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2007年9月24日 (月)

西郷隆盛・自刃~西南戦争の終結

 

明治十年(1877年)9月24日、城山に籠っていた西郷隆盛が幹部らとともに自刃し、『西南戦争』が終結しました。

・・・・・・・・・

明治という新しい時代になって、ほとんどの日本国民の生活はガラリと変わりますが、その中でも一番スゴかったのは、士族と呼ばれるようになった元武士だった人たちではないでしょうか。

廃藩置県によって、それまで藩からもらっていた(給料)はもらえなくなり、四民平等になって苗字帯刀の特権もなくなり、徴兵制になって農民や一般人が軍人になるのですから、もう、武士たちの出る幕はありません。

藩が無くなる時にもらった一時金で、商売を始める人なんかもいましたが、今まで未経験でうまくいくわけもなく、ほとんどの人が失敗します。

士族への保証をまったくしない新政府に、不満がつのる士族たちでしたが、そんな彼らのブレーキになっていたのが西郷隆盛です。

「いつでも、士族の事を真剣に考えてくれる西郷さんが明治新政府の中心にいるかぎり、いつか何とかしてくれるのではないか?」
しかし、その希望が崩れる日がやってきます。

Saigousaigohyoucc 『明治六年の政変』・・・征韓論のゴタゴタで、明治新政府は真っ二つに別れ、議論に負けた西郷一派は全員辞職するのです。
(【明治六年の政変】については10月24日のページで書いています>>>)

西郷隆盛は鹿児島に帰って、『私学校』を開きます。

これは、西郷さんを慕って帰郷してきた士族たちを受け入れる学校で、なんと、その運営費は鹿児島県から出ていました。

さらに、県の職員や警察官などもその学校の出身者を採用し、中央政府の通達なども無視し始め、徐々に鹿児島県は独立国家のようになっていきます。

そんな中、各地の士族の不満がとうとう爆発しはじめます。

まずは、明治七年(1874年)2月、西郷とともに辞職して故郷・佐賀に帰った江藤新平をリーダーとする『佐賀の乱』(2月16日参照>>)が勃発します。

続いて、明治九年には、九州で『神風連の乱』(10月24日参照>>)『秋月の乱』(10月27日参照>>)が・・・、山口では『萩の乱』(10月28日参照>>)・・・と立て続けに乱が勃発します。

これらの乱は、すべて新政府軍によって鎮圧されるのですが、このいずれにも西郷さんが動く事はなかったのです。

実は、最初の『佐賀の乱』の時には、戦場から命からがら逃げてきた江藤さんが、西郷さんに助けを求めていたのですが、西郷さんは、それさえ断っています。

つまり、西郷さんは、新政府に対し反乱を起すつもりはまったくなかったのです。
むしろ、その逆だったと思います。

各地で起こる反乱に手を焼いた新政府がどうしようもなくなった時、私学校の精鋭を引き連れて乱を鎮圧させ、戦いのプロである士族の有意義さをアピールする・・・これが西郷さんの構想だったのではないでしょうか?

しかし、いくら西郷さんに反乱を起す気がなくても、新政府にとって最も脅威なのは、独立国家のようになってしまっている鹿児島です。

そこで、新政府・大久保利通鹿児島県出身の警察官23人を「墓参り」と称して、鹿児島へ送り込みます。

彼らは、鹿児島県内で、私学校への入学をやめさせたり、入学している者を退学させようとしたり・・・というスパイ活動をおこなうのです。

そんな中、彼らの一人が、「西郷ら要人の暗殺も計画している」という事を漏らしたため私学校の生徒らは騒然とします。

さらに、「私は、西郷の暗殺を命じられて鹿児島に来ました」と自首する者まで登場します。

あまりのわざとらしさに、これは西郷一派に反乱を起させるための、新政府のワナなんじゃないかとも思えますが、当時の、私学校の生徒たちのウップンは、徐々に頂点へと達していきます。

そして、きわめつけは、明治十年(1877年)1月30日・・・鹿児島県内の武器や弾薬を政府の船に積み替える・・・という行動を目の当たりにして、私学校の生徒たちは大爆発!

各地の武器弾薬庫を襲撃し、小銃や弾薬を略奪するという行動に出てしまいます。

大隈山で狩りをしている最中に、この事件の知らせを聞いた西郷さんは、思わず「しまった!」と叫んだと言います。

慌てて彼らを説得しに舞い戻りますが、時すでに遅し・・・『西南戦争』へと突入していく事になります。

早速、軍儀が開かれ、様々な案が出されます。

「軍艦で海路を進み、東京・横浜に上陸して政府の中枢を一気に攻撃する」とか、「海路と陸路の二手に分け、さらに陸路の軍を東上組と熊本城を経て福岡・長崎制圧組に分けて進む」とか・・・しかし、結局「全軍で熊本城を経て東上する」という案が採用されます。

