秀吉の怨念?大阪城の不思議な話
慶長三年(1598年)8月18日は、あの豊臣秀吉さんのご命日・・・。
その死に際してのモロモロの事は、一応昨年の今日のブログに書かせていただきました(書き足りない部分は多々あるのですが・・・)ので、そちらの【なにわのことも夢のまた夢】>>のほうで読んでいただくとして、今日は、その後の大阪城にまつわる不思議な話をさせていただきます。
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皆さんご存知のように、豊臣秀吉が築いたあの難攻不落の大坂城は、大坂夏の陣(5月8日参照>>)の豊臣滅亡とともに、炎に包まれ落城し、焼失してしまいました。
その後、徳川の天下となった時、諸大名を総動員して、秀忠と家光の二代の徳川将軍ににわたる大工事を経て、寛永三年(1626年)に再建されます。
それは、築城名人の藤堂高虎が指揮をとり、五層六階の天守閣を持つ、豊臣時代をはるかにしのぐ壮大なものでした。
しかし、その権威を誇示するかのような、この徳川の大坂城は、なぜか、たびたび落雷の被害に遭うのです。
特に、万治三年(1660年)6月の落雷は凄まじく、火薬庫への直撃によって城郭の4分の1が吹っ飛び、動くはずの無いような巨大な石を動かし、その被害は城下にまでおよび、大勢の死者を出しました。
もちろん、天下の台所・大阪にある重要な城ですから、その都度に修復されるわけですが、当然の事ながら、「豊臣の怨念」的な噂話が囁かれるようになります。
そして、とうとう寛文五年(1665年)、城のシンボルとも言える天守閣の最上にそそり立つ金の鯱(しゃちほこ)に落雷・・・あの夏の陣での落城を思い出させるように、天守閣は炎に包まれ、無残にも焼け落ちてしまいます。
しかも、この日は秀吉の命日・・・燃え盛る天守を見つめながら、大阪町民は「太閤さんの恨み」を強く感じたに違いありません。
結局この後、徳川の時代に天守閣が再建される事はありませんでした。
その次に天守閣が再建されるのは、昭和に入ってからの事・・・その頃、この大阪城一帯は、軍部の管轄であり、陸軍・第四師団司令部が置かれていましたので、大阪城跡に市民が出入りする事は禁止されていました。
大阪市民は、大阪のシンボルである天守閣の復興を願っていましたが、1930年代と言えば、世界恐慌の真っ只中、軍部の重要な場所を市民の観光の地に提供するなど、考えられない時代でした。
そこで、大阪市民のとった行動は・・・、「新司令部庁舎の建築費と、周辺整備を含めた天守閣の建設費のすべてを、大阪市民の寄付でまかなう」という物でした。
さすがの軍部も大阪人の心意気に負けたのか、昭和六年(1931年)、266年ぶりに大阪の空に天守閣がそびえ建つ事になったのです。
それが、現在の大阪城・天守閣です(11月7日参照>>)。
その外観は大阪市民の希望により、黒田家に伝わる『大阪夏の陣屏風』に描かれている豊臣時代の大坂城の絵を参考にして再現されました。
私も、大阪城のすぐ近くで生まれ育ったので、その気持ちがよくわかるのですが・・・いまさら徳川家康さんを怨む気持ちはさらさらありませんが、やはり再建するなら太閤さんの大坂城を・・・と思ってしまいます。
首都が江戸にありながらも、天下の台所として経済の発展を遂げた大阪の町の基礎を作ったのは、やはり太閤さん・・・そこは譲れないんですよねぇ。
そんなこんなで、再建された天守閣。
再建当時はまだわかっていなかったのですが、昭和三十四年(1959年)に発見された『地中の石垣』と、その翌年に発見された豊臣時代の『大坂城・本丸図』によって、実は、現在表面に出ている石垣や城跡はすべて徳川時代のもので、豊臣時代の遺跡は、その下の地中に埋もれている事がわかりました。
(発見の経緯などは、本家HP:大阪歴史散歩「秘密の大阪城」に石垣の写真つきでupしていますので、くわしくはコチラからどうぞ>>)
ですから、現在の大阪城は、奇しくも「徳川の石垣の上に豊臣のデザインの天守閣が建つ」という、本人たちの意図しない夢のコラボとなっているわけです。
よく、大阪城を訪れた観光客のかたが、鉄筋コンクリート造りの現在の大阪城を見て「大阪城は城ではなく、城の形をした博物館だ」とか、「復元するなら、ちゃんとした復元をすればいいのに・・・これならビルと同じだ」と、おっしゃる場合があるのですが、地元民の一人として、声を大にして言いたいのです。
