関東の支配をめぐって~立河原合戦
永正元年(1504年)9月27日、扇谷上杉に今川氏親と北条早雲が味方につき、対立していた山内上杉と立河原で遭遇・・・立河原の戦いが展開されました。
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室町幕府は、鎌倉幕府関係者が開いた関東を基盤とする武家政権でありながら、京都に政務の中心を置いたため、どうしても関東支配のための特別な役職を設ける必要がありました。
それが、鎌倉公方と関東管領なのですが、彼らはしだいに京都に匹敵する力を持つようになり、徐々に将軍と対立するようになります。
公方の補佐である関東管領は上杉氏が独占していて、関東の力が大きくなると、その勢力も大きくなっていきます。
そんな中で生き残ってきた扇谷(おうぎがやつ)上杉家と、山内(やまのうち)上杉家が、交代で関東管領を務めるようになりますが、そういう類のものは、独占したくなるのが人の常・・・両家はしだいに対立するようになります。
互角の勢力を持っていた両家でしたが、扇谷上杉家の執事であった太田道灌(どうかん)が、謀反の疑いで、主君である扇谷上杉家の上杉定正に謀殺(7月26日参照>>)された後、その定正も落馬して亡くなり、後を継いだ上杉朝良(ともよし)の代になると、以前の勢力が失われてきます。
そんな朝良に味方したのが、戦国大名の今川氏親(うじちか)と、氏親の叔父である北条早雲(伊勢宗瑞)です。
この期に乗じて、朝良の居城・武蔵河越城を包囲していた山内上杉家の上杉顕定(あきさだ)をけん制するように、氏親と早雲は河越城の近郊にまで進出します。
氏親と早雲の参戦を知った顕定は、永正元年(1504年)の9月に入って作戦変更・・・河越城の包囲を解いて転進しようとします。
しかし、この永正元年(1504年)9月27日。
立河原(東京都立川市)にて、両軍が遭遇・・・合戦へと突入したのです。
参戦した軍勢の数は、はっきりとはしないものの、双方の戦死者が合わせて2千人余りに達したと言われていますので、関東における合戦としては、屈指の大規模の戦いとなったようです。
ただ、戦いの結果に関しては諸説あるようで、一般的には、両軍が最後まで奮戦を続けたために結局は決着がつかなかった・・・つまり、引き分けとする説が有力ですが、一方では、山内上杉に味方する越後(新潟県)の長尾為景(上杉謙信の父)が馳せ参じて奮戦したため、山内上杉家の大勝に終ったという記録もあります。
また、この立河原の戦いは扇谷上杉家が勝ったものの、扇谷VS山内の一連の対立に関しては山内上杉家の勝利というのもあります。
しかし、結局は、この立河原一帯は、後々、早雲の後北条家の支配となり、上杉謙信が山内上杉家の上杉憲政から関東管領職を譲られる頃(永禄四年・1561年)には、関東管領とは名ばかりで、関東には後北条氏の影響力の方が、はるかに勝っている現状となっているわけですから、メチャメチャ長~い目で見ると、北条早雲の勝ち~って感じもしないではありません。
なんせ、早雲は、まだ若かりし頃、『ネズミが2本の杉の木をかじる夢』を見たという人ですから・・・。
早雲は子年生まれ、2本の杉の木は扇谷と山内・・・ホントかなぁ・・・。
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