・・・と、いうのは、「我々は反乱軍ではなく、先の暗殺計画なるものが実際にあったのかどうかを尋問するために上京するものである」という考えのもと、正々堂々と、正面をきって進むべきであと考えたからです。

しかし、新政府は「待ってました!」とばかりに、2月29日に薩摩軍を反乱軍とみなし、『追討令』を発布。

総本営を大阪に設置し、有栖川宮樽人(ありすがわのみやたるひと)親王を討伐軍総督に任命します。

これで、西郷さんを含む薩摩軍は朝敵となったのです。

そして薩摩軍は、まず予定通り政府陸軍の鎮台が置かれた熊本城を包囲(9月22日参照>>)、猛攻撃を加えますが、これがなかなかの苦戦を強いられます。

この鎮台は、地元住民からも「クソ鎮」とニックネームがつけられるほどのグダグダで、兵士はほとんどが農民あがり。

戦いに慣れてない上に、戦おうという意志も、さほどないといった状況だったので、どうやら百戦錬磨の士族あがりの薩摩の兵士たちは、「すぐに落とせる」と思っていたようで、大した作戦もなく、ただ闇雲に攻撃をした感があります。

しかし、相手が籠っているのは、あの加藤清正が築いた難攻不落の熊本城・・・彼らはその事をすっかり忘れていました。

そうです・・・まともに戦えば、絶対に負けると判断した鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)は、徹底した籠城作戦を決行します。

結局、2日経っても城内に入ることすらできず、逆に城からの砲撃によって多数の死者が出てしまい、薩摩軍はここで作戦を変更。

隊を二つに分け、一部は熊本城を包囲したまま兵糧攻めにし、主力を北へ進軍させる事にします。

なんせ、すでにこの時、『追討令』を出して官軍となった政府軍は、全国から兵を集め、続々と熊本方面へ進軍し始めていましたから・・・。

こうして、ぶつかった両軍は、一進一退をくりかえしながらも、どんどん兵の数が増える上、最新鋭の装備を供えた官軍が徐々に有利になっていき、薩摩軍はしだいに押され、後退してしまうのです。

9月2日・・・とうとう鹿児島まで後退し、城山に籠った薩摩軍。
最初3万だった兵は、わずか400人になってしまっていました。

対する官軍は五万の兵に大砲を装備しています。

最後の戦いで脇と腹に銃弾を受けてしまった西郷さんは、隣にいた別府晋助にポツリと言います。
「ここでもうよか」

明治十年(1877年)9月24日西郷隆盛は自刃し、自らの命を絶ちます。

最強であった薩摩の士族が敗れた事によって、全国に散らばる士族たちは、「武力による政府転覆」という行為が不可能である事を思い知らされる事となるのです。

・‥…━━━☆

その後、囁かれる【西郷隆盛・生存説】については、12月18日のブログへどうぞ>>>
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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんばんは(^^)
今日西郷さんのお墓に行きましたが、実は実家のお墓参り(直ぐ近くにある)のついででした(笑)
さすがに人が多かったですよ~。
廃藩置県で士族は慌てたでしょうが、その廃藩置県案の後押しをしたのが他ならぬ西郷さん。
この人の鶴の一声で決まったようなものなんですよねー。
今日は西郷さんを介錯したといわれる別府の刀も展示されていました(脇差でした)
西郷暗殺についてはまたブログで書くことに挑戦します。
よかったら突っ込んでやってください(^^;)

投稿: 味のり | 2007年9月24日 (月) 22時19分

味のりさん、コメントありがとうございます~

実家のお墓が近くに・・・そうだったんですか~

西郷さんのお話の続き・・・楽しみにしています。

味のりさんに突っ込めるほど、くわしくはありませんので、勉強させていただきま~す

投稿: 茶々 | 2007年9月25日 (火) 00時59分

最後の士族反乱であり、最後の内戦と言われた西南戦争ですが、それを含めた、すべての士族反乱に共通して言えることは、倒幕(徳川幕府の打倒)に参加した士族たちが、「せっかく、徳川幕府を倒したのに、前よりも生活が苦しくなった! 倒幕に参加して苦しい思いをするくらいなら、徳川幕府の時代のほうがましだった!」という思いを抱えて、引き起こされたということでしょう。戊辰戦争の時に、新政府側についた士族たちとしては、自分たちが恩恵を受けて当然という考えを持っていたはずだと思いますが、そうではなくなったから、不満を爆発させたものの、政府軍によって、ことごとく鎮圧されていきました。こうした事が、島田一郎・長連豪・脇田巧一・杉本乙菊・杉村文一・浅井寿篤の計6名の不平士族による、大久保利通暗殺事件=紀尾井坂の変に繋がっていったのだと、強く感じました。しかし、その一方で、旧幕府関係者・旧会津藩の人々らのように、賊軍と見なされながらも、苦労を耐え忍んで、廃刀令や断髪令などの方針に従って、生きていったことも、忘れてはなりませんね。それこそ、旧幕府関係者らのほうが、よっぽど我慢強かったのではないでしょうか。

