幻の伏見城~徳川幕府は何を恐れたのか?
戦国時代・・・。
教科書には、このような分類の時代はありません。
どこからどこまでが戦国時代なのか?
その分け方も明確な定義はないように思います。
特に、戦国の終わりに関しては、織田信長が第十五代・室町幕府将軍となる足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)(9月7日参照>>)とも考えられますし、同じく義昭が将軍職を辞した天正十六年(1588年)(7月18日参照>>)とも言えますが、私としては、大坂夏の陣で終わりではないか?と、とりあえずは、このブログのカテゴリーでは、今のところ、勝手にそのように分類させていただいてますが・・・
俗に、戦国時代を『安土桃山時代』と呼んだりもしますが、安土というのは、ご存知安土城を指していて、つまり織田信長が事実上天下を握っていた時代。
そして桃山時代は、事実上豊臣秀吉が天下を握っていた時代という事になります。
前置きが長くなりましたが、今日は、その桃山時代の象徴でもある『伏見城』のお話です。
‥…━━━☆
この時代は、桃山文化と呼ばれる、煌びやかで極彩色の華やかな文化が花開いた、まさに、秀吉全盛の時代です。
ちなみに、現在、京阪電車や近鉄電車の車窓から見えるあのお城は、遊園地のシンボルとして建てられた物で、歴史的史跡ではありませんので、その名称も『伏見桃山城』→となっています。
遊園地が終わって、その跡地が運動公園となり、その伏見桃山城も維持管理が困難な状態となり、取り壊しの案も浮上していましたが、区民の「伏見のシンボルを壊さないで!」という希望から、先送りされていたところ、何やら、淀殿を主役にした映画のロケ地に決まったらしく、映画会社が前面バックアップして、城の修復作業が行われたようで、幼少のおり、遊園地で楽しく遊ばせていただいた私としては、現役の頃の美しいお城に生まれ変わるのはウレシイです。
少し話がそれてしまいましたが・・・
そんな秀吉の伏見城の建設は、聚楽第(2月23日参照>>)の取り壊しから始まります。
その資材を使って、伏見の地に新しい城を建設し始めますが、当時は朝鮮出兵(4月13日参照>>)の真っ只中で、残った大名たち総出で城の建築にあたりました。
それが、指月城と呼ばれるお城ですが、完成の頃には、ちょうど第1次の文禄の役が終結し、朝鮮からの外交使節を迎えるとあって、絢爛豪華な大城郭に仕上がりました。
しかし、完成間もなく、大地震によって指月城は崩壊してしまいます。
時期的に、朝鮮出兵への報いだとか、関白秀次の怨念(7月15日参照>>)だとか囁かれたりなんかもしますが、気をとしなおして、慶長二年(1597年)5月4日、指月城から少し離れた地盤の強固な場所に、再び大城郭を建設します。
それが、伏見城です。
現在の桃山御陵(明治天皇陵)のあたりを中心に半径500mに及ぶ壮大な敷地に、五層の天守閣を備え、名護屋丸、二の丸、松の丸、御花畑山荘、舟入御殿など粋をこらした名城・・・先の指月山の伏見城と区別するため、木幡山伏見城とも呼ばれます。
天守閣には、千畳の大広間があり、楊貴妃の間、学問所なども備えた、まさに、天下人にふさわしい壮麗なお城。
しかも、晴れた日には、遠く大坂城からも通信ができるという、計算されつくした設計となっていたほか、舟入りには宇治川から濠でつながれ、直接舟でも出入りできるという工夫もされていました。
城を取り巻いて、200余りの大名屋敷が建ち並び、建築資材を提供してまで、堺や大阪から大商人を誘致し、郷里・中村からも多くの移住者を呼び寄せました。
河川と道路網を整備した一大城下町は、当時、世界最大の都市としてヨーロッパに紹介されたほどでした。
しかし、完成してほどなく、秀吉は病に倒れ、帰らぬ人となってしまいます(8月18日参照>>)。
その後には、息子・秀頼が入城しますが、翌年には徳川家康が入城し、この城に居座る事となります。
そう、天下を狙う家康から見れば、目の上のタンコブだった秀吉が建てた城であるにも関わらず、「それでも、この城が欲しい!」と家康に思わせるほど、天下人にふさわしい素晴らしいお城だったのです。
やがて、関ヶ原の合戦の時に、この城は、最初の抗戦の舞台となり、一部焼失してしまいますが(7月19日参照>>)、合戦に勝利して事実上の天下人となった家康は、すぐに伏見城を修復して、この城で政務を行い、側室の中でも一番のお気に入りだったお亀の方を御花畑山荘に住まわせ、晩年のほとんどをこの城で過ごします。
家康自身もそして、あの三代将軍・家光も、この伏見城で将軍宣下を受けています。
しかし、そんなに徳川家も大好きだったはずのこの城が、なぜか、家康の死後、数年も経たないうちに、跡形もなく取り壊されてしまうのです。
本丸御殿は二条城に移され、櫓は江戸城へ、石垣は川を下って大阪城の修復に・・・。
門などは、大徳寺や西本願寺といった寺院などに・・・。
京都を巡っていると、本当にたくさんの「伏見城の遺構」という物にお目にかかります。
有名な、西本願寺の唐門。
(←唐門の画像をクリックしていただくと、HPの西本願寺の紹介のページが開きます。唐門のアップも掲載してます)
伏見の御香宮(ごこうのみや)神社の表門は、かつての伏見城の大手門。
拝殿は、かつての車寄です。
同じく、伏見にある源空寺・山門も伏見城の遺構です。
(写真をクリックしていただくと、HPの伏見の紹介ページが開きます。地図もありますので、場所の確認の参考にしてください→)
絢爛豪華な桃山文化の遺構が、一部でも無事残った事にホッとしますが、それにしても、この壊し方はいったい何なんでしょう?
