で亡くなりました。
享年52歳。
左手に法華経第五巻を持ち、右手には剣を持って・・・
「玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも魂魄(こんばく・たましい)は常に北闕天(ほっけつてん・北にある宮城の門の方角)を望みたい」
これが、天皇最後の言葉だったとか・・・
精力絶倫で何人もの后を娶り、抜群の行動力と強い意志を持ち、不屈の精神で理想を追い求めた後醍醐天皇の目は、やはり、その最期の時も、北の都を睨んでいたに違いありません。
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コメント
後醍醐天皇は、延喜・天暦の治の再来を願っていたのは確かだとおもいますが、その時代が、安倍晴明の時代であったことが重要ではないかと思います。南朝の功績は、反対勢力を朝敵と言えなくなったことではないでしょうか。
投稿: 金輪王寺 千人会 | 2010年7月22日 (木) 09時44分
金輪王寺 千人会さん、こんにちは~
ふ~~ん安倍晴明ですか…
すでに、鎌倉時代の承久の乱で「天皇ご謀反」なんて代議銘文にしちゃってますから、なかなか武士を排除しての政治は難しいかと…
投稿: 茶々 | 2010年7月22日 (木) 13時08分
茶々様、最後まで大阪城を守っていてくれましたね~。ありがとうございます。それまで金輪王寺は吉野山にありましたが、家康と天海に没収されて日光に輪王寺ができました。豊臣と共になくなって約400年がたちました。大阪城炎上と金輪王寺没収、消滅。何やら不思議なご縁で・・・
地方分権、国会議員整数削減。ある意味の武士排除ですね。もうはじまているような・・・
投稿: 役行者 | 2010年7月24日 (土) 13時24分
役行者さん、こんにちは~
政治の事はよくわかりませんが、家康は、よほど豊臣の残党が怖かったのでしょう。
関連ある場所はことごとく破棄されましたから…
投稿: 茶々 | 2010年7月24日 (土) 15時03分
茶々さん、おはようございます。
吉野山に行きましたが、蔵王堂、中千本を経て、上千本の手前まで行き、如意輪寺に行きましたが、
「玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも魂魄(こんばく・たましい)は常に北闕天(ほっけつてん・北にある宮城の門の方角)を望みたい」
と言う後醍醐天皇の精神を感じました。後醍醐天皇陵に行ったときに写真を撮りましたが、圧倒されました。
帝王後醍醐と言う村松剛が書いた本そのものと改めて知りました。
ある意味で言いますと大和魂、神風、神力も後醍醐天皇の抜きには考えれないです。血統的には北朝が正統でも精神的には南朝が上と感じました。北朝のシステムに南朝の魂があると凄い力になると思います。いつになったらそうなるのでしょうか?
吉野山を訪れて思うのは南朝の方々は後醍醐天皇を筆頭に強く熱い魂を持って、健脚な足で全国を回ったのだと感じ取るくらいに吉野を歩くのは疲れました。今日はバテバテです。
投稿: non | 2016年4月11日 (月) 09時28分
nonさん、こんばんは~
吉野の行かれたのですか?
良い季節に行かれましたね~
桜はどうでしたか?
投稿: 茶々 | 2016年4月12日 (火) 01時09分
茶々さん、おはようございます。
吉野の桜は美しかったです。
特に中千本の奥、上千本、如意輪寺の桜は良かったです。
後で知ったのですが私の歩いたコースは添乗員さんも母も吃驚したのが正確だったとネットで知りました。トレッキングコースでした。
でもそういう所を平気で歩いた後醍醐天皇を始め南朝の方々は凄いと思いました。
賀名生がTVで出ていましたが、吉野よりも奥なのですね。その又奥が十津川ですので熊野は南朝の聖地と思いました。
投稿: non | 2016年4月12日 (火) 10時38分
nonさん、こんにちは~
それは良かったですね~
最高の季節でしたね。
ホント、奈良県の南部は未だ原生林のままの場所もあって神秘的な雰囲気ですね。
投稿: 茶々 | 2016年4月12日 (火) 17時58分
茶々さん、こんばんは。
吉野も奈良の南部の入り口で、その奥には十津川、川上と言う大きな村がありますね。
賀名生は見ていましたら山奥ですね。
南北朝の頃に吉野まで攻めた北朝が賀名生や十津川には来なかったのもよく分かります。
そう言えば今でも十津川辺りは南朝の遺臣の子孫が多いですね。
今日見ていた大和八木と新宮を結ぶ路線を見ていますと山々と言う感じでした。神秘だなと思いました。多分あの辺りが神武天皇以来の皇室直臣の人や山の民が多いのだろうと思います。
上千本あたりを見ますと後醍醐天皇が楽しんだのは奥の方と感じました。
投稿: non | 2016年4月12日 (火) 19時27分
nonさん、こんばんは~
大台ケ原とか…とても神秘ですヽ(´▽`)/
投稿: 茶々 | 2016年4月13日 (水) 01時32分
茶々さん、こんばんは。
吉野は大峰山、大台ケ原、高野山、金剛山に繋がっていて、大峰山系の一番北になるので、大峰登山修行者が来ているのをはじめて知ったと言うよりも分かりました。吉野山は結構きつい山だと分かりました。
修験道の方も多いだろうと感じました。
投稿: non | 2016年4月13日 (水) 20時56分
nonさん、こんばんは~
修行の山ですから…やはりキツイでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年4月14日 (木) 02時19分