秀吉の妻・ねねさんのご命日なので…
寛永元年(1624年)9月6日は、高台院・・・つまり、豊臣秀吉の奥さんのねねさんのご命日です。
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以前は、一般的に「ねね」さんと呼ばれていた秀吉さんの奥さんですが、手紙などの署名には「祢(ね)」「寧(ねい)」となっていて、近頃では「ね」という名前が正しいのでは?という専門家の見解が多くなり、最近のドラマなどでは、その「ね」に「お」をつけて「おね」さんと呼ばれます。
豊臣秀吉が、山崎の合戦で明智光秀を破って(6月13日参照>>)、その後、関白になってからは「北政所(きたのまんどころ)」と呼ばれ、秀吉が亡くなって尼さんになってからは「高台院」と呼ばれます。
(本名については、秀吉との結婚話を書いた8月3日のページでどうぞ>>)
・・・ですが、今日のところは、親しみやすい「ねね」さんと呼ばせていただきます。
・‥…━━━☆
この人は、まさに『日本のおカミさん』って感じですね。
貧乏暮らしから、天下人の奥さんになっても、セレブな色に染まる事なく、自分を失わない・・・何だかんだ言って、この人くらいでしょう、戦国の世に燦然と輝く3人の天下人全員に、一目置かれた女性は・・・。
ダンナである秀吉はもちろん、あの織田信長も彼女に気を使い、徳川家康には秀吉を弔うためのお寺をおねだりして、見事、お寺を建立させています。
この時代、彼女より頭が良くて、彼女より美人はたくさんいたでしょうが、そこはかとない魅力を感じるのはなぜなんでしょうね。
そんな彼女は、播磨(兵庫県)は竜野出身の杉原定利という武士の娘として生まれますが、妹のややと一緒に叔母の嫁ぎ先である浅野家の養女として育ちます。
やがて同じ織田家の家臣で、浅野家のまわりをウロついてた、貧相な男に言い寄られ、「そんなに好きになってくれたんなら・・・」てな感じ結婚します。
(秀吉との結婚を反対されたために浅野家の養女になったとも…8月3日参照>>)
それが、秀吉です。
武士の間では、政略結婚が当たり前だった当時としては、珍しい恋愛結婚。
それだけ、「政略」に関係ないほど、貧乏で身分が低かった?・・・って事でしょうね。
狭いわらぶきの家の土間に、ワラを敷き、薄っぺらい布一枚かけて、その上に新郎新婦が座るという、この上ない粗末な結婚式・・・彼女は、夫が天下人となった後でも、この日の事をよく人に話したそうです。
秀吉が、「自分は天皇のご落胤である」とか、「自分の母は公家出身だ」とか、嘘八百のごたいそうな過去を並べ立てるのに対して、彼女は「あの頃さぁ、こんな貧乏で、まともな祝言もあげられなくてさぁ・・・」と、平気で貧乏自慢をやってのけるのです。
そこが、『日本のおカミさん』って感じのところです。
やがて、墨俣の一夜城(9月19日参照>>)で脚光を浴び、浅井長政の小谷城攻め(8月27日参照>>)では先陣をきって・・・秀吉は長浜で一国一城のあるじとなります。
出世をすると、どうも殿方というものは、いい気になるもので、この頃から秀吉の女好きが発揮され、夫婦間もちょうど倦怠期というのでしょうか?