投稿: トト | 2015年10月 2日 (金) 12時42分

トトさん、こんばんは~

賊軍と呼ばれた彼らは敗者ですから、辛酸をなめたとしても耐えられるし頑張りようもあったでしょうが、不平士族は勝者ですから…

「勝てば恩賞がもらえる」「勝てば、より上の生活ができる」という、神代の昔からの戦いの常識が一転してしまったわけですから…

それが維新の近代化という物なのでしょうけど…

投稿: 茶々 | 2015年10月 2日 (金) 19時24分

茶々さん、こんばんは。
会津好きの私でも西郷さんは好きです。
前にNHKで放送していましたが西郷さんは死に場所を求めていたのではないでしょうか?それも武士の死を置き土産にしたのではないかと思います。
西郷さん、桐野さんにしても歴戦の勇者です。熊本城を攻めても駄目なのを知っているはずです。
おはんらの命は預かったと言うのも死に行く気だったと思います。
もし弁明だけならば西郷さんは一人で東京に行ったでしょうが、その代わりに私学校の生徒を差し出さねばならなかったでしょう。そう言うのを駄目だと判断したと思います。ある意味で先の大戦で亡くなった人と似た気持ちだったと思います。
私も三島でないですが西郷さんの魅力は最近になって気が付きました。反省しています。

投稿: non | 2015年10月 2日 (金) 20時38分

nonさん、こんばんは~

>西郷さんは死に場所を求めて…

というような話は、また別のページで書いていたと思いますが、西南戦争のキッカケになったのは私学校の生徒ですし、西郷さん自身は挙兵では無い別の方法を模索していたのかも知れませんね。
まぁ、暗殺計画もあったようなので、何とも言えませんが…

それにしても西郷さんは人気が高いです。

投稿: 茶々 | 2015年10月 3日 (土) 01時14分

茶々さん、おはようございます。http://www.sakubundojo.com/blog-entry-15.html
このブログとか三島由紀夫のhttp://tsubouchitakahiko.com/?p=19 ここの載っている銅像との対決を見ましても西郷さんは武士の死を見せようとしたと思います。晋介どん、ここでよかとか天皇陛下申し訳ありませんでしたと言った様ですが、ここで武士は終わりだとしたのでしょう。
NHKでも何故西郷さんは決起したのかよく分からないと考えていたが、最後の仕事しての武士の死をやり通したと言っていました。西郷さんを殺した大久保も殺されたことで武士は消滅しました。寂しい時代になったと感じます。
ただ九州を行って感じるのは武士と言うのが残っていなくても武士の魂が残っていると感じました。最後に実行したのは三島かなと思います。
武門の子孫である私ですがなかなかそう言うところに到達できないのが恥ずかしいです。

投稿: non | 2015年10月 3日 (土) 09時21分

nonさん、こんばんは~

武士道の解釈も色々と難しいですからね。

投稿: 茶々 | 2015年10月 4日 (日) 01時25分

茶々さん、こんにちは。
西郷さん、松平容保と言った尊王の心を持って忠誠を誓った人が逆賊です。江藤新平もそうですし、226の将校もそうですね。尊王の気持ちが強いほど非業の死や逆賊にされるのかなと思いました。
井伊直弼も尊王の人です。寂しい感じがします。
しかしながら西郷さん、江藤、直弼も書が上手いです。私は書をきちんと学べなかったのを反省しています。

投稿: non | 2015年10月 4日 (日) 11時36分

nonさん、こんばんは~

私も字がヘタです(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2015年10月 5日 (月) 02時51分

西郷どんが昨日で終わりました。
今月になってから思ったんですが、西郷どんでは初めてスポットライトが当たる人物や、再評価・再認識された人物が特別いなかったように思います。
一昨年の真田丸では再評価・再認識された人物では真田昌幸や真田信之や本多忠勝など。昨年のおんな城主直虎だと小野政次が初めてスポットライトが当たりました。
今作は昨年よりも著名な偉人が多かったためか、改めて着目と言う印象が薄かったと思います。西郷従道も存在感を発揮しきれなかった感があります。

あえて言えば「存在感があった」という点だと西郷家の家人の熊さんがいます。
熊さんは武士や高官ではないですが。

投稿: えびすこ | 2018年12月17日 (月) 17時49分

えびすこさん、こんばんは~

最終回の感想のところでも書かせていただきましたが、もう誰が誰だかわからないモブキャラ満載状態でしたね。
ドラマでは、結局、西郷どんが何をどうした人なのか?
私にはよくわかりませんでした。

投稿: 茶々 | 2018年12月18日 (火) 00時10分

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