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2007年8月 3日 (金)

今も昔も役人天国?大宝律令の役人の年収は?

 

大宝元年(701年)8月3日、刑部(おさかべ)親王藤原不比等(ふひと)による『大宝律令』の編さんが完成しました。

・・・・・・・・・・・

「律令」「律」刑法
「令」は、行政に関する法律の事。

それまでの大和政権では、天皇を中心とする豪族たちによる、(うじ・血縁関係の集合体)が、(かばね・政権内の地位)を朝廷からもらい政治を行うという『氏姓制度』でした。

しかし、遣唐使などから、中国の律令国家の制度がもたらされ、日本も、法律に基づく中央集権・律令国家への道を歩み始めます。

日本最初と言えば、646年の「大化の改新の詔(みことのり)や、668年の天智天皇「近江令」という事になりますが、これらはどうもアヤシイ・・・。

その後も、「大宝律令」が発令されるまでの間には、もう一つ、天武天皇「飛鳥浄御原(きよみはら)令」というのも発令されてますが、どれもこれも、その文章の中に、明らかに大宝律令が制定されてから後に使われ出す官職名などが登場する事から、その「令」自体を疑問視する声も上がっています。

やはり、日本が本格的に勝つ確実に、律令国家として歩み出したのは、この『大宝律令』から・・・と考えたほうか良さそうです。

『大宝律令』の中では、この先の行政の基盤となる『官制』が最も重要でしょうか。
中国に倣った・・・と言っても、神国・日本ですから、政治を行う「太政官」とは別に「神祇官」という祭祀を行う機関が設けられ「二官八省」となります。

Taihourituryoukanseicc 政治を行う「八省」は、・・・
・中務省=公式文書作成
・式部省=役人の人事・教
       育
・治部省=僧尼・貴族・外
       交事務
・民部省=戸籍・税の管理
・兵部省=軍事
・刑部省=裁判・刑罰・身
       分の決定
・大蔵省=財政
・宮内省=宮中の雑務
となります。

そして、何と言っても中国と違うところは、役人の採用方法。
中国は「科挙」のようなメッチャ難しい試験によって採用や登用が決定されていましたが、日本は100%コネでの採用

官位は、正一位~正八位・初位(そい)までの30階で構成されていましたが、一位~三位までを「貴」と呼び、四位五位は「通貴」、六位以下は「非通貴」で、この五位以上と六位以下の間にはメッチャ大きな溝があり、絶対的な区別がされていました。

一般人(・・・と言っても貴族のはしくれですが)は、どんだけ学校の成績がよくても、仕事が出来ても、せいぜい八位どまり、逆に、親が一位~三位の地位にいるとその子供は、21歳で役人になった途端、五位から始まる・・・といった感じです。

以前、このブログでご紹介した吉備真備(きびのまきび)(4月25日参照>>)は、遣唐使として中国に渡り、猛勉強の末、貴重な書物を日本に持ち帰った功績によって、六位下の官位をもらい、その後、右大臣まで出世しますが、そんな例は、彼以外にはほとんど見当たりません。
よほどの天才だったんでしょうね。

この五位以上と六位以下の差は、当然、年収にも関わってきます。

律令国家に欠かせない土地制度に『公地公民の制』『班田伝授法』というのがあります。

『公地公民の制』というのは、「すべての土地は国の物で、決まりにのっとって口分田(くぶんでん)を与える」というもので、その決まりというのが『班田伝授法』・・・で、これが、「6年ごとに戸籍を改め、6歳以上の男女に口分田を分け与えて本人が死んだら返す」というものです。

「6歳以上の男女に・・・」とありますが、全員同じではなく、きっちり差別されています。

Taihourituryouzyouriseicc 貴族と公民を含む戸籍に登録されている(当時600万人くらいいた)良民(りょうみん)と呼び、この良民の男子『条理制(右図参照→)で分けられた土地の2段分が与えられます。
そして、女子にはその3分の2

それ以外の戸籍のない人たちは、賤民(せんみん)と呼ばれていて、良民の3分の1の口分田が与えられたのです・・・って、右図の通り、10段=約108mなら、そのうちの2段の3分の1って・・・7mくらいしかないがな!