二人の間では、ちょっとした夫婦喧嘩が耐えなくなってしまうのです。
しかし、何と言っても、彼女がスゴイのは、この時の対応です。
こんな時、普通は「貞女のかがみとして、じっと耐え抜く」か、「噛み付いて一戦交える」か、二つに一つのように思いますが、彼女のとった行動は・・・「夫が頭があがらない上司に言いつける」というものでした。
しかし、単に夫の悪口を並べたてて、あからさまに上司にチクれば、夫の今後の出世に差し支えるかも知れません。
そう、ここが彼女のウマさです。
「ねぇ、シャッチョさん・・・ウチのダンナ、ホンマ困ったもんで・・・こんな、こんなで、こんな事言うんですよ~。一回ビシッと言うたって下さいよ~」
ダンナの悪口を言いながらも根は好きで、好きだからこそ悪いところをなおしてほしい・・・という感じに持っていくワケです。
その結果が、あの有名な信長さんの手紙(5月12日参照>>)です。
「こんな、良い奥さんがいるのに、浮気するなど言語道断!あの禿げネズミは許し難い・・・」
この手紙を見せられた秀吉の顔が目に浮かぶようです。
奥さんのバックには、あの信長がデ~ンと控えているわけですから、もう、おとなしくするしかありませんよね。
しかも、その手紙に書かれていた「ヤキモチは焼くな」という事はきっちり守っています。
つまり、秀吉には一言の文句も言わず、そっと、信長からの手紙を見せる・・・その事によって秀吉自身も頭があがらなくなって、後の、小田原城攻め(7月5日参照>>)の長期出張の時の手紙なんかは、夫婦の関係が垣間見えておもしろいです。
「今度の小田原城攻めは、かなり長くなりそうやねん。
せやから、家臣たちにも、国から妻を呼び寄せてもエエで~って指示したんやけど・・・ボクも呼んでええ?
お前の次に好きな淀(茶々)を・・・。
お前から淀に伝えて、ダンドリ組んでくれるかな?」
大好きな淀殿を側に呼ぶのに、奥さんに先に頼んでいるところがイイですね。
あくまで「お前の次に好きな」淀ですって・・・。
そんな彼女にとって、生涯、秀吉との間に子供ができなかった事は、かなりコンプレックスになっていたでしょうが、それを跳ね除けるくらい、夫の事に気を配り、政治の事に気を配り・・・秀吉が次々と、敵方の配下の者を自分の傘下に納めるのも、彼女の助言がかなり物を言っているようです。
彼女のおかげで首がつながった者や、領地を没収されずにすんだ者が数多くいたにも関わらず、それを「私がやりました」とばかりに前へ出るのではなく、そこのところはあくまで影にまわって、ひかえめな態度・・・この対人関係のうまさが、たとえ子供がいなくても、たとえ身分が低くても、彼女が天下人の正室として認められたゆえんでしょう。
しかし、そんな彼女をうっとしく思う人もいます。
その代表格が茶々=淀殿です。
ご存知のように、彼女はサラブレッド中のサラブレッド・・・しかも、秀吉に1番愛されている自分が、身分の低いオバさんの下に位置づけられている事に、そのプライドが許しません。
ドラマなどでも演じられ、ご存知のかたも多いでしょうが、例の佐々成政の『黒百合事件』。
小牧長久手の戦いで秀吉VS家康の抗争が繰り返されていた時、成政は家康側についていました(8月28日参照>>)。
その後、秀吉に降伏した時、「もう、武将生命は終った・・・」と、諦めていた彼を手厚く優遇した秀吉・・・成政は、「これは北政所(ねね)の口ぞえがあったからこそ」と、常々感謝していました。
ある日、富山城主という事で手に入れた越中立山に自生する黒百合を1輪、ねねさんに献上します。
「大坂では見る事のできない珍しい花をありがとう」とねねさんは大喜び。
早速、珍しい花を愛でながらの茶会を開きます。
もちろん、そこには居並ぶ側室たちも招かれ、その中には淀殿もいます。
「淀殿、これは越中立山にしかない、珍しい花なんですって、ご存知でしたか?」
「いえ、初めてですわホホホ・・・」
と、つつがなく、とり行われた茶会・・・。
しかし、数日後、今度は淀殿が「花供養」と称するイベントを開くので・・・と、ねねさんは逆に招待されます。
すると、そこには、名も無き草花と同レベルで並べられた、無数の黒百合の花が無造作に置かれていたのです。
もちろん、こらは、あの茶会から帰った淀殿が、「くやしい~」と、ばかりに、必死で手配した物・・・
と、これは、淀殿が、いかに、ねねさんに負けたくなかったかを物語るエピソードとして語られていますが、今では、意外に二人は仲良しだったと言われています。
