長谷堂の戦い~直江兼続・孤軍奮闘!
慶長五年(1600年)9月15日は関ヶ原の合戦・・・そして、天正七年(1579年)の9月15日は徳川家康の長男・信康さんのご命日・・・それに加えて、関ヶ原の前後には、前夜祭や反省会なる記事を書いてしまったもので、すっかり遅くなってしまいましたが、この合戦はしばらくの間継続中・・・という事で、今日は、慶長五年9月15日・・・関ヶ原の合戦と同じ日に勃発した『出羽の関ヶ原・長谷堂の戦い』について書かせていただきます。
・・・・・・・・・
今日の主役は、何と言っても上杉景勝の重臣・直江兼続(かねつぐ)さん。
実は、このかた・・・2009年の大河ドラマの主役に決定し、おそらく再来年は、このネット上でもかなり話題に上ると思いますが、今はまだ「それ、誰?」とお思いのかたも多いかも知れません。
ただ、このかたの兜のデザインは、歴史好きの間ではかなり有名で、真正面に「愛」の文字をドッカ~ンと着けたユニークな物。
戦国時代ではめずらしく、側室を持たない、奥さん一筋の愛を貫いたお方でございます・・・と言いたいところですが、単に気が強い年上の嫁さんが怖かっただけかも・・・。
兼続は、越後・長尾氏の家臣・樋口兼豊の息子として生まれ、直江景綱の娘・お船の婿養子(やっぱり・・・カカア天下?)になって直江姓を継ぎます。
御館の乱(3月17日参照>>)に勝利して、上杉謙信の後を継いだ景勝に仕えますが、景勝は彼に多大なる信頼を寄せていて、この関ヶ原の頃は重臣中の重臣・筆頭でした。
景勝の持つ120万石のうち、3分の1に当たる米沢30万石を、兼続に預けている事を見ても、その信頼度がわかるというものです。
そんな兼続は、石田三成とも関係が深かったようです。
どうやら、三成が豊臣秀吉の名代で会津にやってきた時、二人は意気投合したようで、その後も交流を続けていました。
やがて、秀吉の死・・・。
五大老の一人であった景勝は、徳川家康の横行な態度に嫌気がさし、陸奥・会津城へ戻ってからは、上洛命令を拒み続け、城郭の修理や武器の購入、食糧の備蓄など、領内の整備に力を入れました。
その行動が、家康・挙兵の大義名分となるのです。
家康は、「上杉に謀反の疑いあり」と、軍勢を率いて『会津征伐』に向かう事になります。
これは、「自分が畿内を離れれば石田三成が何か行動を起こすのではないか?」という家康のたくらみであったと思われます。(4月1日参照>>)(4月14日参照>>)
豊臣家を潰しはしたいけれど、自分のほうから兵を挙げれば、謀反になってしまいますからね。
先ほども書いたように、兼続とと三成が仲が良かった事から、すでにこの時、三成と上杉の密約が交わされていたという説もありますが、「反家康」の観点で一致していた事は確かですが、実際に約束されていたかどうかは、さだかではありません。
そんな中、最初は景勝に理解を示していた隣国・出羽の山形城主・最上義光(よしあき)が徳川方につき、家康の会津征伐に加わる事を明言します。
その事を知った景勝は、「家康の大軍がやってくる前に・・・」とばかりに、兼続に命じて義光の持ち城である出羽・長谷堂城を攻めるのです。
ご存知のように、家康がいなくなった伏見城を三成が攻めたのが7月19日(伏見城落城を参照>>)。
一方、その頃江戸城にいた家康は、7月21日に会津に向けて一旦江戸城を出発しますが、その翌日には、伏見城・攻撃の知らせが届いたと思われ、23日には会津攻めを中止し、義光宛てに「御出陣無用」の手紙を送っています(7月24日参照>>)。
しかし、その事をまだ知らない兼続らは、慶長五年(1600年)9月15日、そう、あの関ヶ原の合戦があったその日に、長谷堂城の包囲を完了するのです(9月9日参照>>)。
包囲された長谷堂城では、志村光安らが籠城していましたが、兼続らは、城攻め・・・というよりは、義光が次々と送り出してくる援軍との野戦が主流でした(9月16日参照>>)。
一進一退を繰り返しながら、お互いに大打撃を与える事なく進んでいたこの合戦でしたが、やがて9月の終わり頃には、関ヶ原での西軍の敗戦が伝えられる事となります。
そうなれば、当然のごとく東軍側である最上軍の士気は高まります。
しかも、関ヶ原の状況を聞きつけた奥州の伊達政宗も、義光に援軍を派遣してくるという事態に至って、10月1日、兼続はやむなく兵を引き揚げる事となります。(10月1日参照>>)】
こうして半月にわたった出羽での戦闘は、ここに終結しましたが、兼続には、まだ重要な仕事が残っていました。
そう、上杉家の存亡です。
三成寄りだった兼続は、反・家康の気持ちも強く、それまで、かなり過激な発言をしていました。
しかし、天下が徳川に傾いた今となっては、その事が彼に重く圧し掛かってきます。
「このままでは、上杉家の存続が危ない」
と感じた彼は、翌年の春になって、謝罪のために京都に赴きます。
武士の責任の取り方という物は、本来なら「死んでお詫びをする」というのが順当なところではありますが、彼は死を選ばず、罪のすべてを一身に背負って生きる事で責任を取ろうとしたのです。
彼の、命を賭けた交渉は、家康の心を動かします。
流罪になるはずだった景勝への処分は白紙に・・・大幅な減封はあったものの、米沢30万石が残り、上杉家は徳川体制のもと、米沢藩として生き残る事になるのです(11月28日参照>>)。
猛将として名を馳せた兼続は、その後は戦ではなく、領国の経営に腕を振るう事になりますが、彼は、死ぬまで関ヶ原合戦について語る事はなかったそうです。
今日のイラストは、
やはり孤軍奮闘する『愛の兜の直江兼続さん』
ちょっと少年っぽくなってしまいましたが、誰しも若い頃はあるので・・・そてにしても、「愛」がデカイ・・・
ところで、戦国時代に愛なんて、何か艶っぽい気がしますが、おそらく、これは愛宕神社の愛・・・
【愛宕神社のお話】(1月24日参照>>)で、書かせていただいているように、愛宕山の本尊は勝軍地蔵なので、愛宕神社の愛なら、甲に掲げても、まったく不思議ではなく、戦国武将としては、むしろ王道でしょう。
あの徳川家康も、この関ヶ原の合戦を期に、天下取りへと向かう中、江戸の城下町整備で真っ先に行ったのは、京都の愛宕権現を分霊して江戸にも愛宕神社を造る事でしたからね。
でも、大河ドラマでは、愛あふれるやさしい人として描かれるんでしょうね・・・まぁ、ドラマなら、それもアリかも。
.
「 家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア(2023.11.25)
- 徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方(2023.08.22)
- 徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局(2023.06.12)
- 加賀百万石の基礎を築いた前田家家老・村井長頼(2022.10.26)
コメント