みちのくの勇者・佐藤忠信の最期
文治二年(1186年)9月21日、源義経の四天王の一人・佐藤忠信が、壮絶な最期を遂げました。
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佐藤忠信(ただのぶ)は、打倒・平家の旗揚げをした兄・源頼朝(みなもとのよりとも)のもとへ馳せ参じる弟=源義経(みなもとのよしつね)に、当時、身を寄せていた奥州・平泉の藤原秀衡(ひでひら)(2月10日参照>>)が与えてくれた家臣、佐藤兄弟の弟のほうです。
兄の嗣信(つぐのぶ・継信)は、平家を相手にした屋島の戦いで、義経めがけて飛んできた矢を、身を挺して防ぎ、主君のために命を捨てました(2月19日参照>>)。
その後、兄・頼朝と不和になって(5月24日参照>>)追われる身となった義経(10月11日参照>>)とともに逃亡し、潜伏先の吉野山で、敵に囲まれた時の絶体絶命のピンチで、忠信は、殿(しんがり)と努め、見事、主君・義経を遠方へ逃がす事に成功した話までは、すでに、このブログで書かせていただきました(【佐藤忠信・吉野山奮戦記】へ>>)。
今日のお話はその続きなのですが、一応、正史とされる歴史では、忠信の最期は「文治二年9月21日、中御門東洞院で首をはねられた(享年25歳)」となっています。
しかし、例のごとく『義経記』では同じ年の1月6日に28歳で・・・そして、死に様も壮絶な自刃となっていて微妙に違うのですが、今日は、よりドラマチックな『義経記』のほうの忠信の最期をご紹介させていただきます。
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さて、吉野山にて追手を煙に巻いた忠信・・・義経一行も、「おそらく遠くに逃げることができたであろう」という事で、単身、京の都の舞い戻ります。
実は、彼は都に、愛する人を残したままでした。
それは、四条室町に住む娘・かや。
追われる身となって、あわただしく都を落ち、彼女には、ちゃんとした挨拶も無しに別れたままでした。
忠信が彼女の家を訪ねると・・・
「よう、おいでくれやした~、ウチは、もう、アンタを放しまへんえ~」
と、落人となってしまった彼を、やさしく迎え入れてくれます。
出された酒に舌鼓を打ちながら、ひとときのやすらぎを覚える忠信・・・。
そう言えば、ここしばらく、こんなゆっくりとした時間を過ごした事はありませんでした。
疲れもあって、その心地よさのまま、いつしか眠りに入ってしまいます。
しばらくして・・・
「旦那さん!起きとくれやす!」
かやの下女に揺り動かされ、目覚める忠信。
「旦那さん、敵が寄せて参ります」
耳をすませると、馬のひずめの音・・・鎧のすれあう音が聞き取れます。
あたりを見渡しても、かやの姿はありません。
その一瞬で、彼はすべてを悟りました・・・かやは、「自分を売ったのだ」と・・・。
そう、忠信がいない間に、彼女には新しい恋人ができていたのです。
それは、頼朝の側近である梶原景時(かじわらかげとき)の息子・三郎景久(かげひさ)でした。
(義経記では“三郎景久”となっていますが、正史としては景時の息子で“三郎”を名乗っていたのは“景茂”です)
ケンカ別れしたわけではありませんから、かやにとって忠信は、未だ愛しい男でしたが、もはや気持ちは景久に傾きつつあり、なにより密告の褒美に目がくらんだのです。
忠信にしこたまお酒を飲ませて、ぐっすりと眠らせ、彼女は新恋人・景久のもとへ走り、忠信が自分の家に潜んでいる事を告げました。
しかし、実はこの忠信を囲んでいる兵・・・景久の軍勢ではありません。
かやから話を聞いた景久・・・彼は、とっくの昔に、かやと忠信の関係を知っていたのですが、それを承知で、元恋人の居場所を密告してきた彼女が不愉快でしかたなかったのです。
恩賞に目がくらんで、愛しい男を売る女を腹立たしく思い、売られた忠信が哀れでしかなたく、その話は聞かなかった事にして、その情報を握り潰したのです。
しかし、すでに恩賞に目がくらみまくりのかやは、行動を起こさない景久に見切りをつけ、今度は、江間小四郎(えまのこしろう=北条政子の弟=北条義時)へ知らせに行きます。
義時は、彼女にも、忠信にも、何の情もありませんから、早速、200騎の兵を率いて出陣し、かやの家を包囲したというワケです。
さて・・・その義時の軍勢に囲まれた忠信・・・しかも、大事な刀はかやが持って行ってしまって、完全に丸腰・・・
しかし、絶体絶命のピンチは初めての経験ではありません。
吉野山のあの時、一度、命は無いものとの覚悟を決めた瞬間がありました。
もちろん、それ以前の様々な合戦でも、修羅場は何度もくぐり抜けています。