しかも、賤民の中で、家人(けにん)と呼ばれる人々は、曲がりなりにも家族として暮らす事ができましたが、奴婢(ぬひ)と呼ばれる人々は、自由に売買され、家族と暮らす事も許されていなかったそうです。(だんだん腹たってきた・・・)

さらに、腹たつ話をしていきましょう。

そうです。
先の「役人」という人たちは、これらの農民から税を取って年収・・・つまり給料を得ていたわけですから・・・。

まず、役人の収入源は、「位田(いでん)」「位封(いふう)」「位禄(いろく)」「季禄(きろく)の4種類です。

「位田」は、五位以上の役人に与えられる田の事で、最低の五位でも8町・・・さっきの一般良民の40倍です。

「位封」は三位以上の役人に与えられる人民・・・これは、人という意味ではなく、その人数が収める税金という事で、三位の場合は100戸でした。

「位禄」は、四位・五位の役人に与えられる大蔵省の倉庫から与えられるお金で、実質的には「位封」と同じです。

・・・で、何と!うれしい事に、この位田・位封・位禄の3つは、役所に出勤しなくても、一生貰えるお給料なのです~(・・・て、ええかげんせぇ!)

さらに、マジメに働いた人(当たり前)には、毎年2月上旬と8月上旬に「季禄」という特別手当が支払われます。

これは、六位以下であろうが、役人なら全員に支払われた給料ですが、半年のうち120日以上出勤していないと貰えません・・・って、一年で240日なら週休2日?

農民は盆と正月もなく働いて、役人は日が暮れる前に退社の時代に、週休2日は休みすぎやろ!

・・・で、「季禄」(あしぎぬ)・綿・布・鍬(くわ)の4種類の物品で、大蔵省から支払われました。

これも、一位の役人は最下位の役人の30倍あったといいますから、役人の中でも格差はあったのですが、さらにさらに、大臣と大納言に任命された人には、「職田(しきでん)」「職封(しきふ)という中身は位田と位封と同じものが別に与えられ、大臣や大納言には三位以上の人しかなれないので、またまたトップが得するシステムとなっております。

そして、(まだ、あんのかい!)五位以上の人には資人(しじん)という公費から人件費がまかなわれる召使い(公設秘書か!)も支給されるのでありがたい。

さらに、改元や即位などの祝い事があるとボーナスも支払われます。

・・・と、書いてても、なかなか具体的にどれくらいなのか?掴みにくいので、正一位の太政大臣(総理大臣クラス)で見てみると・・・
位田+職田=120町
位封+職封=3300戸
資人=400人
季禄=(絁×30匹+綿×30屯+布×100反+鍬×140口)
合計・・・現在のお金に換算すると、年収3億7千万くらいだったそうです。

二位だと1億2千万、三位が7千万で、四位4千万・・・先ほど、五位以上と六位以下の差がスゴイというお話をしましたが、五位が2千800万と、今まで通りの順調な下がりっぷりなのに、六位でいきなり700万(何じゃこの差は?)
七位が500万で八位が350万

官位のところで紹介した一番下の初位は250万くらい。

・・・で、この初位は、大初位(だいそい)少初意(しょうそい)に別れているうえに、さらに上下に分かれていて、今の250万という金額は大初位の年収なので、少初位下という末端になると、さらに低い・・・という事になり、役人と言えども、そこまで差をつけられると、ちょっとかわいそうな気もします。

あの正倉院には「季禄」を担保に借金している下級役人の証文や、同じく下級役人がアルバイトで書いた写経も残っています。
けっこう火の車だったようです。

それにくらべて、上級役人・・・先ほど「三位から上の役人の息子は最初から五位なのだ」「一般人は八位より上に上がらない」という事を書きました。

ですから、この法律ができてからは、一部の家柄の出身者ばっかりが三位以上の地位を独占する事になるのです。

奈良時代を通じて三位より上になったのは、先ほどの吉備真備などの例外を除いては、藤原氏をはじめ、大伴氏橘氏など・・・20足らずの一族だけです。

さすが、藤原不比等が作っただけの事はありますね~。
自分らが儲かるように計算されてますなぁ~。

かつての人気ドラマ『ドラゴン桜』で、主人公の学校の先生が「金持ちになりたいなら東大へ行け!世の中のシステムは頭の良いヤツが、自分たちが儲かるように作っている」と言ってたのを思い出しました~。