合戦で焼け落ちたわけではありません。
誰もいなくなって廃城になったわけでもありません。
現役で機能していたりっぱな城が、石垣どころか、礎石すら残らないほどの状態になるまで徹底的に壊される・・・というのは、他に例が無いのではないでしょうか?
徳川家にいったい何があったのか?
史料となるべき物がない以上、本当の理由は藪の中ですが・・・
「伏見城には淀殿の怨念がこもっている」
「豊臣の城に徳川が入って、どうなるものやら・・・」
なんていう、町の噂も、ひょっとしたら、単なる噂では片付けられないような事件が起こっていたのかも知れません。
跡地には、明治天皇の御陵ができた事もあり、ほとんど発掘調査らしい調査は行われていない伏見城ですが、近くの毛利輝元の大名屋敷跡と見られる場所から、大量の金箔瓦発見されています。
あの秀吉さんの事ですから、天守閣に金箔が貼られていたのは、大体想像がつきますが、大名屋敷にまで金箔とは・・・それも、地下わずか1mの所に埋まっていたという事なので、オドロキですね。
徳川時代に徹底的に破壊された広大な跡地には、見渡す限りの桃の木が植えられ、花の季節になると、あたり一面、淡い桃色の花で埋め尽くされたとか・・・それが、このあたりの桃山という地名の由来です。
秀吉の天下であった事を意味する桃山時代という名称・・・
豊臣の繁栄を映し出す豪華絢爛な桃山文化という名称・・・
皮肉にも、その名称が、豊臣天下の象徴であった伏見城が壊された跡の桃の花に由来するとは・・・何とも言えない空しさを感じさせられます。
なんせ、秀吉の全盛時代は、ここは『桃山』ではなかったわけですから・・・。
ちなみに、秀吉亡き後の伏見城下には豊臣恩顧の西国大名たちが詰め、一方の大坂城下には東国の大名が詰めていたのですが・・・そのお話は2013年3月7日の【秀吉亡き後の大坂城と伏見城の役割】でどうぞ>>
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コメント
「伏見桃山城」が閉鎖された後、一度行ってみたことがありますが、本当に「荒城」になって、みじめだなあ、もったいないなあって思わせられました。
レジャー産業で生き延びるのは、難しい世の中ですねえ。歴史教育というには、もっと徹底して正確に復元しなければ意味がないし。安土城天守を復元?した、あの伊勢戦国時代村?の近くを車で通りましたが、山の上にキンキラキンの天守閣がそびえていましたが、あそこは、いつまで生き延びられるのでしょうかね。
何やかや、言ってもミーハーには、「お城」って好もしいものですものね。
投稿: 乱読おばさん | 2007年8月31日 (金) 11時35分
私も、閉鎖中に一度見に行きましたが、古寺や神社に人の気配がなくて「静かだなぁ~」っていうのとは違って、何やら廃墟というか・・・失礼ながら、ものすごく不気味でした。
今度の映画の話で少しでも活気が戻れば良いですね。
投稿: 茶々 | 2007年8月31日 (金) 13時24分
茶々さん、こんばんは。
伏見桃山城、何にしても絢爛豪華さを復活してほしいですね。
伏見城は3つの言い方があると思います。
最初が、指月山伏見城。(←指月の森の辺りでしょうか?宇治川対岸の向島城と1セットに考えると美しい構造だと思います)
続いて、慶長の大地震で指月山伏見城が倒壊した後に建てられたのが木幡山伏見城。
こちらは桃山御陵のおかげで全体像がつかめません。(その分、伏見区桃山町の地名で面影をたどれますが…)
最後に、現在建っている伏見桃山城。
聞き馴染みのある「伏見桃山城」という言い方もありますが、桃山伏見城(=桃山に建てられた伏見城)という言い方もあるそうですよ。
投稿: 御堂 | 2007年8月31日 (金) 22時03分
御堂さん、こんにちは~。
桃山伏見城ですか・・・その呼び方も良いですね。
あのお城を、歴史的価値のない物だとおっしゃる方もいるようですが、発掘もままならず史料もない以上、正確な復元をするのは不可能なわけですから、アレはアレで私はけっこう好きです。
伏見は明らかに城下町です。
現在の伏見の町の基礎を作ったのは、秀吉さんですから、その事をを忘れないためにも、見渡す限りの桃の山に生まれ変わってから新たに建った伏見城として、ずっと残しておいていただきたいですね。
投稿: 茶々 | 2007年9月 1日 (土) 10時45分