一旦、諦めた上での拾った命・・・もう、惜しくはありませんが、今更、犬死にするのはもったいない。
忠信は、建物の天井を破り、屋根へと抜け、屋根づたいに走ってから道へと飛び降ります。
「逃げたゾ!追え~!」
・・・という声とともに、雨のように降り注ぐ矢をくぐって逃げる忠信。
200の軍勢は右往左往します。
そう、ここが、いつも合戦が行われるような河原や原っぱではない事が、忠信にはラッキーでした。
京都の街中・・・狭い路地裏・・・あちこちに無造作に停められている荷車や牛馬によって、200もの軍勢はなかなか身動きがとれません。
とうとう忠信を見失ってしまう北条勢・・・。
ただ・・・忠信はその事に気づいていませんでした。
このまま逃げれば、彼はひょっとしたら助かったかも知れません。
しかし、彼は、もうすでに北条の兵に、四方を囲まれているものだと思い込んでいたのです。
「どうせ死ぬなら、主君・義経と、そして、心許しあった仲間たちと暮らしたあの堀川の屋敷で死にたい・・・」
そんな気持ちが、彼の足を堀川へと向けさせました。
今は住む人もない堀川のお屋敷は、荒れ果て、ちりは積もり、そこかしこにクモの巣がありました。
すだれを斬って部屋の中に入り、腰をおろし、考えるのは「最期は、武士として、思う存分戦って死にたい」という事。
それで、ふと、思い出したのです。
まさかの時のために、お屋敷の屋根裏に鎧と弓矢を残しておいた事を・・・。
天井を開けて、覗き込む忠信・・・すでに白々と明けた朝の光が屋根の隙間から差込み、兜の星が輝くのを確認し、心が踊るのを感じました。
「これで、思う存分戦える!」
彼は、武装し、北条勢がやってくるのを待ち構えます。
その頃、忠信が堀川の屋敷にいる事を探り当てた北条勢・・・先陣が庭へと突入します。
忠信が、縁側から庭石の上へ飛び降り、思いっきり引いた弓で矢を射かけると、またたく間に先頭の3騎を射落としました。
後ずさりする軍勢に、
「腰抜けか!敵は5騎も10騎もいるわけじゃないぞ!たった1騎だぞ!」
と言い放ちます。
しかし、それこそ、たった一人です。
矢はすぐに底をついてしまいました。
今度は刀をとって、多勢の中に乱入し、あたりかまわず斬りまくりです。
馬も兵も、大勢死傷しますが、彼の鎧にも、もはや、ハリネズミのように矢が刺さっていました。
中には、鎧を突き破って、かなりの深手になっている事は、自分自身が一番よくわかります。
忠信は、再び縁側に立ち戻って、義時らを見下ろしながら・・・
「小四郎殿(義時の事)、真の勇者の腹斬る様子、後のためにも、ご覧なされ!この忠信の最期を鎌倉殿(頼朝の事)にも、しかとお伝え願いたい」
もののふの決断に、もう誰も手は出せません。
しん・・・と静まる堀川の屋敷。
忠信は、少しばかり念仏を唱えると・・・
『願以功徳!(がんにしくどく)』
(すべての人に幸福を・・・みたいな意味です)
と、叫んで、見事、割腹します。
しかし、まだ心臓は波打ち、呼吸は続きます。
「1本の矢で死ぬ者もいるというのに、これでもまだ死ねないとは・・・これも義経殿を思うあまり死にきれないのかもしれん・・・ならば、この殿の太刀で・・・」
・・・と、かたわらにあった太刀を掴んで立ち上がり、太刀先を口に含んで、前へと倒れ込み、それっきり動かなくなりました。
大いなる夢を抱いて、義経とともに故郷・平泉を発ったあの日から、わずか6年・・・。
兄を失った悲しみも・・・
平家を倒した喜びも・・・
決死で努めた殿(しんがり)も・・・
そして、その命を奪う事になった最後の恋も・・・
彼の人生の中で、最高の喜びを味わった時期は、かやという女と過ごしたわずか数ヶ月間でしかなかったかも知れませんが、その生きた証しはしっかりと残りました。
文治二年(1186年)9月21日、わずか25歳のみちのくの勇者は、その生涯を華々しく閉じました。
かやの家にて、響くくつわの音・・・迫る人影・・・
武装する前の姿で・・・
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コメント
逃げまくってる?!。これで強いといえるんですか?
投稿: ゆうと | 2012年4月 6日 (金) 19時09分
ゆうとさん、
だって、1人VS軍隊ですもの…勝てるのはランボーか冴羽獠くらいです。
投稿: 茶々 | 2012年4月 7日 (土) 01時41分
逃げたらはじですよ!
投稿: ゆうと | 2012年4月 7日 (土) 06時58分
いえいえ、ゆうとさん…
勝てぬ戦は、やらぬのが、孫子の時代からの兵法の鉄則です。
「百戦百勝善ならず」
兵法「三十六計逃げるに如かず 」ですよ。
投稿: 茶々 | 2012年4月 7日 (土) 17時40分