ちなみに、地方の国司をやっていた山上憶良(やまのうえのおくら)の年収は千500万くらいで、あの『古事記』を編さんした太安万侶は四位で年収3千500万だったとか・・・そら3千500万もろたら、編さんくらいする!っちゅーねん、けっこう金持ち~。
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飛鳥時代」カテゴリの記事

コメント

歴史が苦手な私でも、楽しく読むことができました。とても分かりやすかったです。

投稿: ナツ | 2007年8月18日 (土) 12時38分

ナツさま・・・コメントありがとうございます~。

そう言っていただけるとうれしいです。

投稿: 茶々 | 2007年8月18日 (土) 15時00分

歴史物のネタは、多々あれど、給与の話は珍しく。愉しく読ませていただきました。
でも、いつもながら、縦横無尽の博識ぶりに驚きです(^^)

投稿: ひろし | 2014年12月27日 (土) 18時00分

ひろしさん、こんばんは~

励みになるコメント、ありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2014年12月28日 (日) 01時42分

とても興味深いデータでした。
当時の役人の経済格差がわかりやすく知れておもしろかったです。

もしよろしければ、数ある参考文献の内、1~2つを代表して教えていただいてもよろしいでしょうか。

投稿: シュウ | 2015年6月 6日 (土) 10時04分

シュウさん、こんにちは~

データはどこから?…という事ですよね?
8年前なので、すべてを記憶してるわけではありませんが、組織や数字的な物は、小中高の歴史教科書の副読本とかで見る事が多いです。
ちなみに、今、見つけたのは浜島書店と東京法令出版ですが、本棚にはあと何冊かあったと思うものの、すぐには見当たりませんm(_ _)m

あと、主婦と生活社の『日本史ものしり事典』、青春出版社の『ふしぎの日本史面白読本』、山川出版社の『日本史こぼれ話』などが風俗習慣的な事にくわしいです。

投稿: 茶々 | 2015年6月 6日 (土) 15時05分

こういったデータを収集するための手段を探しておりました。本当に参考になりました!

お忙しいところ、お返事ありがとうございました。

投稿: シュウ | 2015年6月 6日 (土) 22時20分

シュウさん、こんばんは~

お返事、ありがとうございます。

書き忘れておりましたが、教科書の副読本は、後になれば手に入り難い物もありますので、書店で『日本史図録』や『日本史史料集』など探されてはいかがでしょうか?
私の持っているのは図録も史料集も山川出版ですが、当時の収入や戸籍や税制について、まとめた表が載っていますよ。
(このページを書いた時には、まだ購入してませんので、このページの参考にしたわけではありませんが…)
もちろん、図録や史料集は複数の出版社から出ていますので、書店で手に取ったり、図書館で見てみたり、ネットの評価を検索して、ご自身の趣味に合った出版社の物を探されるのが良いかと思います。

最初の段階で、図録と史料集の事を書き忘れてて申し訳ないです。

投稿: 茶々 | 2015年6月 7日 (日) 02時02分

またまたご迷惑をおかけします。
よろしくお願いいたします。
養老律令757年施行からの疑問です。渤海国が成立、やっと遣唐使派遣が始まり、721年に養老律令が完成しますが、その施行が遅れた理由は、各地に国分寺の統一が出来るまで各地の豪族を意識統一出来ず、施行できなかったものでは。藤原京を新益京として無視、大化改新を画期として大宝律令を無視しているところから見ると、大宝律令は年号制と、郡表記書き換えという程度の意味のものだったのでは。しかも大宝律令は残っていないので、養老律令から再現するとして話が進められていますが、そんなことで歴史証明?。長屋親王を長屋おう吐する続日本紀ですし。

投稿: いしやま | 2015年8月21日 (金) 15時12分

いしやまさん、こんにちは~

もちろん、このページの記述は『大宝律令』等の文書に基づいての事ですが、それらの文献の内容が、どこまで事実なのか?どこまで正確なのか?の研究は、また別のアプローチが必要かと思います。

長屋王邸の発掘調査など、まだまだ歴史が書き換えられる事が出てくると思いますよ。

投稿: 茶々 | 2015年8月21日 (金) 16時24分

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