川中島の合戦は無かった?
永禄四年(1561年)9月10日は、上杉謙信と武田信玄のあの第四次・川中島の合戦~八幡原の戦いのあった日です。
川中島の合戦は、合計5回ありましたが、一番激しい戦いが、この日起こった4回目の川中島の合戦で、一般的に『川中島の合戦』と言えば、この4回目を指します・・・て、このお話は昨年もしましたね。(昨年の記事を見る>>>)
昨年は、ブログをはじめて最初の9月10日という事で、ごく一般的に知られている川中島の合戦を紹介させていただきましたが、実はこの川中島の合戦・・・諸説あって、なかなかのクセモノです。
・‥…━━━☆
この川中島での合戦を伝える書物の中で代表的な物は、昨日の戸石城の攻防戦(9月9日参照>>)の記事にも登場した『甲陽軍鑑』なのですが、昨日の山本勘助の神がかり的な活躍も怪しさムンムンでしたが、川中島に関しても、何やら不可思議です。
第一『甲陽軍鑑』では、なんと、両者が12回も戦った事になってます。
確かに、正史とされる合計5回の合戦の場合でも、1回目とされる天文二十二年(1533年)は、4月22日に武田軍が最初の攻撃を受けてから、信玄が布陣を解いたとされる10月7日まで、5ヶ月間あるわけですから、出撃・撤退を繰り返し、小競り合いなんかも含めればかなりの数になるでしょうから、そこは譲るとしても、内容がどうも・・・。
「いざ、攻めようとしたら、相手(謙信)が撤退しはじめたので、戦うのをやめた」とか、「合戦がはじまろうとした時、黒雲が移動したから兵を退いた」とか、戦ってんだか、戦ってないんだか、微妙な記述が満載ですが、とにかく、一番知りたいのは、「重要な今日の第4回目の合戦はどうだったんだ?」って事ですよね。
見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
・・・で、要は、夜のうちに武田軍は「キツツキ戦法」をすべく、香坂昌信が率いる別働隊を、上杉軍が布陣している妻女山(さいじょざん)へ移動させます。
「キツツキ戦法」というのは、キツツキが木をたたいて虫をおびきだして餌にする要領で、別働隊に、背後から襲わせ、敵が前へ逃げて来たところを本隊が討つ・・・という作戦です。
まぁ、これも『甲陽軍鑑』では、山本勘助が立案した事になってますが・・・。
信玄は総勢2万の兵のうち、1万2千・・・つまり、本隊よりも多い数を別働隊にあてています。
ワタクシ、地元ではありませんので、このあたりに地の利がないのですが、八幡原から妻女山の山頂まで・・・これがけっこうな距離なのだそうです。
この距離を、1万2千の兵が気づかれずに移動するのは、不可能に近いとされています。
おそらく、敵にたどりつく前に夜が明けてしまい、完全に見つかってしまう事になるのです。
結局、実際には、夜になる前に山頂から武田軍を観察して、敵の動きを知った謙信のほうが、夜のうちに妻女山から八幡原へと移動して、今度は上杉軍が「車がかりの戦法」というのを決行する事になり、「キツツキ戦法」はやらずじまいに終るのですが・・・。
この「車がかりの戦法」というのは、車輪が回転するように円状に兵を展開させ、次々と新しい兵を繰り出してくるようにも見え、反対に退却するようにも見え、敵を惑わす効果もある・・・というのですが、このムダの多い動きはありえないでしょ。
1回目の突入はいいですよ。
1回目だから、充分元気があります。
しかし、戦い終わって、グルッと廻って、敵の反対方向に走って、2回目に敵の前に来た時には、ヘトヘトのまま戦って、また反対方向にグルッと走って、また敵の前・・・って、人間には体力の限界ってモンがあるんですから、休憩無しで、そんな動きができるとは、とても思えません。
これなら、一目散に突進していったほうが、なんぼか楽に戦えます。
なので「川中島の合戦は『夢まぼろし』のような物」・・・とおっしゃる専門家の方もいらっしゃるとか・・・
では、例の信玄と謙信の一騎打ちは?