後に、秀吉が亡くなって、天下分け目の関ヶ原(9月15日参照>>)・・・この時、ねねさんは、あっさりと大坂城・西の丸を家康に提供し、自分はさっさと京都へ引っ越してしまい、ここで完全に、家康側についた事を表明したとも言われますが、一方では、これは、当主の生母として大坂城を離れる事の出来ない淀殿に代わって、様々な雑務をこなすためだったとも・・・
それこそ、彼女の心の内は彼女に聞くしかありませんが、結局は、彼女が大坂城を出た事で、最も喜んだのは、家康だったようです。
そして、ご存じのように、関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わり、更なる大坂の陣において、かの淀殿は自害する事に・・・(5月8日参照>>)。
すんなりと大坂城を退去してくれた事を喜んだ家康は徳川の天下となってから、彼女の希望通り、秀吉の菩提を弔うためのお寺を建立します。
それが、京都の高台寺です。
思い出の伏見城の庭園をそっくりそのまま再現して、彼女はそこで大名並みの暮らしを保証されます。
臥龍廊(がりゅうろう)と呼ばれる長い廊下を通り、その先にある秀吉の御霊が安置されている霊屋(おたまや)で、毎朝祈りを捧げるのが日課になっていたとか・・・。
高台寺:右奥の少し高い所にあるのが霊屋、下り坂に沿って屋根の続く通路が臥龍廊です。
貧乏暮らしから天下人の妻・・・そして日本のおカミさんとなった彼女は、寛永元年(1624年)9月6日、この高台寺で76歳の生涯を閉じます・・・あくまで影にまわって、ひかえめに・・・されど、したたかに・・・。
★2011年9月6日の記事:【秀吉を支えた高台院=おねが貫いた妻の役割】もどうぞ>>
★高台寺への行き方&地図はHPで紹介していますコチラからどうぞ>>
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コメント
昨夜、NHK教育で「戦国武将の妻たち」の回がありました。北政所も出てきました。
まさに「戦国の女傑」ですね。今風に言うとゴッドマザーですね。「戦国の女傑」を3人上げるとしたら、誰を選びますか?私は大河ドラマ主人公のねね、まつ、千代の3人です。
番組内で触れてましたが、戦国時代の女性は普段あぐらをかく事は当たり前だったみたいです。これは「床が板敷き」だからみたいですね。「夫より格式の高い人」に会う時は正座でしょうね。大河ドラマとかでは女性は正座をしてますが、自宅では(本来は)間違いかも?
投稿: えびすこ | 2010年5月18日 (火) 08時58分
えびすこさん、こんにちは~
>戦国時代の女性は普段あぐらをかく事は当たり前だった・・・
なるほど~
では、私も戦国時代の形式にのっとって・・・て(笑)
いい情報を教えていただきましたo(_ _)o
投稿: 茶々 | 2010年5月18日 (火) 13時49分
「大河ドラマの女性主人公」と言えば戦国時代の人が多い傾向ですが、江戸時代の人で主人公になれそうな女性はあまり見当たりませんね。
男性でもそうですが、江戸時代で天下泰平の時期(生活的・治安的に安定していた1650~1800年)に生まれ育った人は「人生に波がないから」なのでしょうか?
でも、殺伐としていないから見ていて安心できるんですが。
投稿: えびすこ | 2010年9月 4日 (土) 10時31分
えびすこさん、こんにちは~
やはり、ドラマとして見る場合は、人生波乱万丈のほうが、見ごたえがあるという事かも知れません。
投稿: 茶々 | 2010年9月 4日 (土) 11時33分
今日は高台寺へ行きました。
期間限定だったそうでねねさんと秀吉公の像を拝見することが出来ました。
その後に圓徳院も行ったのですが、非常に北庭が美しかったです。
雨が降っていたから、晴れの日より劣るのかなと少し心配だったのですが、まったくそんなことなかったです。(晴れの日の光景知りませんが……)
椿の花も咲いていました。さまざまな種類があるそうで結構長い期間、椿を楽しめると教えて頂きました。(*^^*)
投稿: ティッキー | 2012年3月23日 (金) 23時10分
ティッキーさん、こんばんは~
雨の京都もイイですよ。
特に「ねねの道」のあたりは風情があります。
投稿: 茶々 | 2012年3月24日 (土) 03時08分