戦国武将の必須科目・陣形と陣立のお話
生き馬の目を抜く戦国時代・・・今日は、それを勝ち抜くための武士の必須科目『陣形・陣立』についてのお話をさせていただきます。
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合戦において、まぁ、時には、無計画で、ただ、やみくもに突っ込んで行く・・・という事もありましたが、多くの場合、事前に作戦を立て、その作戦に合った陣形という物を整えて挑むのが一般的です。
陣形の基本は八つ・・・これは、平安時代に大江維時(これとき)が、唐から持ち帰った「八陣」と呼ばれる物です。
・魚鱗(ぎょりん)
・偃月(えんげつ)
・鶴翼(かくよく)
・方円(ほうえん)
・鋒矢(ほうし)
・雁行(がんこう)
・長蛇(ちょうだ)
・衡軛(こうやく)の八種類。
魚鱗は、その名の通り、全体を魚の形に見立てて、一隊を「うろこ」と見立てた物で、先端の一点に兵力を集中させ、敵を倒すのではなく、敵中を突破する目的の形。
偃月は、三日月の形をした物で、前に敵、後ろに山や川などがあり、後退できない場所で用いられる陣形です。
鶴翼は、鶴が羽根を広げたような形で、鶴の頭になる部分に大将が位置し、広く兵を配置する事により、どこから攻められても対処できます。
鋒矢は、少数精鋭で戦う時に用いられ、方円は、敵がその鋒矢の構えをとった時、迎え撃つ形として用いられました。
雁行は、雁が群れをなして飛んで行く時の形。
長蛇は、文字通り「長蛇の列」で、衡軛は、テレコテレコに並びます。
あの三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)で、上洛途中の武田信玄は魚鱗の構えで敵中突破を試み、徳川家康は、そうはさせまいと鶴翼の陣で挑みました。
そのページでも書かせていただいた通り、この時の家康の鶴翼の陣は、かなり危ない・・・
それは、信玄の大軍に比べて家康の兵の数が少ないため、どうしても、鶴の羽根が薄っぺらな状態になってしまうからです。
やはり、信玄の魚燐の一点集中で破られてしまい、家康は命からがら逃げ帰る事になるのですが、この若気の至りの合戦も、家康にとっては「あの信玄と戦った」という勲章が欲しかったわけですから、戦っただけで満足といった所でしょう。
こういう風に、合戦で敵と戦う時の配列を陣形と言い、その陣形の細かな内容・・・つまり、「鉄砲隊がどこにいて」「大将がどこにいて」といった配置の事を陣立と言います。
その陣立を書き記した物を「陣立図」と呼びます。
右の図は、徳川家康の小田原城攻め(4月3日参照>>)の時の陣立図です。
最前線に「一ノ先備(さきぞなえ)」「二ノ先備」が配置されています。
この「七手」というのは、7人の武将という意味で、この小田原城の時は、井伊直政・大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉・榊原康政・本多忠勝・酒井家治の7人でした。
さらに、「御旗本前備(さきぞなえ)」「武者奉行」と続き・・・最後尾に大将・家康。
その家康を守るべく「後備(うしろぞなえ)」が配置されています。
このような「陣立図」が残っている事で、それぞれの武将の細かな陣の内容がわかるワケです。
ところで、先ほどの「七手」と記された7人は、そのまま7人という事ではなく、彼らがさらに隊をなしてますから、この7人をそれぞれ大将としたもっと細かい陣立図が存在する事になります。
・・・で、左のコチラが、大阪城・天守閣に現存する大坂夏の陣の時の「本多富正隊陣立図」です。
(←写真をクリックしていただくと大きくなります)
大坂夏の陣(5月7日参照>>)では、5月7日の総攻撃の時、前日の八尾・若江の合戦(5月6日参照>>)の際、ビビッて一歩も動けなかった家康の孫・松平忠直が、汚名返上とばかりに先陣を切って大坂城に突入をするわけですが、本多富正隊は、この忠直隊の先手に配置されていた一隊で、まさに先陣の中の先陣。
コチラの陣立図は先ほどの家康の物よりも、細かいです。
下のほうに書かれている「御本」というのが富正の位置で、この陣立図の中には、「一番乗り」の功名を挙げた人物の名がちらほら見えます。
右翼・三段めの、「幟(のぼり)持ち」平野清兵衛という人は本丸御殿にあった「掛け軸」を、左翼・五段めの「馬乗」の一人・谷内膳は「千鳥の屏風」を、同じく「馬乗」の大石四郎右衛門は「茶臼」を戦利品として持ち帰ったと伝えられています。
「泥棒やん!」と、思わないでね。
戦場での勤務評定は自己申告制なんです。
「私は、誰々を討ち取りました」「私は何々をしました」というのは、合戦が終ってから、自分で大将に報告して、それを認めてもらって、はじめて「功績」となるわけで、認めてもらうためには、現場を見ていた証人、もしくは証拠の品が必要なんです。
彼らは一番乗りの証拠として、そういった品を持ち帰るのです。
やっぱ、良い物から先に無くなるんでしょうね~バーゲンみたいに・・・。
昨年の大河で山内一豊が、討ち取った敵の首を持参して、信長さんに報告しに行っていたシーンを覚えておられる方も多いでしょう。
まさに、あんな感じですが、そのシーンで、すでに一豊が何人かの家来を連れていたように、この細かな陣立図に載ってる彼ら一人一人にも、まだ、その下に名もなき家臣がいる事になります。
もちろん、そんな名もなき彼らも、殿様が出世すれば、自分たちも、歴史に名を残す武将になれるわけですからね。
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以上、今日は、陣形・陣立について書かせていただきましたが、これから、ドラマの合戦シーンを見るのが、より楽しくなりそうですね。
PS:ちなみに、合戦での功績を認めてもらうためには、遠くで見ている大将の目にとまるよう目立つ事も重要でしたが、そのお話は6月8日【姉川の七本槍と旗指物のお話】でどうぞ>>
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コメント
参考になりました
投稿: 最近戦国ハマり中 | 2011年6月26日 (日) 15時11分
最近戦国ハマり中さん、こんばんは~
楽しんでいただけたのなら良かったです。
また遊びに来てください
投稿: 茶々 | 2011年6月27日 (月) 02時12分