関ヶ原で天下を狙う第3の男=黒田官兵衛の石垣原の戦い
慶長五年(1600年)9月13日、来たるべき関ヶ原の合戦に向かって、各地で起こる合戦に乗じて、再起を賭けて挙兵した大友義統と、それを迎え撃つ黒田如水の石垣原の合戦がありました。
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7月19日に勃発した伏見城の攻防戦(7月19日参照>>)をきっかけに、徳川家康率いる東軍・先発隊は、一路西へと向かい岐阜城を攻略(8月22日参照>>)。
一方の石田三成率いる西軍は、安濃津城(8月25日参照>>)・松坂城を攻略・・・さらに、東軍に寝返った京極高次(きょうごくたかつぐ)の大津城を攻撃しつつ(9月7日参照>>)、細川幽斎(ゆうさい=藤孝)の籠る田辺城を開城(7月21日参照>>)に追い込みます。
北陸では、家康派の前田利長と三成派の丹羽長重が浅井畷で戦い(8月8日参照>>)、信濃では徳川秀忠率いる東軍の別働隊が、上田城に籠る真田昌幸・幸村父子を攻撃中(9月7日参照>>)。
こんな大規模な合戦の前後には、そのドサクサに紛れて、お家再興・旧領奪回を目指して挙兵する没落大名も数多く現れるものです。
大友義統(よしむね)もその一人・・・。
義統は、九州に名を轟かせたあの大友宗麟(そうりん)の息子です。
大友氏は、出家後も実権を握る宗麟が『耳川の戦い』(11月12日参照>>)で、島津義久に敗れたのをきっかけに、没落の一途をたどりますが、豊臣秀吉の九州征伐に助けられ、何とか豊後一国を維持していました(7月27日参照>>)。
しかし、宗麟の後を継いだ義統が、あの『文禄の役』にて、小西行長の救援要請を無視し、一旦奪っていた鳳山城を放棄した事で、秀吉から怒りをかい、この関ヶ原の合戦の頃は、失領の状態にありました。
天下分け目の戦いを前に、多くの大名が軍勢を率いて出陣しているこの状況を、チャンス!と見て取った義統は、大友の旧臣を率いて、徳川方に属する豊後・杵築(きつき)城を襲撃します(9月10日参照>>)。
この杵築城は、あの細川忠興(ただおき=幽斎の息子)の持ち城・・・忠興は、家康が最初に行動を起こした「会津征伐」の時から、ずっと家康と行動をともにしていましたから、どうしても城の防御が手薄の状態だったのです。
この時期の九州は、徳川方に属した肥後・熊本城主の加藤清正と、豊前・中津城主の黒田長政が権勢を誇っていました。
大友義統が挙兵したところで・・・と言いたいところではありますが、先ほども書いたように、このドサクサに紛れて再起を狙う没落大名は彼一人ではありませんから、杵築城が西軍に属する者の手に落ちれば、なだれのように、九州全土が西軍に傾く可能性もゼロではありません。
この事を心配した黒田長政の父・如水(じょすい)は、杵築城の救援に向かう事にします。
この時、息子・長政は、細川忠興と同じく、軍勢を率いて畿内へ出張中でしたから、如水は、ありったけの金銀と引き換えに、浪人はもちろん、農民・町民・職人などなど・・・とにかく、急遽、人を集めて、何とか1万の兵を用意しました。
この黒田如水という人・・・秀吉の参謀として活躍した頃の黒田官兵衛という名前の方が有名でしょうか?
あの本能寺の変(6月2日参照>>)で織田信長が死んだ時、その一報を聞いて、動揺する秀吉に向かって、「さぁ、最大のチャンスがやって来たぞ!」と、冷静に言ってみせ、奇跡の中国大返し(6月6日参照>>)のダンドリを組んだのは、彼です。
おそらく、あの時、秀吉のそばに彼がいなかったら、あの中国大返しは成しえなかったでしょうね。
秀吉は、天下を取ってからも、家臣たちの前で、如水に「次に誰が天下を取ると思う?」と聞いたと言います。
如水が「さぁ、毛利輝元あたりじゃないっすか・・・」と答えると、「いや、違う・・・それはお前だ!100万の大軍を指揮できるのは、お前しかいない」と・・・。
このような事がたびたびあって、秀吉から警戒されていると感じた官兵衛は、まだまだ現役でいけるにも関わらず、息子の長政に家督を譲って隠居・剃髪して如水となったのです。
しかし、現役を引退した後でも、自分の目の届かない九州に、彼を置くのは危険だと考えて、秀吉は、ずっと如水を領国には帰らせず、そばに置いていました。
あの秀吉がそこまで警戒していた人物です。
そんな彼を相手に、義統は、慶長五年(1600年)9月13日、豊後石垣原で野戦に挑むのです。
戦局は予想通り・・・大友軍は、検討むなしく蹴散らされてしまいます。
(合戦の内容については2009年9月13日参照>>)
それどころか、如水は、たった5日間で豊前の半分近くを平定し、さらに北上を続け・・・それは、まさに、九州全土を平定するかのような勢いです。
そうです。
あの時の、秀吉の警戒は、間違ってはいなかったのです。
義統がこのドサクサでお家再興を企んだように、如水はこのドサクサで天下を狙っていた?のです。
彼は、まずは九州を平定し、その後、中国・畿内へ攻め上るつもりでいたと言われます。
しかし、秀吉との中国大返しでは、見事、読みが当たって一世一代の賭けに勝った如水でしたが、今回は読みが甘かった・・・。
彼の予想では、長引くと考えていた関ヶ原の合戦が、たった一日でケリがついてしまったのです。
それも、西軍総崩れの大差です。
もう、天下は家康の手中に転がり込んだようなもの。
皮肉な事に、吉川広家や小早川秀秋を寝返らせて、東軍を勝利に導くという大手柄を立てたのが、息子・長政だったとか・・・。
合戦後、その功績によって、筑前五十二万石を与えられ、意気揚々と帰国した息子・長政を、如水は褒める事もなく、けっこう冷たく、たった一言・・・「天下分け目の戦いとは、もう少し長くやるものだ」と言ったとか(8月4日参照>>)・・・やっぱ、本気で狙ってましたね、如水さん・・・。
彼としたことが、息子に天下取りの話をしてなかったんでしょうか?
まぁ、敵を欺くには、まず味方から・・・って言いますから、たぶん、話してなかったんでしょうね。
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