盛者必衰~藤原仲麻呂の乱
天平宝字八年(764年)9月11日、奈良の都を震撼させた『藤原仲麻呂の乱』が発覚しました。
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昨年の10月に、歴史好きをワクワクさせる大きなニュースがありました。
滋賀県大津市で、奈良時代のハイウェイ「田原道」と思われる大規模な道路跡が発見されたのです。
発掘調査から幅18mもあったと思われるこの道は、奈良の平城京から近江へと続く道・・・。
時の権力者・藤原仲麻呂は、若い頃、近江の国守として派遣され、10年以上も、この近江で暮らしました。
彼にとって、第2の故郷だった近江に、時の天皇・第47代淳仁天皇を招いて『保良宮(ほらのみや)』と称し、いずれは、そこを都にしたいと考えていたのです。
『田原道』は、まさに次代の都のメインストリートにふさわしい道でした。
しかし、天平宝字八年(764年)9月11日、事件は起こります。
朝廷は、あの正倉院から大量の武器を持ち出して、このメインストリートを封鎖します。
追われるのは、クーデター計画が発覚した藤原仲麻呂・・・その人。
彼は、自らが敷いたこの道を行く事はできず、ただ、ひらすら北陸道を北へ逃亡するのです。
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藤原仲麻呂は、あの藤原氏出身で初の皇后となった光明皇后の甥っ子。
権力を一手に握っていた兄たちを、流行の天然痘で失ってしまった光明皇后は、才知に長けた甥っ子の仲麻呂に期待します。
もともと持っていた自身の政治力と、皇后というバックを持った仲麻呂は、破竹の勢いで出世街道まっしぐら。
やがて、第45代・聖武天皇が亡くなると、皇后と仲麻呂は、藤原氏の権力を手放さないためにもと、娘を第46代・孝謙天皇として即位させます。
それまでの女性天皇が、次期天皇候補が幼い間だけの中継ぎの役割だったのと違って、この孝謙天皇は藤原氏の期待を一心に背負った女帝。
後継ぎが男系男子に限られている天皇家では、彼女は結婚する事も、子供を生む事も許されません。
そんな彼女は、目の前にいた頼れる従兄弟に夢中になってしまいます。
政界に君臨する光明皇太后と孝謙天皇・・・ふたりの女性から目をかけられた仲麻呂は、ますます権力の頂点へ・・・。
そんな中、わずかに残っていた反仲麻呂派の重臣たちの「仲麻呂暗殺計画」が発覚!・・・
『橘奈良麻呂の乱』(7月4日参照>>)と呼ばれるこの乱で、名だたる名門の家柄の重臣たちが逮捕&死刑となり、逆に仲麻呂の天下を完全な物にしていまいます。
仲麻呂にベタ惚れの孝謙天皇は、彼の言うがままに退位して太上天皇となり、今度は彼が思い通りに操れる第47代・淳仁天皇が誕生します。
仲麻呂は、自ら『恵美押勝(えみのおしかつ)』(「恵美」は人民を恵みに導く美、「押勝」は乱を押さえて勝ったという意味)と名を改め、先の乱で邪魔者が一掃された政界は、仲麻呂の腹心・家族で固められ、繁栄の頂点に君臨します。
しかし、ここを頂点として彼の人生は下り坂を転げ始めるのです。
まず、最初の転機は、天平宝字四年(760年)の光明皇太后の死(6月7日参照>>)。
それは、皇太后の保護を受けていた仲麻呂よりも、娘の孝謙太上天皇への影響が大きかったのです。
独身女性にとって、その母の存在という物は、年齢に関係なく大きい物で、孝謙太上天皇の受けたショックはかなりのものでした。
すべての権力を欲しいがままにしたとは言え、いや、権力を握っている者だからこそ、感じる空しさ・・・埋められない心の空洞を、わずかに埋めていてくれた母・光明皇太后・・・孝謙太上天皇の心は暗く沈みきっていまいます。
それを、愛する仲麻呂に埋めてもらおうと、彼のほうを見れば・・・彼は新天皇と、新しい近江の都(冒頭に書いた保良宮)の構想に夢中です。
いつしか、病に臥せってしまう孝謙太上天皇・・・そんな彼女の病気治療のために呼ばれた僧が道鏡(どうきょう)でした。
道鏡は、儒教にも通じ、仏法に長け、サンスクリット語も理解する有能な人物・・・そんな彼が、彼女の回復を願って、朝な夕なにやさしく看病してくれます。
そう、彼女は、もう一人の頼れる男を見つけてしまいました。
こういう時、長年独身を貫いてきた免疫のない女性というものは、ブレーキが効かないもので・・・時に孝謙太上天皇・44歳。
お相手の道鏡は、彼女より12~3歳年上でしょうか?
