東海道は五十七次!~道の日にちなんで
8月10日は『道の日』。
大正九年(1920年)に日本初の近代的な道路整備計画が決定した事を記念して、当時の建設省が、昭和六十一年(1986年)に制定したのだそうです。
そして、今日は「や(8)ど(10)」の語呂合わせから『宿の日』でもあるのだそうです。
こちらは、国観連や日観連など宿泊観光関連の4団体が平成四年(1992年)に制定しました。
・・・で、今日は『道の日』と『宿の日』にちなんで、『東海道五十七次』のお話をさせていただきます。
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「えっ?東海道は53次じゃないの?」
と、お思いでしょう。
安藤広重の版画や十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』などで、東海道はお江戸・日本橋から京都・三条大橋までの53次・・・と紹介されている事から、『東海道五十三次』と一般的に思われていますが、それは、あの天下分け目の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)までの事なのです。
徳川家康は、事実上、豊臣家五大老の筆頭となった関が原の合戦の翌年・慶長六年(1601年)に、かつて豊臣秀吉が整備した『京街道』と呼ばれた道を東海道の一部とし、4つの町を正式な宿場町に定めています。
宝永年間(1704年~11年)には、「江戸から大坂の距離137里4町1間をもって東海道と呼ぶ」という事が明記され、幕府の公式文書にも、「東海道は品川宿から守口宿まで」との記述があり、道中奉行の支配下にある事も定められていますので、江戸時代を通じて、『東海道五十七次』というのが正式なのです。
では、まず秀吉が整備した『京街道』というのを見ていきましょう。
天正十八年(1590年)小田原城の後北条氏を倒し(7月5日参照>>)、いよいよ天下統一をはたした秀吉は、文禄三年(1594年)に伏見城の建設を計画します。
それまでの京都~大坂間の交通網と言えば、淀川を上下する水運が定番で、陸路となると、八幡から山崎に入って東高野街道・西国街道を行く淀川西岸の道(光秀の洞ヶ峠参照>>)か、八幡から樟葉・枚方を経て飯盛山の麓(家康の伊賀越え参照>>)から・・・と、いずれもかなりの迂回路でした。
秀吉は天正十四年(1586年)、すでにあの難攻不落の大坂城を建てています。
しかも、途中の「淀」には、天正十七年(1589年)に、織田信長の時代に細川藤孝が城主を務めていた納所の城に大改装を加えて、側室・茶々のための淀城も建設しています。
それらの城を行き来するには、当然の事ながら、伏見~大坂間の道路の整備というのが不可欠になってきます。
・・・で、秀吉が伏見城の建設と同時に築いた淀川東岸の堤防道路=文禄堤を、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家らが、さらに修築を加えて文禄五年(1596年)に完成させたのが、京街道・・・という事になります。
正しくは、伏見の寺田屋の西方に架かる「京橋」を起点とし、大坂城の西北に架かる「京橋」までの道程を『京街道』と呼びます。
完成したこの道が、京都⇔大坂間の本街道として、荷物や人々の往来を盛んにしただけでなく、周辺の村々の発展にも貢献した事は言うまでもありません。。
ちなみに、この文禄堤は、京街道という道路としても、淀川の氾濫を防ぐ堤防としても、大変役立つ物でしたが、天下を取ったとは言えど、まだまだ安心できないこの時代・・・軍事的にも重要な役目を果たしていたのです。
それは、「いざという時、枚方以北の堤防を切り、淀川を決壊させ、土地が低い現在の東大阪市のあたり一帯を水没させ、東からの大坂への進入を防ぐ」という事ができるようになっていたというのです。
それを証明するかのように、堤の建設に携わったのが、先ほどの毛利勢を始めとする西国の諸大名に限られていて、東国の大名は一人として関わっていないのです。
実際に、そのように使用された記録はありませんが、いかに、東からの敵を想定していたかがわかりますね。
しかし、秀吉の心配空しく、関ヶ原の合戦は東軍の勝利となり、冒頭に書いたように、天下一の力をつけた家康のもと、京街道は東海道の一部としてさらなる発展を遂げる事になるのです。
お江戸・日本橋からの53次に、伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿の4宿を加えて『東海道五十七次』・・・ただし、この場合は京都市内を通らず、大津の次に伏見そして淀・枚方・守口と来て、大坂の最終地点は高麗橋(大阪市中央区)という事になります。
現在の高麗橋のたもとには、『里程元標跡』と刻まれた石碑が立っていますが、これは「ここを基準として各地への距離を示した」という・・・つまり道路標識の「○○まで、あと○km」というアレの基準の場所という事を示しています。
現在、街道の面影を残す場所としては、この高麗橋・・・そして、守口には、今も約700m分だけが残る文禄堤沿いに往年の商家を偲ばせる町並みが残っています。
枚方宿には、先日ブログに書いた船宿・鍵屋(6月30日参照>>)とその周辺に京街道の面影が見られます。
枚方宿は、京と大坂のちょうど中間あたりに位置している事、淀川を走る三十石船の船着場でもあった事で、特に重要視され、徳川の時代は幕府直轄の天領とされました。
淀は・・・現在、京阪電車の淀駅から見える石垣を持つ淀城は、残念ながら秀吉が茶々のために建てた淀城ではなく、二代将軍・徳川秀忠が、伏見城の遺構でもって築いた徳川の淀城。
ただし、ここも、あの鳥羽・伏見の戦い(1月2日参照>>)の重要地点となった歴史を持つ城跡です。
伏見は、秀吉の伏見城のもと城下町として栄えた場所ですが、やはりここも伏見城が徳川の手によって壊されてのち、しばらくは荒れ放題になってしまっていましたが、元禄十二年(1699年)、伏見奉行の建部(たけべ)内匠頭が、三十石船の船着場=京の玄関口として再開発してからは、遊郭や船宿の建ち並ぶ観光都市としてよみがえり、ご存知、坂本龍馬や西郷隆盛がかっ歩した幕末の舞台(4月23日参照>>)ともなるわけです。
現在は龍馬や薩摩藩士の常宿として知られる寺田屋や、酒蔵の建ち並ぶ町として、趣のある町並みを残しています。
どうでしたか?『東海道五十七次』・・・
たぶん、教科書にも『五十三次』となっていて、これから先もずっと、一般的には53次が正解なのでしょうが、今日のブログを読んで、心の片隅にでも『五十七次』の事をとどめておいていただけたらうれしいです~。
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高麗橋・守口宿・枚方宿・伏見の地図や写真をHPにupしています。
よろしければ、下のリンクからどうぞ
大阪歴史散歩:中之島周辺(高麗橋)>>
大阪歴史散歩:文禄堤と守口宿>>
大阪歴史散歩:京街道枚方宿へ>>
京都歴史散歩:伏見周辺を歩く>>
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