上記の通り、昭和六年当時では、屏風に書かれた外観しかわからず、それ以外の部分の復元はしようにもできなかったのです。
それでも、太閤さんの錦城(きんじょう)を再建したかった大阪市民の熱い思いを察してくださいませ。
ところで、今日の記事のタイトルにもなっている不思議なお話・・・。
秀吉さんのご命日に雷が落ちた・・・では終らないのです。
先ほども書きましたように、徳川が二代目大坂城を建てた寛永三年から、天守閣が焼失した寛文五年まで、わずか40年足らずの間に、詳細な記録が残る上記の2回を含め、かなりの数の落雷が大阪城を襲っています。
・・・にも、かかわらず昭和六年に再建された現在の天守閣は、この76年間、一度も落雷の被害を受けていないのです。
それどころか、このあたり・・・太平洋戦争中は、東洋一の軍事施設でしたから、戦争末期にはB29の集中攻撃を受けた場所なのですが、ご覧のように、その戦災からもまぬがれています。
(すぐそばに爆弾の跡はありますが・・・)
終戦直後は、「焼け野原の向うに、大阪城だけがスクッと建ってた」のだとか・・・
大阪市民が建てた豊臣デザインの天守閣・・・あの世の秀吉さんは、どうやら、今の天守閣を気に入ってくれはったようですね。
現在の大阪城・・・徳川の石垣に、ビル群を背にした誇らしげな勇姿は、まるで十勇士を従えた真田幸村のようです。
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コメント
今の大阪城って徳川期のデザインでもなかったんじゃないかな・・一番問題なのは天守がない城に天守を造ってしまう事だと思う。
投稿: ナナ | 2010年4月13日 (火) 18時57分
ナナさん、こんばんは~
徳川時代がモデルという話は、私は聞いた事がありませんね。
設計者の古川重春氏ご本人が「黒田屏風と、豊臣時代の文献資料をもとに、豊臣時代の天守閣を再現した」とおっしゃっていますので、たぶん「ない」と思います。
豊臣時代よりは、かなり大きい徳川時代の石垣の上に寸法を拡大して建てているので、屏風の見た目とは少し違って見えるという事だと思います。
市民の全面寄付で建てられた天守閣…地元民としては、家康さんには悪いですが、徳川デザインは採用したくありませんね(笑)
模擬天守に関しては、賛否両論あるでしょうね。
特に、平成の今は…
でも、「国宝保存法」が改訂されて、そこに城郭が含まれるようになったのが昭和四年ですから…
つまり、それまでは、「城郭には歴史的価値はない」とされていたんです。
このように、昭和の初め頃は、今とは少し史跡に関しての向かい方が違っていたり、一般市民が見物できる博物館という物が整備されていない時代でもありましたので、その時代背景も考慮していただくとありがたいです。
とにもかくにも、太平洋戦争の攻撃に絶えた天守閣は、今となっては大阪市民の誇りだと思います。
投稿: 茶々 | 2010年4月13日 (火) 20時11分
大河ドラマでは「黒壁」で登場しますね。
秀吉時代は「黒壁で内部はまばゆい装飾」。
内部の装飾は安土城をまねたかも。
「命日に落雷」でしかも大坂夏の陣から50年後なので、祟りを恐れたんでしょうね。
先日、プレスリーの命日なのに「プレスリー誕生日おめでとう」と言った人がいます。祟りがないといいんですが…。
投稿: えびすこ | 2011年8月18日 (木) 15時40分
えびすこさん、こんにちは~
今年の大河をはじめ、最近のドラマに登場する豊臣時代の大坂城は、やはり黒田屏風をモデルにしてあるので黒が多いですね。
ただ、2006年に発見されたエッゲンベルグ城>>の豊臣期屏風が白である事から、最近では「秀吉時代は白で秀頼時代が黒だったのでは?」なんて事も言われていて、昭和の天守閣を設計した古川重春氏は、独自の研究で、すでに秀吉時代の物に気づいておられたのでは?とも思いますね。
最近ではwikiに「現在の天守閣は豊臣と徳川の折衷デザイン」と書かれてしまっている事で、「その事についての問い合わせが多く、否定するのが大変だ」と天守閣関係者のかたがおっしゃっておられました。
(ネットは俊敏なので、もう訂正されてるかも知れませんが…)
投稿: 茶々 | 2011年8月18日 (木) 16時37分