人間いくつになっても萌える時は萌えるのです。
そうなると、彼女の病気はみるみる回復に向かい、純粋な少女のまま大人になったような彼女は、人目もはばからず道鏡にラブラブ光線を浴びせまくり、宮廷内も、二人の噂で持ちきりとなります。
仲麻呂は「しまった!」と思ったに違いありません。
あわてて、淳仁天皇の名を借りて、二人の宮廷内でのあからさまな大胆行動を批判しますが、時すでに遅し・・・彼女の心の中は、もう道鏡でいっぱい。
逆に、「変な想像はやめてや!私らは、な~んも悪い事やってないし」と反発されてしまいます。
そして、母の死から二年後の天平宝字六年(762年)5月、完全に立ち直った孝謙太上天皇は、それまで住んでいた保良宮の宮殿を出て、平城京に戻るのです。
この行動は、仲麻呂への完全なる決別宣言ですね。
そして、翌月の6月には、平城宮の朝堂院に重臣たちを集め、高らかに復活宣言します。
「こうなったら、帝には、お祭りや神事なんかの細々した事だけやってもらって、国の大事な事や賞罰は私が決めます!」と・・・。
同時に、かの道鏡は、公家の大納言に相当する『少僧都(しょうそうず)』という位に出世します。
もう、完全に立場逆転。
しかし、それでも仲麻呂は、まだ淳仁天皇が天皇の位のある事を利用して、息子たちを越前(福井県)と美濃(岐阜県)の国守にして、愛発(あらら)の関と不破(ふわ)の関の2ヶ所の関所を押さえ、さらに、唐の情勢が不安定な事を理由に、「この機会に新羅を攻める」と称して大規模な兵の動員を命令する書状をばら撒きます。
この命令書が孝謙太上天皇のもとに密告されたのが、天平宝字八年(764年)9月11日・・・この兵の動員を謀反の準備と判断し、早速、仲麻呂の邸宅に太上天皇の使いを派遣して、官位の剥奪と藤原の姓を没収を宣告します。
仲麻呂と、その家族は、夜のうちに屋敷を脱出し、第2の故郷・近江へと逃亡・・・逃げる仲麻呂に、追う太上天皇軍。
皮肉にも、保良宮の造営のために、仲麻呂が整備した新しい道を使って、太上天皇軍は楽々と仲麻呂に追いつく事になるのです。
逃走から8日後の9月18日・・・仲麻呂は、琵琶湖上の船の上で、彼は、太上天皇軍の兵士に斬殺されます。
仲麻呂が名乗った恵美押勝という名前・・・一説には、
「あなたの顔を見ていると自然に微笑みがこぼれてくる。
私は、いつも、あなたの強い押しに負けてしまう。
だから・・・
あなたには恵美(笑みの)押勝という名前をア・ゲ・ル」
と、孝謙天皇が言ったからだとか・・・。
皇太后と女帝・・・二人から寵愛を受けた彼は、一夜にして逆賊となって、その生涯を閉じるのです。
逃亡の果てに、彼の最後に見た風景は、こんな感じだったのでしょうか?
かつて、一度でも愛した男を、死に追いやった孝謙天皇・・・
それは、彼女が特別だったのか?
仲麻呂が特別だったのか?
それとも、二人の恋が特別だったのでしょうか?
恵美押勝こと藤原仲麻呂がいなくなって、次にトントン拍子に出世するのは、僧・道鏡・・・しかし、やはり盛者必衰・・・道鏡も・・・っと、このお話の続きは9月25日【和気清麻呂、大隅へ流罪】へどうぞ>>
淡路への流罪となってしまう淳仁天皇については10月23日:【没後・1105年経て天皇に~悲しみの淳仁天皇】へ>>
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コメント
今頃ですが・・この仲麻呂さんカッコいいですね~♪
なんだか、乱れた髪が色っぽいです・・ふふふふ・・。
破滅する人を「カッコイイ」なんていうのも悪いけど、仲麻呂は、釈超空の時代から美男子に書く人が多いですものねえ・・。
投稿: 乱読おばさん | 2007年9月16日 (日) 12時04分
おばさまに、カッコいいって言っていただけるなんて光栄です。
破滅するからこそ惹かれるのかも・・・。
平家物語の公達も、みんな男前ですもんね。
投稿: 茶々 | 2007年9月16日 (日) 13時00分