一騎打ちの噂を聞きつけた公家の近衛前久(このえさきひさ)が、「本当に自身が太刀打ちしたのか?」というような手紙を謙信に差し出していますが、謙信自身は「あれは影武者の仕業だ」と言っていたとか。
合戦が夢まぼろしなら、一騎打ちも当然無かった事になるわけですが、架空の人物かも知れない山本勘助(2010年9月10日参照>>)はともかく、信玄の弟である武田信繁(2008年9月10日参照>>)や従兄弟の諸角虎定が討死という事がある以上、この通りでは無かったとしても、ある程度の激しい戦いがあった事は確かでしょう。
しかも謙信は、この先の行動を自分自身で判断がつけられない時、「神の啓示によって最終的な決断をくだしていた」との噂で、時々、説明のつかないような、誰も思いつかないような、突拍子もない行動をとる事があったそうなので、そんな人ならひょっとして、大将自ら、単身で敵陣へ・・・て言うのもアリかも知れませんね。
結局、伝えられるような合戦があった証拠もなく、無かった証拠も無い以上、数少ない『甲陽軍鑑』の史料に頼らざるをえないのが現状ですが、歴史を楽しむ身としては、「あってほしいなぁヽ(´▽`)/」って感じでしょうか・・・
江戸時代の講談で、カッコよく彩られた世紀の合戦は、今年の大河ドラマのクライマックスも、きっとカッコよく彩ってくれる事でしょう。
ドラマなら、その方が断然オモシロイ・・・勘助さん、最高の見せ場ですからね。
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コメント
現代人の鈍って鈍りきった体力、筋力、脚力をもとに、この戦法は云々を語るのは無意味なことに感じます。昔は、自分の足と、せいぜいで馬しか交通手段がなかったのですから、ましてや戦いのために鍛練を重ねた武将は、体力も筋力も脚力も、現代人の想像を絶するところでしょう。
投稿: 通りすがり | 2012年8月 5日 (日) 06時26分
通りすがりさん、こんにちは~
そうですね。
昔は、歩き走りの基本がナンバですから、以前のナンバ歩きのページ>>にも書かせていただいたように、現代人より、遥かに早く、かつ、楽に移動できた事は確かです。
以前、亀岡から「明智越え」をした事もありますが、現代人の私には、とても真夜中に出て夜明けに本能寺につき、休憩無しで攻め込む体力は残っていませんでしたが、戦国の人はそれをやったわけですからね。
ただ、一方で、現代人の私たちは、科学が発達したおかげで、オリンピックなどで人間の限界に挑むアスリートたちの活躍を生中継で見る事もできますから、一般人には無い、脅威の体力、筋力、脚力を持った人たちの事を念頭に置いて想像する事も容易です。
このページも、オリンピックのアスリート並み、いや、それ以上の体力を持った人が何万人もぶつかる事を想像して書いておりますが、体力うんぬんよりも、別の意味で不可能の要素が多くあるのです。
「キツツキ戦法」の場合、あの距離を真夜中に気づかれず移動するには、当然、真っ暗闇を灯り無しで移動する事になりますし、昔は、真夜中に音が鳴る事はありませんから、少しの音が山々に響き渡る事になりますが、
この場合、万の数の人間の鎧のスレ合う音や轡の音も消さねばならない事になります…かなり難しいです。
また、「車がかりの戦法」の場合、本文にも書きましたように、相手にぶつかっている時以外の動きが、すべてムダな動きですし、相手にぶつかった最初で、すでに形が乱れます…ぶつかって、すぐに敵を倒せる者と、くんずほぐれつする者と、逆に、倒されてしまう者がいる中で、果たして、一周回って、また戻って来る間に、隊列を整える事ができるのでしょうか?
5年前の記事なので、書き足りないところもあり、今回、コメントにて捕捉ような書き込みをさせていただきましたが、今では、体力うんぬんではない事で不可能では無かったか?と考えておる次第です。
もちろん、あくまで、私の想像する個人的な意見です。
投稿: 茶々 | 2012年8月 5日 (日) 13時11分