長宗我部元親の安芸城攻略作戦
永禄十二年(1569年)8月11日、土佐の統一を狙う長宗我部元親が、土佐東部を治める安芸国虎を攻撃し、安芸城が開城されました。
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織田信長がやっとこさ稲葉山城を手に入れ(8月15日参照>>)、その横では今川と北条と武田が入り乱れ、西は西で毛利と大友が領地を奪い合う・・・未だ誰が突出するという事のない、まさに、群雄割拠の永禄年間(1558~69年)の後半頃。
四国・土佐(高知県)では、あの猛将・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、まさに破竹の勢いで勢力を拡大しつつありました。
土佐の中央部をほぼ手中に収めた元親は(4月7日参照>>)、東部の安芸に狙いを定めます。
永禄十二年(1569年)4月頃、元親は、土佐安芸城(安芸市)を本拠地とする安芸国虎(あきくにとら)に、それとなく降伏を催促する手紙を送ります。
しかし、国虎の安芸氏は、200年以上に渡ってこの地に根を下ろしてしる由緒正しきお家柄・・・たった1通の手紙で「ハイ、そうですか」と、すんなりと国を譲るワケがありません。
手紙の返事をもらえない元親は、「それならば・・・」と、堂々と『安芸討伐』を宣言するのです。
そして7月中旬、元親は7千の兵を率いて、安芸城の間近に迫ります。
もちろん、土佐の闘将・国虎も、指を加えて城を囲まれるのを見ているわけにはいきません。
当然、撃って出ます。
最初の衝突は矢流山で起こりましたが、この戦いは、大勝とはいかないまでも、長宗我部軍が安芸軍をけちらし、少し本拠地の安芸城寄りの東へ向けて駒を進めた形となりました。
しかし、ここから先は、元親の破竹の勢いが復活します。
安芸城の手前にある新荘城・安内(あなない)城といった支城を、次々と攻略して行き、徐々に国虎を窮地に追い込んでいきます。
やがて、7月も終わりに差し掛かる頃、長宗我部軍は安芸城を包囲します。
しかし、元親は、まだ力まかせに城に攻め入る・・・という事はしませんでした。
それは、以前から仕掛けておいた計略の成果が、ここに来て徐々に出始めていたからです。
元親は、今回の出陣をする以前から敵方の情勢を探り、国虎に不満を抱く臣下の者たちに恩賞をちらつかせて、こちら側に内通するように誘いをかけていたのです。
内通者の数も増え、城の守りの薄い箇所を聞き出した元親は、「チャンス到来!」とばかりに、8月に入って、一気に安芸城に総攻撃をかけます。
もちろん、総攻撃と言っても、聞き出した守りの薄い所を集中的に攻撃します。
ズルいっちゃーズルいやり方ですが、なんせ戦国ですから・・・キレイな方法にこだわっていたらこっちが危ないですからね。
さすがに、こうなってしまっては、国虎も、「もはやこれまで・・・」。
永禄十二年(1569年)8月11日、土佐安芸城は開城されました。
安芸氏当主・国虎は、城下にある安芸氏の菩提寺・浄貞寺で切腹・・・200余年にわたって安芸を支配してきた安芸氏はここに滅亡する事となりました。
こののち、高岡・幡多といった土佐の各地を攻略した元親は、天正三年(1575年)7月、甲浦(かんのうら)城(東洋市)を落とし、念願の土佐統一を成し遂げるのです。
今日のイラストは、
意外(失礼・・・)に大人気の長宗我部元親さんで・・・
高知にある銅像は、かなりカッコ良いですが、イラストは動きのある『長宗我部元親・安芸を制す!』って感じで勇猛な姿を書いてみました。
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